2-7
音が鳴った──鐘の音だ。
彼女がそれを聞いたのは、この世界に足を踏み入れた瞬間だった。
靄に包まれていた視界が開け、広がっていたのは、白と黒──あるいは灰に染め分けられた、モノクロームの世界だった。
一つ、二つ、三つ……
鐘の音を数える。やがて十二の響きで鳴り終えると、世界はふたたび沈黙に包まれた。
モノクロの夜空を漂うように飛ぶ彼女は、音の鳴った方角へと視線を向ける。
そこに見えたのは──時計塔だ。
黒のキャンバスを裂くように、純白の線で描かれた塔が、空を突き刺すようにそびえていた。
彼女は速度を緩め、その塔の頂へと静かに舞い降りる。
色のない世界に、黒衣の少女が立った。
彼女は──黒の姫君と呼ばれていた。
いつからそう呼ばれるようになったのかは、もう思い出せない。
夜の棲人たちの間で、気づけばそう名づけられていた。
それが貴族世界での爵位なのか、伝説なのか、それとも単なる通称なのか。そんなことに彼女は興味を持たない。
自分はただ「自分」である──それ以上でも、それ以下でもなかった。
「……鐘が鳴ったね」
黒の姫君が、小さく呟く。
その声が空気を震わせた瞬間、塔に絡まるツタがわずかに揺れ、そこから一筋の白が伸びていく。
白銀の枝──このモノクロの世界には似つかわしくない、眩い光を放つ枝は、たちまち人の姿を象り、一人の女へと変わった。
彼女は──姫帝の通り名で呼ばれていた。
その名を得たのは、遠い昔。およそ千年ほども前のこと。
名誉だったのか、呪いだったのか──それすらもう思い出せない。
ただ、確かなのは、彼女がずっと「高貴なるもの」として在り続けてきたこと。
夜の棲人にとって、姫帝とは頂点──そして今も、それは変わらない。
「始まったのね……」
姫帝が静かに呟く。
その声に呼応するように、眠っていた時計塔の歯車が軋みを上げ、ゆっくりと動き出す。
カタカタ──カタカタ。
音を立てて歯車が回り始め、沈黙を乱すように、時の鼓動が響き出した。
「この世界……運命が動き出したんだね」
黒の姫君が言う。
「ええ。時が来たのよ」
「これから、どうなるの?」
「彼次第ね」
「……そう……」
二人の視線は、塔の窓辺から下界へと注がれる。
漆黒の霧に包まれた庭園──その中で、抱き合うふたりの男女の幻影が浮かんでいた。
黒の姫君は、じっとその光景を見つめる。
「これも……想定の内だったの?」
姫帝は、静かに頷いた。
「ええ。すべて、最初から決まっていた」
「……因果、ってやつ?」
「そうね」
姫帝の声は、夜の帳を撫でるように柔らかく響いた。
「この世界の多くの出来事は、ある段階までは定められているの。因果律が、すでに道すじを描いてしまっているのよ。あの子が目覚め、この世界が動き出すこと─―最初から、決まっていたわ」
「……それが運命ってことなんだよね」
黒の姫君は、不満げに、けれどどこか寂しげにも呟いた。
その様子に、姫帝がわずかに微笑む。
「でも、その先は……選ぶ者の手に委ねられるのよ」
「……そう、だね」
二人の視線の先、幻像の中には、白銀の髪の少女の姿が浮かんでいた。
「あの子は、ずっと孤独の中で生きてきた。そして、ひとりの少年と出会い、恋をした。それが、彼女自身が紡いだ因果」
「二人が恋に落ち、求め合うことが引き金になるってこと……?」
姫帝は、ゆっくりと首を横に振った。
「そうであり、そうではない。引き金は一つではないわ。巡り合った無数の糸が絡み合い、やがてひとつの結末へと紡がれていく」
「……それが運命を生む、ってことなんだ」
「ええ」
姫帝は、幻像の少女を静かに見つめた。
「あの子の運命は、いくつもの因果に引き寄せられて動き出した。そして今、その結果が、ひとつの終わりへと向かい始めている」
「どんな終わりになるのかな……」
黒の姫君が問いかける。
姫帝は、静かに首を振った。
「それは、わからない。私たちは──ただ、最後まで見届けることしかできないのよ」
小さく、風が吹く。
夜がふたりの髪を優しく揺らす。
「──でも、私は守りたい人がいるんだ」
黒の姫君が、静かに、それでもはっきりと告げる。
姫帝はその言葉に、柔らかく頷いた。
「ええ、私も。だからこそ──私たちも、動き出さなければならないわね。然るべき時に」
◆
「……結婚、する?」
かなり踏み込んだ質問だった。恭介は一瞬だけ、言葉を探すように黙り込んだ。
「……ああ。そうする」
言葉にした途端、不意に胸の奥がざわめいた。
本気だった。嘘なんかじゃない。
だが、その重さに、自分がまだちゃんと応えきれていない気もしていた──
しばしの沈黙。夜風がそっと木々を揺らす音だけが、二人のあいだを包む。
深憂がぽつりと呟く。
「恭介君……噛んでも、いい?」
その一言が、心の奥深くを射抜く。
鋭い、針のような牙が、彼の首筋にそっと寄せられる。息が触れる。体がびくりと震えた。
「君は私の心に届いた、初めての人なの。だから、永遠を誓って欲しい……」
恭介は息を呑んだ。火照った頬を冷やすように、額から冷たい汗が流れ落ちる。
(永遠……? それっ──―人間をやめる、ってことなのか……?)
彼女の牙を受け入れること。それはつまり、自分も彼女と同じ『何か』になるということ。
一瞬、甘い覚悟と共に首を差し出そうとした。だが──
胸の奥からせり上がってくる、名状しがたい恐怖。
(本当に俺は……このまま、彼女に噛まれて……何になる?)
彼女の体温が近い。愛しい。触れていたい。けれど──
「……ごめん」
恭介は、深憂の肩にそっと手を添え、わずかに押し返した。
「やっぱり……受け入れてはくれないの?」
深憂の声が震えていた。寂しげに潤んだ紅い瞳が、恭介をまっすぐ見つめていた。
「……ちがう。整理が……したいんだ。もう少しだけ」
せめて安心させたかった。彼女の思いを無下にしたくなかった。
「俺……深憂さんのことは好きだよ」
なのに、なぜかその言葉は重たく、喉から絞り出すようだった。
「じゃあ、なんで……?」
「それは……」
彼女の目が、紅い月のように見えた。切なく、熱を孕んで、それでも──怖かった。
言葉にならない。いや、言いたくなかった。
彼女のことを信じたい。でも、自分の命を差し出す覚悟がまだ、ない。
ふと、今朝の記憶が脳裏をよぎる。
『神良深憂には気をつけた方がいいわ。あなたが気に入られているなら尚更に』
林檎の警告。
『吸血鬼カーミラのように、血を吸われてしまわないようにね』
それでも、そんなわけがあるものか。そう思いたい。だが──。
脳裏をかすめる、血塗れの幻像。
肌に突き立てられる牙。血が噴き出し、深憂がそれを恍惚の表情で啜る──
(怖い。彼女を失うのも怖いけど、それ以上に……死ぬのが怖いんだ)
その瞬間、膝がわなわなと震えた。
それが、恭介の本音だった。
彼女を愛しいと思うほど、恐怖が膨れ上がる。愛と同時に、死が重なって見えてしまう。
「──ごめん、やっぱり我慢できない」
深憂が再び抱きついてくる。熱に浮かされたような目。
唇が恭介の首筋に触れる。心地よさに背筋がゾクリと痺れた。
鋭い牙が現れた。
──このまま、身を任せるのか……?
「深憂さ……」
恭介が呼びかけた刹那──轟音が空気を裂いた。
二人のあいだに流れていた静寂を引き裂き、噴水の向こう、木の枝が弾け飛ぶ。
「本性を現したわね、神良深憂……」
ハスキーなアルト・ヴォイスが、夜に響き渡った。二人が振り向くと、そこにはひとりの少女が佇んでいた。白煉瓦の道に立つ彼女の手には──銃を構えて。
二人は、銃を突きつけてくる少女の顔に見覚えがあることに驚きを隠せなかった。そこにいたのは、クラスメイトであり転校生の音無林檎だったからだ。
だが、驚愕の理由はそれだけではなかった。彼女は西洋風のゴシックな意匠をまとった制服──否、戦闘服に身を包んでいた。その装いは仮装と呼ぶにはあまりに本物らしい威圧感を備えていた。
夜の屋上庭園に場違いなほど異様なその姿。しかし何より二人の視線を奪ったのは、彼女の手にある拳銃だった。
それは、古めかしい回転式拳銃。金色の装飾が施されたその銃口は、今まさに深憂の左胸を撃ち抜かんと構えられていた。実際、銃声の直後に木の枝が吹き飛んだのを見て、恭介は確信する──それは玩具などではない。本物だ。
恭介は一歩踏み出し、深憂を庇うように腕を広げ、二人の間に割って入った。
「お、音無さん……? どうしてここに……」
額から背中へと汗が伝い落ちる。彼の問いに、林檎は妖艶に口元を歪めて答えた。
「さぁ……?」彼女の視線が夜空に浮かぶ月を見上げる。「紅い月が綺麗だったから、誘われてきたのかもしれないわ」
その目は、夜の光に冷厳な色を宿していた。
「おかしいじゃないか。それじゃ、どうして君が銃を向けてくるんだ?」
「あなたたちがここにいる理由と同じよ。関係者以外立ち入り禁止の高層ビルの屋上庭園……説明できるのかしら?」
恭介は言葉に詰まり、背後の深憂も黙したまま。つまり林檎は、問いに答えるつもりはないのだ。
彼女の目的が見えない以上、無闇に言葉を選べば望まぬ結果を招く。わかっているのは、彼女の銃が深憂を狙っているということ。
時代遅れなリボルバーでも、向けられれば玩具とは違う重みがある。その銃口から、今にも弾丸が飛び出す想像に、恭介の膝がわずかに震えた。
「君は、一体何者なんだ」
「それは……お察しの通り、じゃないかしら?」
林檎は微笑みながら、答えをはぐらかす。恭介は声を荒げた。
「……どういうつもりだよ、これは!」
「あら、私は貴方を助けてあげようとしているのよ?」
「助ける……だって?」
「そう。彼女に心を許し、血を吸わせる隙まで与えてしまうあなたをね。本来なら、あなたが彼女を狩る側であるはずなのに……。見込み違いだったわ」
「……何を言ってるんだよ!」
林檎は肩をすくめ、薄く笑った。
「お家から何も教わっていないのかしら? あなたの家系は、吸血鬼狩り専門の退魔師の一族のはずよ。それなのに、なぜ神良深憂を庇うのかしらね」
「……?」
混乱した表情を浮かべる恭介に、林檎は眉をひそめた。
「本当に……何も知らなかったのね。だから吸血鬼の誘惑に簡単に落ちる。貴方と接触するために、身分を偽って日本の高校に潜入したというのに。史門家が吸血鬼狩りをやめていたなんて……まったくの無駄足だったわ」
「身分を偽って俺に接触……? 吸血鬼狩り……?」
言葉の意味が現実離れしすぎていて、理解が追いつかない。恭介が頭を抱えかけたそのとき、別の声が割って入った。
「半人半魔の退魔師だ、史門くん」
振り返ると、そこには見知った顔があった。短く切り揃えた黒髪、彫りの深い整った顔立ち──恭介が呟く。
「ロナルド……先生……?」
健康診断の際に採血を担当していた医者だった。だがその時の柔らかく穏やかで丁寧な口調ではない。今は白衣ではなく、林檎と同じ意匠の戦闘服を纏っている。
「先生と呼ばれるのは今や不適切だな。林檎様がこの討伐小隊の隊長、私はその副隊長というところだ」
口元に笑みを浮かべながら、ロナルドは続ける。
「我々は、教皇庁検邪正省傘下の地下組織抹殺者達《Negators》という機関の一員だ。人の世に仇なす人ならざる者の存在を否定《Negate》する──それが我々の使命」
「Negators……」
「悪魔祓い師と呼べばわかりやすいんだろうな。我々第十三部隊は吸血鬼専門。吸血鬼出現の兆候を受け、この森彼方市に潜入し、君の通う高校に接触を試みた。──君は半人半魔、つまり吸血鬼と人間の混血。その末裔だ」
「……ハーフの吸血鬼?」
「正確には、数世代かけて人間との交配を繰り返した末に、血が薄れ、強い力を失った存在だ。それが君、史門恭介。力はないが、血筋はまだ絶えていない。我々にとっては、協力を仰ぐ価値がある者だった」
「だったら……彼女は? 神良深憂は? 彼女もハーフだろ? なぜ討伐するんだよ!」
ロナルドは冷たく断じた。
「違う。彼女は──純血の吸血鬼だ」
恭介は思わず振り返る。深憂は、背後で小さく震えていた。
「健康診断で採取した彼女の血液を調べさせてもらった。結果は明白だったよ。吸血鬼特有の因子が、完全な形で検出された。満月が近づく今夜、彼女が本性を現すのを我々は待っていた。吸血鬼は、月が満ちるほどに本能に支配される」
「……それで、彼女を討伐するのか」
「ああ。そして、君が彼女を庇ったことで、君自身も吸血鬼の信奉者として我々に認識された」
そう言ってロナルドは懐から拳銃を抜く。林檎のものとは異なり、それは黒い樹脂製フレームの自動式拳銃だった。
「……やめろ」
「退きなさい、坊や」
林檎が言ったが、恭介は動かなかった。
「嫌だ……絶対に退かない!」
次の瞬間、銃声が鳴り響いた。
右脚に激痛。続いて左脚。両膝を撃ち抜かれ、恭介の体が崩れ落ちる。
「私に逆らった罰よ」
林檎は冷淡に言い放つ。
だが、恭介はなおも前のめりに倒れかけながら、二人の前に立ち塞がろうとした。
「往生際が悪いわね。……なら、死ぬまで見届けてあげる」
林檎が銃口を恭介に向けた。その鉄の銃身が月光に鈍く輝く。
──その時だった。
クスリ……
誰かが笑う声が、静寂を破る。
恭介の体が硬直した。信じられない人物の声だった。
背後に、紅く光る瞳が浮かび上がる。
「フフ……アハハハハハハハハ……!」
「深憂……さん……?」
それは確かに神良深憂の声だった。
彼女は恭介を嘲るような笑みを浮かべ、紅い瞳を妖しく輝かせていた。
さっきまで恭介の背後で怯えながら事態を見守っていたはずの彼女が、今は傷ついた彼を見下ろしていた。
「はは……おかしいね。可哀想に、恭介君。私にまんまと騙されて、こんな目に遭うなんて」
「……深憂……? 何を言って──」
「まだわからないの? 私はあなたに近づいて、信じ込ませて、そして……頃合いを見て、あなたを食べようとしてたんだよ」
その言葉に、恭介はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
彼女の声、笑み、その存在がすべて嘘だったのか──そう思うと、思考が止まり、胸の奥が凍りついていく。
「……嘘だ」
小さく、恭介が呟いた。
──認めたくなかった。
今まで共に過ごしてきた日々が、全て彼女の作り出した幻だったというのか。
あまりにも情が深すぎた。信じすぎていた。だから、信じたくなかった。
「……嘘だ……嘘だって言ってくれよ……ッッッ!!」
怒りと悔しさと哀しみがないまぜになり、叫びとなって溢れ出す。
「畜生……畜生ッ!」
膝をついたまま、何度も地面を殴る。
守ろうとしたのはなんだった? 戦っていたのは誰のためだった?
自分が信じ、愛そうとした彼女は──ただの幻だったのか?
いや、それすらももうわからない。
視線を上げると、深憂はロナルドと林檎を見つめながら、妖艶な微笑みを浮かべた。
「……遊びましょ、抹殺者さんたち」
その言葉とともに、深憂の身体がふわりと宙に浮き上がる。
紅の月を背に、白く儚いシルエットが夜空を舞った。
「ほら、捕まえてごらん? あたしを──楽しませてよ」
深憂は宙でくるりと一回転し、こちらを振り返る。そして、紅月へ向かって飛び去っていった。
その後ろ姿を見つめながら、林檎が静かに言う。
「追うわよ」
「仰せのままに、林檎様」
ロナルドが頷き、林檎の腕を取り宙へ跳ぶ構えを見せる。
座り込んだままの恭介に、林檎が振り向き、言葉を投げかけた。
「忘れなさい。今夜のことも、私たちのことも、彼女との恋も」
恭介は答えなかった。ただ、うつむき、震える肩を押さえ込むようにしていた。
「吸血鬼と人間は、そもそも相容れない存在なのよ。吸血鬼は人を欺き、利用し、餌食にする。人間はただ、食われるだけ。情を持つこと自体が、間違いだったの。忘れなさい。それが、あなたの幸せよ」
そう言い残し、林檎は空を見上げる。
何かを呟くようにし、地を蹴る音が恭介の背中越しに響いた。
振り返ったとき、二人の姿はもうなかった。
夜空に目を向ける。紅の月の下、小さくなっていく白い影──深憂が飛び去っていく。
その小さな点を見つめれば見つめるほど、胸が締め付けられた。
一筋の涙が頬をつたう。
恭介の瞳に映る紅い月は、ただ滲んで揺れていた。




