3-2⊕
時計塔の時針が真横に向き、九度の鐘が、沈んだ響きを落とした。
黒の姫君は、その音を数えるように、瞳を細めて耳を澄ませる。
無彩の世界に、最初の『色』が芽吹く。
それは──赤だ。
鮮血のようでありながら、どこかあたたかい。
凍てついた心をそっと揺らすような、烈しくも優しい赤だった。
その色は、塔に絡まるツタの先端へ染みわたり、やがてひとつ、薔薇の蕾が姿を現す。
まだ閉じたその花弁から、甘く危うい香りが漂った。
まるで、封じ込められていた想いが、ひとひら息を吹き返したかのように。
姫帝は静かに目を細めた。
窓辺には、マホガニーのティーテーブルとロッキングチェア。
この無彩の世界では、茶も銀もただ灰色に沈んでいる。
けれど、彼女の手にあるカップの湯気を立てるホットチョコレートだけは、どこか温もりを残していた。
「……やっと、ひとつ目の色ね」
それは、待ち続けていた何かへの静かな応答のように、独り言のように落とされた。
「そうだね……」
黒の姫君が、囁くように答える。
彼女は細い脚をぶらぶらと揺らしながら、ホットミルクを口に含み、どこかくすぐったそうに笑った。
「ここさ、ずっと真っ白で、真っ黒だったよね。冷たくて、止まってて、全部を拒んでた」
「それでも、目覚めた」
「……そうみたい、だね」
少し複雑そうな声音で黒の姫君が肯定する。姫帝は頷かず、ただ窓の外に広がる幻影を見つめた。
その深層には、揺らめく記憶の断片が沈んでいる。
「……肉体を失ったら、魂はどこへ行くのかしらね」
ぽつりと落とされた言葉に、黒の姫君がミルクを抱えたまま首を傾げた。
「ん〜……天国かな。でも、こんなに色がないなら──ただ眠ってるだけ、かも」
その髪を、姫帝がそっと指先で撫でる。
黒く艶やかな髪は、まるで夜を連れているようだった。
「私もかつて、一度命を奪われたことがあるの。……残酷な恋、奇妙な愛が行き着いた先で」
姫帝は椅子の背にもたれ、瞼を閉じる。
過去という遠い場所へと、意識を沈めていく。
「ねえ、恋って憎しみに変わるの?」
「どうかしらね。……もう忘れてしまったわ。昔のことですもの」
姫帝は瞼を開けると、黒の姫君に向けて穏やかに笑った。
ホットチョコレートが純銀のティースプーンから滑り落ち、カップに沈む。
それをすくって、ひと口。
甘さと苦さの入り混じる味が、静かに広がる。
「恋愛は、甘くて苦いの。このチョコレートのようにね。愛は、何かを奪うもの。与えるためには、何かを犠牲にしなければならない。真実の愛は、何かを失わなければ叶わない。命かもしれないし、心かもしれない。──でも、必ず、何かを“流す”の」
「犠牲……? 流すって、何を?」
「真実の愛は、自分の何かを棄てて、ようやく差し出せるもの。……彼女が今、選ぼうとしているのは、自らの命よ」
黒の姫君は、ミルクを一口飲んでから言った。
「それじゃ、彼女は……どこへ向かってるの?」
「それはわからないわ。ただ、破滅へ向かっていることだけは確か。……愛ゆえにね」
沈黙が落ちる。
やがて、姫帝の視線が、一枚の絵画へと滑っていく。
それは、一人の男の肖像だった。
白銀の髪に、凛とした面差し。どこか穏やかな微笑を湛えている。
姫帝はその笑顔から目を逸らし、静かに呟く。
「……かつて、人間の女を愛した男がいた。私の息子のひとりだった。夜の棲人としての生を捨て、彼女と暮らし、子を成し、血を分け、森の奥で慎ましく生きた。けれど、愛は彼を救わなかった。狩人の放った矢が彼を貫き、魂はその体を離れたわ。残されたのは、彼女と、そして──娘」
「うん……あの子だよね」
「あの子はその母さえ失った。孤独だったの。だから、この世界には……色が少なかった」
姫帝はカップをテーブルに戻し、もう一度、窓の外の幻影に目をやる。
「でも、色が戻り始めた。あの子が、その目を開き、父の愛が残したものを見据えることができるなら……この先の道は、まだ変えられるかもしれない」
「でも、私たちは手を出しちゃいけないの?」
黒の姫君の問いに、姫帝は微笑んだ。
そっと手を伸ばし、彼女の胸の中心──鼓動の奥に指を添える。
「あなたのここは、正直ね。けれど、まだその時じゃない」
「その時って、いつ?」
「さあ……今はただ、見届けるだけね」
窓の外、深闇の中にひとつの光景が浮かび上がる。
青く繁った木々、射し込む陽の光。その中を、白い姿が静かに通り過ぎていく。
「──死が二人を分かつことのないように。けれど、彼女がそれを選ぶのなら、私たちは……ただ、見送るしかない。それでも、願わずにはいられないの。望むままであれと」
そっと、祈るように。
◆
一羽の白鴉──いや、白い吸血鬼がコンクリートの巨樹の枝から飛び立ってから、すでに数刻が経っていた。
空に不気味な顔を覗かせていた紅月は沈み、木々の隙間から射し込む陽光が、深緑の奥地を淡く照らし出す。
深憂はまぶしさにうっすらと目を開き、静かに歩みを進めていた。
イグドラシルを飛び立った後、彼女は林檎らが召集した抹殺者達《Negators》の追撃を逃れ、森彼方市の郊外にある樹海まで辿り着いていた。追撃の最中、彼らが放つ銃弾が何度も彼女を貫いた。
紅に染まっていたその瞳は、今や本来の澄んだ蒼へと戻っている。空には小望月の姿もなく、吸血鬼の力を使えない今、空を飛ぶことはできなかった。
(撃たれた傷は、もう塞がってる……。力は使えないけど……まだ、歩ける)
心の中で自分を励ましながら、深憂は細い足を一歩一歩踏み出す。背後から迫る死の気配を振り切るように。
だがその足取りはおぼつかず、瞳に溜まった涙が、視界を滲ませていた。
「もう、町には戻れない。あの人達がやって来る。お家を変えなくちゃいけない。どこか遠くへ行こう、誰も私の事を知らないどこかへ。あの人達の手が届かないどこかへ。そこでひっそりと静かに暮らすんだ……」
独り言のように呟きながら、草を掻き分けて進む。だが小石につまずいて倒れ、涙で濡れた頬に泥が付いた。
「逃げ……なきゃ……」
頬の痛みを無視して立ち上がり、また歩き出す。
──どうして、こんなことになってしまったのだろう。
今まで生きてきて、吸血鬼と騒がれて住んでいた場所から逃れるように引っ越したことはあっても、吸血鬼として狩られる立場になる事は無かった。
理不尽だよ、と深憂は心の中で愚痴をこぼす。
吸血鬼と騒がれて転居を繰り返したことはあっても、「狩られる側」になったのは初めてだった。
森彼方市で起きている吸血鬼事件に心当たりはない。なのに林檎とその医師は、深憂を『純血の吸血鬼』だと断じ、処断対象として襲いかかってきたのだ。
逃げる最中、何十発もの銃弾が身体を貫いたことを思い出す。だがその傷は、驚くほど短時間で癒えていた。
その異常な再生力を思えば、あの二人が自分を「吸血鬼」と決めつけたのも、無理のない話だと深憂は思った。
「なるほどね。つくづく、人間じゃないんだ。だから、人間の世界はこんなにも冷たいんだ……」
深憂は自嘲気味に、乾いた笑みを浮かべる。
どれくらい歩いたのだろうか──。ふと足元に目を落とせば、でこぼこ道に裸足を晒した脚は傷だらけで、転んだ際にできた擦り傷や泥で汚れていた。
足の皮はめくれ、歩くたびにズキズキと痛みが走る。
もはや、さっきのように傷を癒す力も働かない。それだけで、いかに自分が追い詰められているかがわかる。
今この状態でまた銃弾を受ければ──抹殺者たちの思惑通り、森彼方市を騒がす元凶として、自分はそのまま死ぬことになるのだ。
そんな深憂の不安をなぞるように、一陣の風が突然、樹海を駆け抜けた。
枝に繁った青葉たちがざわめき、木々全体が騒ぎ出す。
そのざわざわという耳障りな音は、深憂にはまるで木々が囁き合っている声のように聞こえた。
『吸血鬼が私たちの住処に迷い込んだ』
『吸血鬼を追い出せ』
『ヒトではないヒトに死を』
『ヒトではないヒトに死を』
風に揺れる葉音の中、そんな不気味な言葉が渦巻いているような錯覚に襲われる。
深憂は静かに息を吐いた。
「……私が吸血鬼の血を引いてさえいなければ」
呟きにも似た言葉は、葉擦れの音に紛れて消えていく。
もう、何かから逃げるように生きるのは嫌だった。
自分を押し殺して、ようやく築いたものが、たった一つのきっかけであっけなく崩れていく。そして、大切なものを失い、また逃げる。
──その繰り返しだった。
でも今回ばかりは、失ったものがあまりに大きすぎた。
大切な友達、やっと見つけた安らげる居場所、そして……誰よりも愛しくて、離れがたい彼。
「恭介君……」
ぽつりと名前を呼び、街のある方へと顔を向ける。
目の前には、きっと樹海の奥深く、どこまでも続く常緑の光景が広がっているのだろう。
だが──涙に滲んだ視界では、それすらも見えなかった。
深憂の心の瞳が映していたのは、朧げな最愛の人の笑顔だった。
優しく、穏やかで、見ているだけで胸の奥が温かくなる──そんな笑顔。だが、それをこの先、もう二度と独り占めすることはできないのだろう。
──できることなら、あの時、手を離したくなんてなかった。
けれど、その想いは、喉の奥で痛みに変わるだけだった。
胸の奥が張り裂けそうに疼いた。
でも、もう恭介には会えないと、深憂は自分に言い聞かせた。彼と一緒にいれば、きっと彼は自分を守ろうとする。それが彼だから。
だが、それこそが、彼を死へと導く道になるのは明らかだった。いずれ、あの抹殺者達の手によって、彼の命は無残に散ってしまう。
(だから私は嘘をついた。手を離してしまったんだ……守るために)
イグドラシルを飛び去ったあの瞬間、恭介はどんな表情をしていただろうか。
思い返すたび、胸がきしむ。振り返った一瞬に見えた彼の姿──
驚愕に見開かれた瞳、崩れ落ちる膝。まるで糸の切れた人形のように、茫然と立ち尽くしていた。
きっと彼も、今の自分と同じように、心にぽっかりと穴を空けていた。
事実を受け入れることも、拒絶することもできず、ただ呆然と。
──戻りたい。
また彼のもとへ帰って、『嘘だよ』と笑いたい。あの変わらぬ優しさで迎えてくれると信じたい。
……だけど。
彼に拒絶されるのが、怖かった。
だから、戻ることすらできない。
深憂は空を見上げた。涙のヴェール越しに滲む、水色の夜空と歪んだ月。かすれた声が、か細く洩れる。
「できることなら、恭介君のところへ戻りたい……。嘘だって言って、また隣で一緒に笑っていたい……。でも、それを願ったら、恭介君が……殺されちゃう」
ぽろぽろと涙が零れる。胸元を濡らすその雫は、彼女の想いの深さを映していた。
「あたしはただ、人間として、彼の手を握っていたかっただけ。温もりを感じていたかっただけ……それだけなのに」
言葉は次第に震え、嗚咽に変わる。
「どうして……どうして、あたしの心をこんなにも乱すの。どうして、あたしをまた……孤独に戻すの……」
気づけば、深憂は足を止めていた。
じっと、蒼い瞳で月を睨む。その瞳は、怒りと悲しみを帯びて揺れていた。
「……人間じゃないものは、人間として生きちゃいけないの?あたしは、異物だから。受け入れてもらえないから。でも──初めて、受け入れてくれた人だったのに……! どうして、あなたは……彼を、あたしから奪おうとするの……!!」
拭っても、涙は止まらない。
その涙の源は、自分が「人間ではない」という一点で虐げられ続けた、彼女の深い絶望だった。
──もう、生きることを諦めるしかないのかもしれない。
大切なものを喪い、生きる理由を見失ったとき、人は生きることそのものを拒絶する。
「絶望」とは、すべての望みが断たれた状態をいう。
そしてその果てに残される、最後の「望み」が皮肉にも「死」だというのなら──
「……居るんでしょ……?」
深憂は誰もいない森の奥に、震える声で呼びかけた。
「あたしを、こんな冷たい世界から……解き放ってよ……! 連れてってよ……! 孤独も、悲しみもない、死の世界へ……!!」
涙に濡れた頬のまま、彼女は夜空に向かって最後の祈りを、哀切に叫んだ。
その刹那のことだった。
──Man is a Watch, wound up at first, but never Wound up again(人は時計。最初に一度巻かれたきり、二度と巻き直されることはない)
深憂の叫びに応えるかのように、女の歌声が静かに、しかし確かに樹海に響き渡った。
──Once down, He’s down for ever(一度止まれば、人は永遠に止まり続ける)
木々のざわめきに溶け込むように、その澄んだハスキーヴォイスは、空気すらも凍らせるような冷たさを帯びて場を支配していく。
──The Watch once down, all motions then do cease(時計も一度止まれば、すべての動きが止まる)
つむじ風が舞い、落ち葉が空へと踊った。
その渦の中心から、突如として声の主が姿を現す。
『……And Man’s Pulse stopt, All Passions sleep in Peace(心臓が止まれば、すべての情熱は静かに眠る)』
涙をぬぐい、顔を上げた深憂の前に立っていたのは、黒い戦闘服に身を包んだ二人の人物だった。
ひとりは短い黒髪から鋭く覗く漆黒の瞳を持つ少女。
その目には、底のない冷たさが宿っていた。
もうひとりは、口元に冷たい笑みを浮かべるイタリア系の男。
──林檎とロニだ。
「彼はあなたを庇って傷を負った。あなたは彼を守るために嘘をつき、そしてその果てに自ら死を選ぶ。まるで戯曲のような恋物語……愚かね」
林檎は静かに、深く憂いを帯びた声で呟いた。
彼女の視線は、ひざをついてうなだれる深憂を、冷然と見下ろしていた。
「Leaping《空間よ》」
そう唱えながら林檎は天に向かって掌を掲げた。
次の瞬間、周囲の大気が軋むように歪む。
揺らめく虚空がひび割れ、そこから林檎は一丁の拳銃を引き抜いた。
それは、まさしく魔術だった。
──彼女たちが突如として深憂の前に姿を現したのと、まったく同じ手段だ。
Leaping《空間跳躍》──空間の隙間を通じ、物理法則を超えて対象を瞬間移動させる魔術だ。
青黒く鈍い光を湛えた回転式拳銃。
重厚な存在感を放つそれを林檎は無言で構え、その銃口を、ゆっくりと深憂へ向けた。
「……でも、愚かだからこそ、その生き様は美しい。あなたたちの恋の悲劇には、それに相応しい幕を下ろしてあげる。あなたの死をもって」林檎はそう言い切り、銃口を下ろしたまま冷ややかに続ける。「……私がしてあげられる唯一の慈悲は、それくらいかしら」
「……意外と、優しいんだね」
深憂がぽろぽろと涙を流しながら笑った。
林檎は小さく肩をすくめる。
「あなたから見れば、私はただの悪役よ。恋路を断ち切る敵役。でも、これだけは言わせて。
『人でない者』と『人』の恋は、成り立たない。もし人として愛を貫きたいなら、人の世を脅かした罪を償い、来世で人間に生まれ変わることを願いなさい」
「……輪廻、か」
深憂の呟きに、林檎は短く頷く。
「そう、輪廻。他宗の教義だけど、私は信じているわ。……思想まで教皇庁の犬じゃないから」
「そう……」
深憂は視線を伏せたまま、静かに言葉を噛みしめた。
「……あなたの死を、私は無駄にはしない」
林檎が撃鉄を下ろす音が、静寂の中に微かに響く。
引き金に指を掛けた彼女の声には、わずかな敬意さえ滲んでいた。
「陽は昇った。吸血鬼であるあなたの力は今、最も弱まっている。この銀の弾丸で穿たれれば、魔力でももう癒せない。それでもなお身体を保っているあなたの魔力には……敬意を表するわ」
ゆっくりと、林檎の構えた銃口が下がり、深憂の胸元を正確に捉える。
「……でも、ここで終わり。
言い残すことはあるかしら」
銃口が左胸に向かうのを見ても、深憂は目を逸らさなかった。
涙を流したまま、真っ直ぐに林檎を見つめ続ける。
「あなたも……あたしと同じなんだね」
林檎の眉がぴくりと動いた。
「……同じ?」
「あなた、吸血鬼でしょ」
問いかけに、林檎はわずかに息を吐いた。
「……何のことかしら?」
冷たい視線を向け、とぼけてみせる林檎に、深憂は少しだけ声を強めた。
「それ、嘘だよね」
林檎は黙っていた。沈黙の中で一度、小さく溜息をつく。
「……勘がいいわね」
薄く笑んだ林檎に、深憂は静かに言葉を重ねた。
「牙が無いから最初は違うと思った。でも、さっきの……魔術でしょ? あれを使えるのは、吸血鬼だってママが言ってた」
その視線は真剣だった。林檎は一瞬だけ瞼を閉じる。そして──静かに言う。
「……私は吸血鬼が憎い。私の家族は奴らに殺された。そして私はその血を流れる呪いを植えつけられた。この汚れた身体を……ね。でも、心はまだ人間だと信じてる。だから私は、永遠を生きようとする吸血鬼に死を与えると誓った。教皇庁の命令ではなく、私自身の意思で、吸血鬼を狩ってきた」
「復讐を果たしたら、あなたはどうするの?」
林檎は答えなかった。しばらく沈黙したあと、ただ低く告げる。
「……今、命を狙われているあなたに話す必要はないわ」
「そっか……そう、だよね」
深憂は蒼い瞳を伏せた。
しばしの沈黙のあと、彼女は静かに両腕を広げた。
「……お別れだね」
「あなたの命の時計……ここで止めてあげる」
林檎の声が静かに告げる。銃口が深憂の胸元にぴたりと当てられた。
「……最後に、もう少しだけ。言わせて」
目を閉じたまま、深憂はぽつりと呟いた。
林檎は訝しげに目を細めたが、何も言わず、黙って様子をうかがう。
その沈黙を承諾と捉え、深憂は口を開いた。
「……私は、森彼方市の吸血鬼事件の犯人なんかじゃない」
「今さら何を言い出すのかしら」
「……それでも、あなたはあたしを殺すんでしょ」
「ええ。事件の犯人でなかったとしても、あなたは血の本能に従って人間を噛もうとした。それだけで処断の対象になる」
「……吸血鬼だから。恭介君を噛もうとしたから……か」
一呼吸。
これが、自分の最後の言葉になる。そう思った。
「……先に行ってるよ」
「……?」
林檎がわずかに眉を寄せた。
深憂はもう一度、今度ははっきりと告げる。
「……できたら、恭介君に伝えて。
『先に行ってるよ、またね』って」
「……そう」
林檎は頷くでもなく、否定するでもなく、ただその言葉を静かに受け止めた。
カチリ、と鋭い金属音が沈黙を切り裂くように空気に溶けた。
林檎は親指で撃鉄を起こし、まっすぐに深憂の胸に銃口を向ける。
林檎の表情は冷たくもあったが、その瞳の奥には、微かに慈しみの光が宿っていた。
今まさに死を与えようとしている少女。その涙に濡れた顔を、林檎はじっと見つめる。
そして、静かに言葉を送った。旅立ちの、その門出を見送るように。
「あなたの命の歯車は、ここで止まる。
現世の罪を悔い、改めなさい。そして──おいきなさい、神良深憂。……ごきげんよう」
引き金が落ち、撃鉄が音を立てて跳ねた。
樹海の静寂を、大仰な銃声が切り裂いた。
「くッ……うッッ……!」
銃弾が深憂の左胸に突き刺さる。
銀でできた剥き出しの弾丸は、心房に穴を開け、その中で潰れながらひしゃげた。
焼けつくような激痛が、胸の奥から全身へと駆け抜ける。
「……あ……あああアアアアァァァッ……ッッッ!!」
深憂が絶叫する。
それは、火に焼かれるような痛みだった。
身体が実際に燃えているわけではない。それでも、燃え盛る炎に全身を責め立てられているような感覚が、彼女を襲った。
「……ァァァッ──」
やがて、慟哭が静まっていく。
その代わりに、別の異変が、彼女の身体を蝕み始めた。
ピキッ──
耳に届いたのは、何かがひび割れる音。
頬に走った痛みと共に、白い肌に小さな亀裂が入った。
ピキ……ピキキッ──
乾いた砂岩が砕けるような音と共に、深憂の全身がひび割れていく。
頬の肉が、絹糸のような白銀の髪が、砂のように崩れ落ちていった。
「────」
指の間から零れ落ちていく砂を見下ろしながら、深憂はただ静かに目を伏せる。
それは、自分の肉体が崩れていく様だった。
──ああ、私はここで死ぬんだ。
もう苦しむことも、悲しむことも、ないんだ。
全身に広がる亀裂に身を任せ、灰となりゆく身体で、深憂はそっと顔を上げる。
その蒼い瞳が見つめるのは、果たしてどこへ続く空だったのか。
それとも、同じ空の下に生きる“誰か”だったのか。
こぼれる涙が、崩れかけた頬を伝い落ちる。
最後の言葉は、風に溶けるような囁きだった。
「……さよなら」
その瞬間。
砂で作られた人形が崩れ落ちるように──深憂の肉体は、白い灰と化して弾け飛んだ。
まるで、それが彼女の最後の言葉への応答であるかのように。
◆
「……何だ、今の音……?」
開け放たれたままのベランダの窓。
そこから遠くを見ていた恭介は、微かに銃声を聞いた気がして、目を凝らした。
視線の先、遥か遠くの樹海──“あの森”を見下ろす。
「あ……れ……なんだよ……。なんで……俺……涙……」
気づけば、頬が濡れていた。
自分がなぜ泣いているのか、恭介にはわからなかった。
それを確かめる術もなく、ただ、歪んで映る森のシルエットを黙って見つめる。
胸の奥に浮かんだのは、深憂の微笑み。
だがその面影は、彼の心に、整理のつかないわだかまりだけを残していった。




