3-1
月は沈み、再び陽は昇る。
窓から差し込む朝の光に照らされ、閉じた瞼の裏が薄赤く染まる。
(……眩しい。もう朝か)
冬の陽射しは夏ほど強くはないが、それでも十分に眠りを妨げるには足りる。
恭介は重い瞼を無理に持ち上げ、天井を見上げた。白く均質な天井材に、丸いドーム状の照明。見慣れた、変わりばえのない景色だった。
頭がぼんやりと重い。まるで貧血を起こしたかのように意識がぐらつき、体は汗でべっとりと濡れていた。張りついたシャツの感触が気持ち悪い。何より、起き上がる気力すら湧かない。
枕元に手を伸ばし、ベッド脇の目覚まし時計を探る。ディスプレイに表示された時刻は『7:50AM』。その横には『Sat』の文字。土曜日の朝だ。
「んん……」
シーツにくるまったまま、恭介は気だるげに呻いた。いつもと変わらない休日の朝。もう少しすれば、テレビを見ようと妹の陽子が部屋に押しかけてくるだろう。
朝は、苦手だ。特に休日の朝は、妹に付き合って子供向けアニメを観るより、このままベッドの重力に身を任せていたかった。
……だが、ふと。
(……ん?)
何かがおかしい。
ぼんやりとした意識の底に、違和感が沈んでいる。
何だ。何が、変なんだ?
思考を遡る――そして、ある記憶に触れた瞬間。
「……っ!?」
反射的に飛び起きた。
昨夜の記憶が、一気に脳内に蘇る。
吸血鬼、銃声、紅い月、彼女の裏切り……。まるで映画か悪夢のような、現実離れした出来事。
(あれは……夢だったのか?)
そっと、頬に指を当てる。昨日流した涙の跡などもう残っていないのに、無意識にそうしていた。
そして恭介は、ある「確認」を取る。
「まさか……」
視線を脚へ落とす。
昨夜、林檎に撃たれたはずの両膝。だがそこには、銃創も出血も見当たらない。皮膚は滑らかで、傷一つなかった。
思わず膝から崩れ落ちた。
絨毯に手をつき、揺れる視界の中で、息をつく。
風の冷たさ、彼女の温もり、牙が皮膚を突いた痛み、銃弾が肉を貫いた衝撃――。
どれも確かに「感じた」はずだった。
なのに、それらは全て現実には存在していない。
「……夢、だったのか。……はは……」
息が漏れるような乾いた笑いが出る。
その直後、胸の奥から安堵が溢れ出す。こんなにも心からホッとしたのは、いつ以来だろう。
思わず込み上げてきた涙に、目頭が熱くなる。
「お兄ちゃ~ん! 朝ご飯できたよ~! 起っきろ~!!」
突然、ドアが開き、妹の陽子がひょこっと顔を出す。
朝日が差し込む中、泣きながら笑っている兄の姿に、彼女は目を細めて小さく首をかしげた。
「どうしたの……? 変なお兄ちゃん」
◆
ほどなくして朝食を食べ終えたが、ベーコンエッグトースト一枚だけの朝食ではどうしても物足りなく感じ、恭介は冷蔵庫を漁っていた。目当ては肉類だったのだが、普段は朝食をがっつりと食べたいという欲求に駆られることなどなかった。しかし、今朝に限ってはやけに身体が肉を欲するのだ。身体の血の気が足りないような気分だ。
冷蔵庫に顔を突っ込んで、チルド室を物色する。袋入りのソーセージを見つけると、おもむろに中身を鷲掴みにしてフライパンに放り込んだ。
油を引いた熱々のフライパンの上で、ソーセージが時折ぷちっと破裂音を立てる。塩胡椒を振りかけながら、恭介は昨夜の夢の断片を思い返していた。
もし、あれが夢じゃないとしたら──納得のいかない点が多すぎる。
一つ目、「朝に目覚めた場所」。テレビを見ながら寝落ちしたなら、起きるのはリビングのはず。
二つ目、「着ていた服」。起きたら寝巻用のジャージだったが、昨日は外出前だった。ならば着ていたのは私服のはず。
三つ目、「脚の傷」。拳銃で撃たれていたはずの両脚は、綺麗なまま。傷一つなく、普通に動く。
──これが夢じゃなかったとしたら、逆におかしい。
「結局、昨日は活動できなかったね」
カウンター越しに陽子の声がキッチンの恭介に届いた。思考から引き戻され、彼が顔を上げると、フライパンの中のソーセージが香ばしい色に仕上がっていた。
ソファに腰掛けた陽子は、ホットミルクの入ったマグカップに口をつけている。メープルシロップと練乳が入ったという甘々な飲み物を、一口飲んでは「ふぅ」と幸せそうに息を漏らしていた。
炒め終わったソーセージをトーストの脇に盛りつけてリビングへ向かい、自分用のマグカップを手に取って立ったまま口をつける。ブラックコーヒーの苦味が口内にじわっと広がり、鼻先を通り抜ける香りがぼんやりした頭をようやく覚醒させる。
──この感覚こそ、「普段通りの朝」そのものだった。
よりにもよって、あんな悪夢を見た直後だからこそ、なおさら今の現実に感謝できる。心の底から、じんわりと。
陽子の横に腰を下ろし、テレビに目をやる。流れていたのは、海外アニメの朝枠。少し安心した恭介は、現実を確かめたくて口を開いた。
「なあ、俺って昨日どうしてた? 深憂さん、来てたっけ」
言いながら、ちょっとだけ自己嫌悪がよぎった。夢だったとしても、記憶がここまで曖昧とは。
「うーん、寝てたからわかんないよ。お兄ちゃんも途中で寝ちゃってたし、多分帰っちゃったんじゃない?」
「俺って……自分の部屋で寝てた?」
「うん。起きたら床に転がってたから、運んどいたよー」
「……じゃあ、着替えも?」
「もっちろん! 私服のままじゃ寝にくいでしょ? だから、ぜーんぶ脱がせて……」
言葉を途中で切り、陽子がいたずらっぽく「にひひ」と笑った。頬を朱に染めながら、明らかに何かを楽しんでいる様子。
恭介の手がポコンッと陽子の頭に軽くチョップを落とした。
「いたぁ〜いっ!」
「寝てる間に変なことするやつがあるか!」
もう片方の手でこめかみを押さえつつ、思わず天を仰ぐ。これは度しがたい。
「変なことなんかしてないもん! ……っていうか、ちゃんと手厚いケアしたし!」
「ケアってなんだ。簡潔に説明してみろ」
恭介がじと目で睨むと、陽子はまるで得意げに胸を張った。
「剥いた! 掴んだ! 立たせた! それから~……」
……うん。語弊しかない。
おそらくこれは、服を脱がせて、腕を引っ張って、床からベッドに寝かせ直した――という意味だろう。
が、陽子の言い回しはわざとらしく、どこか下品な方向に寄せてくる。わかんない人は、わかんなくていい。
「このアホ妹!」
反射的に、ポコンッと軽くチョップを落とそうとした。
「~~~~~~~っ」
陽子は目をぎゅっとつむり、何か重い雷でも落ちてくるのを待っているようだった。
だが次に彼女が感じたのは、それとはまったく別のものだった。
恭介は、そっと陽子の頭に手を置いた。
ふわりと髪を撫でると、陽子は戸惑ったように目を開ける。
その視線を受けながら、恭介は少しだけ困ったように、でもどこか優しい笑みを浮かべていた。
まったく、こいつは――
何を言ってもどこか憎めないのが、腹立たしい。
「……どうしたの?」
小首をかしげながら陽子が問いかける。
恭介は肩の力を抜き、ひとつ息をついて、ぽつりと答えた。
「いや……。普通の日常ってのは、案外ありがたいもんだと思ってさ」
「なにそれ、哲学?」
「違う。ただの感想だよ。陽子がいつも通りで良かった、ってだけだ」
テレビに目を戻しながら呟いたその言葉に、陽子は一拍置いてから「ふーん?」と首をかしげた。
しばらく考え込んでいたが──やがて何かをひらめいたように、にやりと笑う。
「そっか、じゃあ、もっと良い日常にしてあげる! 明日からは毎朝、お兄ちゃんのベッドに忍び込んで……」
その言葉を言い切る前に、三発目の軽いチョップが陽子の頭に落ちた。
「言わせるかッ!」
◆
昨夜の出来事は、やっぱり夢だった――そう考えるのが妥当だろう。
リビングで寝落ちしていた自分を、部屋まで運んだのは陽子だったという。その証言がある以上、あの夜の一連の出来事は、ただの夢、ということになる。
恭介はそう結論づけることにした。現実だったとしたら、色々と厄介すぎる。
ただ、そうなると問題がひとつ。兄妹揃って、待ち合わせの時間に爆睡していた計算になる。
わざわざ家まで来てくれた深憂は、玄関前で無視されて帰る羽目になったはずで――思い出すだけで胸がチクッと痛んだ。
「……深憂さん、怒ってないといいけど」
そうつぶやいたときには、もう彼女のマンションの前に立っていた。
通った回数はそう多くないのに、どこか落ち着く感覚がある。そのくせ、今日はドアがやけに冷たく感じられた。
LINEは既読がつかない。電話も何度かけても応答なしで、機械的な留守電の音声が流れるばかり。
無視されてるのか、それとも本当に気づいていないのか――わからない。でも、どちらにせよ嫌な沈黙だった。
チャイムを押す手が、一瞬ためらう。
深く息を吸って、気持ちを整えてから、指を伸ばす。いつも通りの一回押し。
だが、応答はなかった。
普段なら、すぐにインターホン越しに彼女の声が聞こえてくるはずだった。「なに?」「お疲れ」なんて、軽い調子で。
それが今日は、しんとした無音だけが流れる。
念のため、もう一度、そして三度目。
だが、中からは何の反応も返ってこなかった。
不安がじわじわと胸を侵食していく。まるで、じっとりと湿った空気のように。
気がつけば、手はドアノブにかかっていた。
ゆっくりと回してみると――鍵は掛かっていなかった。
かすかな音を立てて、ドアは静かに開く。
中には、見慣れた彼女の靴が並べられていた。玄関のたたきもいつも通り。
帰宅していないわけではなさそうだ。少しだけ、息をつく。
その奥、ガラス戸が半開きになっていて、1DKのダイニングがのぞいていた。
一歩、足を踏み入れる。
生活感の残る部屋。開きっぱなしのノート、テーブルに置かれたコップ、ソファには丸められたブランケット。
だが、そのどれもが静かすぎた。まるで、誰かが急にいなくなったあとの余韻だけが漂っているようだった。
「……深憂さん? 恭介だけど……いる?」
小さく声をかけてみるが、返事はなかった。
静寂だけが返ってくる。
室内を見回してみても、人の気配はどこにもない。
家具や小物はそのままに、ただ“彼女だけ”が消えた、そんな空間だった。
――本当に、いない。
恭介は胸の奥で、冷たいものがゆっくりと広がっていくのを感じていた。
(……昨夜のこと、本当に……夢じゃなかったのか?)
脳裏に焼きついた記憶がある。
深憂が、自分は吸血鬼だと告げたこと。
紅い月を背に、夜の空へ飛び立った彼女の姿。
現実じゃない、そう思いたい。でも、あの映像の生々しさは――夢にしては、あまりにもリアルすぎた。
もし、あれが現実だったとしたら。
今、彼女は“吸血鬼狩り”に命を狙われているかもしれない。そんな考えがよぎるだけで、胸がざわついた。
ふと、視線がベランダに向く。
開け放たれた窓。その脇で、カーテンが風に吹かれて揺れていた。




