2-6⊕
壁に掛けられた時計が、深夜を静かに告げていた。
神良深憂は、薄暗い寝室のベッドに身を沈めながら、目を閉じてやり過ごそうとしていた。だが、それは無駄な抵抗だった。
彼女は、孤独な夜が嫌いだった。
ひとりで横たわっていると、どうしようもなく抑えきれない感情が心の奥底から浮かび上がってくる。
その感情は囁く。
──人間を襲え。その血を喰らえ、と。
それは、もう一人の自分だった。
背徳的で、理性とは真逆にある本能の化身だ。
とりわけ今夜のように、空に紅い満月が昇る夜は、その囁きがひどく濃くなる。
月が満ちるだけでなく、色を変える夜。
彼女の中にあるものが刺激され、より強く、より甘く、彼女の理性を蝕んでくる。
胸の奥が熱くなってくる。
それはまるで、恋をしているときの感覚に似ていた。
思い人に情を募らせれば募らせるほどに胸が締め付けられるように、彼女の渇望もまた、強くなるほどに理性を窒息させていく。
今にも窓の外へ飛び出していきたくなる衝動。
誰かの血を、この喉に注ぎ込みたいという渇き。
それでも深憂は、じっと耐えていた。
せめて身体中を駆けるこの衝動が静まるまで。せめてこの後の集合時間までに。
シーツを強く抱きしめながら、ひとりきりで夜をやり過ごそうとしていた。
こんな夜、もし傍に誰かいてくれたなら──どれほど心が紛れただろう。
そんな考えが、ふと脳裏をよぎったそのとき。
ベッドのシーツが、ふいに小さくうねった。
象牙色の布が波打つように動き、何かがそこへ潜り込んできた。
彼女は一瞬息を呑んだが、すぐに気配の主を察して、小さく安堵の息を漏らした。
現れたのは、小さな黒猫だった。
「……ぽんず。来てくれたの?」
彼女の問いかけに応えるように、黒猫──ぽんずは、にゃあとひと声鳴いた。
そのまま、彼女の胸元へと歩み寄り、ゆっくりと身体を丸める。
ぽんずは、まるで彼女の内側のざわめきを察しているかのようだった。
その小さな体温が、今夜だけは唯一の救いだった。
深憂はぽんずをそっと胸に抱き寄せる。
薄いカーテン越しに射し込む、紅みを帯びた月の光をまぶたの裏で感じながら──
「……今日は、大丈夫……だよね……」
かすかな呟きとともに、彼女は目を閉じた。
けれどそれは、眠りに落ちたわけではなかった。
その衝動が、一時だけ沈黙していただけ。
やがて紅い月が天頂に達したとき、彼女の中の『もうひとり』が再び目を覚ます。ぽんずはただ、静かに彼女の胸の中で感じているようだった。
◆
恭介が陽子に向ける視線は半目だった。しかも、これでもかというほどじと~っとした、蔑みと諦めの入り混じった視線だ。
無理もない。「まだ明るい時間には吸血鬼は出てこないかも! 明日は休みだし、今日のオカルト研究部は夜の十時半に集合ね!」──などと唐突な思いつきで息巻いていたのは、誰あろう陽子その人である。
未成年の深夜徘徊がどうこうとか、警察に職質されるだとか、そんな理屈は今となってはどうでもいい。
恭介がじと目になっている理由は、もっと単純で、もっと切実だった。
「……ZZZzzz……」
ソファの上で、陽子は気持ちよさそうに熟睡していた。鼻ちょうちんまで膨らませて、口元には緩んだ笑み。
まるで自分が三時間前に言い出したことなど、記憶の彼方に吹き飛んでしまっているかのような幸せそうな寝顔だ。
ちなみに現在、時刻は午後十時三十五分。とっくに集合時間は過ぎている。
深憂が家に到着するのも時間の問題だというのに、当の発起人がこれでは話にならない。
「言い出した本人が寝てるとか、ありえないだろ……なあ、カーちゃん」
視線の先、部屋の隅の鳥かごの中で、一羽の白いカラスが静かに身を落ち着けていた。
史文家に長年棲みついている雌のカラス──カーちゃん。珍しいアルビノのカラスだ。もちろん恭介の母親ではない。だが、なぜか昔から家に出入りしていて、今ではほとんどペットというか、家族同然の存在になっていた。
付き合いは十年近くになる。史文の本家にいた頃から、ふらりと現れてはしばらく居着き、また気まぐれに姿を消す……そんな不思議な鳥だった。
進学を機に陽子と二人暮らしになってからも、なぜかカーちゃんは家に現れるようになった。まるで陽子を追ってきたかのように。
だから「飼っている」というには語弊があるかもしれない。だが、長い付き合いのせいか、カラスにしては妙に賢く、感情のようなものすら感じさせる。
ただその姿と動きの落ち着きぶりは、もう若鳥とは言い難く、「カーちゃん」というより「バァちゃん」とでも呼ぶべきかもしれない。
ちなみに陽子はというと、彼女をえらく気に入っており、「カーちゃんは私の使い魔なの」と本気とも冗談ともつかぬ顔で言ってはばからない。
「カーちゃん、お前のご主人様……強制的に起こしていいと思う?」
恭介が問いかけると、彼女は「カァ!」と短く鳴いた。まるで『やっちまえ』とでも言いたげに。
だが、その返事を待つまでもなく、恭介はすでに陽子の元へ向かっていた。
肩を揺すり、頬を突き、脇をくすぐる。あらゆる手段を試したが──すべて不発。
陽子は気持ちよさそうに身をよじりながら、寝言を漏らす。
「やぁん……お兄ちゃんの、えっち……」
ほんのり赤らんだ頬、よだれでしっとり濡れた口元。タオルケットには染みの輪郭がくっきりと。
その寝顔には、何の警戒心も羞恥心もない。まさしく平和ボケというやつである。
「『お兄ちゃんの』って……頼むから、それだけはやめてくれ……」
恭介はぼそりとつぶやき、肩を落とした。これ以上関わるだけ無駄と、陽子を放置することに決めた。
時計の針は集合時刻をさらに五分ほど過ぎている。
深憂がインターホンを押すのは、もう間もなくだろう。とはいえ、部長がこれでは活動も何も始まらない。
呼びつけておいて玄関先で帰ってもらうのも気が引ける。せめて何か準備だけでも整えておこうと、恭介はソファから立ち上がった。
そして、リモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。
画面に映っていたのは映画のワンシーンだった。
今週は本来、吸血鬼もののホラー映画が放送予定だったが、森彼方市で発生した吸血鬼事件の影響を受け、急遽差し替えられたらしい。代わりに流れているのは、どこか懐かしい海外のホームコメディ。
クリスマスに親戚の家へ旅行するはずが、一人で留守番することになった少年が、知恵と工夫で泥棒を撃退していくという、例のあれだ。
ちょうど画面では、二人組の泥棒が少年の家の玄関に忍び寄り、ノックしようと手を上げたところだった。
コンコン。
ノック音。だがどこか濁った、響きにくい音だ。鈍く、重たい。テレビからの音にしては妙な違和感がある。
コンコン。
ふたたび、間を置いて響く音。
テレビの中では、泥棒のリーダーがドアを開けた瞬間、火炎放射器で顔面を炙られて叫び声をあげていた。だがその映像と、部屋に鳴り響く音はどうにも合っていない。
その理由はすぐにわかった。音はテレビからではなかったのだ。
「……何だ……?」
恭介は眉をひそめ、音の方向──ベランダ側へと視線を向けた。
淡い空色のカーテン、その隙間から外をうかがう。夜の空には満ちかけた赤い月が、雲の合間からぼんやりと顔を覗かせていた。不気味なほどに静かで、妖しい光を放っている。
ふと、月から視線を下ろすと、掃き出し窓の外に何かがいるのが見えた。
ベランダの手すりの内側、しゃがみこんだ影。恭介は眼鏡の奥の目を細め、じっと見つめた。
それは──人影だった。
白銀の髪に象牙色の肌。光をわずかに反射する絹のような衣をまとい、静かに佇んでいる。
(……誰だ?)
そう思った瞬間、その影がゆっくりと顔を上げた。
カーテン越し、黒一色の夜を背景に浮かび上がる紅い瞳──まるで闇に沈んだ宝石のようだった。
恭介は、その眼差しに見覚えがあった。
普段の色とは違うが、それでも確信があった。
(……深憂、さん……?)
だが、理解が追いつかない。
彼女はどうやってここへ来たのか? この高さに、どうやって?
恭介は窓を開け、夜風の中に立つ彼女をまじまじと見つめた。
「いらっしゃい……深憂さん。まさか……こんなところから来るなんて」
「うん」
深憂はうなずいた。
その姿に、恭介の目がわずかに見開かれる。
肩紐の細いキャミソールワンピース。生地は薄く、丈は膝上。しかも、何故か裸足だ。
明らかに部屋着のまま来ている。つまり、準備もせずに──急いで来たということだろうか。
(……だとしても、どうやって? 非常階段……いや、隣の部屋から? それとも壁をよじ登って? まさか……)
頭の中でいくつもの可能性を探るが、どれも現実味が薄い。
『吸血鬼のハーフ』を名乗ってはいたが、あれは冗談だとばかり思っていた。
深憂は無言で部屋に入り、ソファに横たわる陽子を見下ろした。
「陽子ちゃん……寝てるんだ」
「ああ。十時半集合って言い出した本人がこれだよ。何しても起きないんだ」
「そうみたいだね」
深憂の返事にはあまり感情がこもっていなかった。思考は別のところにあるらしい。きっと、件の『吸血鬼事件』のことが頭から離れていないのだろうか。
「……でさ、陽子がこの調子だから。部活、どうする? 無しってことでいい?」
「あたしは、それでいいよ」
「そう……。じゃあ、深憂さんは、これからどうする?」
問いかけに、深憂はすぐには答えなかった。
伏せたままの視線、考え込むような沈黙。やがて彼女はゆっくりと顔を上げ、紅く染まった瞳で恭介を見つめた。そして、そっと手を取る。
「行こうよ」
「……どこに?」
「どこか」
「何しに……?」
「二人きりになりたいの」
その言葉に、どこか熱を帯びた衝動が混じっていた。
そう言って、深憂は恭介をベランダへと誘った。
薄いワンピースの裾が風に揺れ、細い足が夜の冷気に晒される。にもかかわらず、彼女はまったく気にした様子を見せなかった。
十一階から見下ろす夜の街は、街灯の薄明かりに照らされてほのかに浮かんでいる。
空には、紅い満月。まるでこの世界が少しだけ現実から外れてしまったかのような、不穏で幻想的な光景だった。
深憂は恭介の手を握ったまま、振り返る。やはり、どこか思いつめたような表情をしていた。
「風が、涼しくて気持ちいいな……」
ぽつりと恭介がつぶやく。深憂は小さく頷いた。
「うん……なら、もっと涼める場所に行こうよ」
「え?」
恭介は首を傾げた。ここはベランダ。涼むにも、外に出るなら玄関から行くのが普通だ。
「行こっか」
その一言とともに、深憂は手を握ったまま軽やかに足を踏み出し──
「うわっ……!?」
そのまま、ベランダの手すりを軽やかに跳び越える深憂。
とっさに手を握られた恭介は、引っ張られるように宙へと飛び出してしまう。
眼下に広がるのは、はるか下のアスファルト。十一階の高さだ。
恭介の体がこわばる。落下の衝撃を覚悟する──が、それはこなかった。
……宙に、浮いている?
まるで足元の現実だけが抜け落ちたような、奇妙な感覚。
確かに重力はあるはずなのに、なぜか落ちない。
彼の手には、深憂の手がぴたりと触れていた。ひどく冷たく、けれど妙にしっかりと、そこにある。
「大丈夫。怖くないよ」
囁くような声が、耳の奥にすっと入ってくる。
穏やかな言い方なのに、どこか人間の感情が抜け落ちたような響きがあった。
恭介は、かすれた声で返す。
「……え、えっと……これ……どうなってんだ……?」
「飛べるの。だから、信じて」
深憂は微笑んだ。
その顔はいつも通りのはずなのに、今夜はなぜか──無表情に見えた。
思考が追いつかない。
夢? 幻覚? 現実が一瞬だけ壊れたような、そんな錯覚。
だけど、握った手の温度は確かに感じる。
冷たい夜風が、頬を撫でていくのも、現実味がありすぎる。
(……ほんとに、飛んでる……?)
ベランダがゆっくりと遠ざかる。
足元に広がる夜の街が、じわじわと縮んでいく。
けれど、深憂は平然としていた。
迷いも戸惑いも見せず、ただ紅く染まる夜空をまっすぐ見ている。
「……マジかよ……」
恭介が思わず漏らした言葉は、風に溶けて消えた。
その時、深憂の指先が、さらにきゅっと力を込めてくる。
まるで、逃がさないと言わんばかりに──
恭介は無意識に、小さく頷いた。
そして──
紅い月の下、二人の影は音もなく浮かび上がる。
重力も、理屈も、現実感もすべて振り落として。
まるで世界の隙間にすべり込むように、夜空の奥へと。
取り残された部屋──
窓は開け放たれ、薄いカーテンがひゅう、と風に鳴っていた。
ソファの上で、陽子がゆっくりと目を覚ます。
「……うぅん……」
額をなでる冷たい空気に、眠たげに目をこすりながら辺りを見渡す。
テレビの音はそのまま。けれど、部屋には誰もいない。
隣にいるのは、白いカラス──カーちゃんだけ。
「カーちゃん……? お兄ちゃんと深憂さんは……?」
問いかけに、カーちゃんは首を傾げて陽子を見返した。
その赤い瞳に、わずかに映るものがあった。
空へ昇っていく二つの影と、それを照らす、異様に紅い月の光。
「……カァ」
その声だけが、妙に澄んで響いた。
◆
風切り音が、恭介の耳元を絶え間なく通り過ぎていく。
見下ろす森彼方市の夜景は、まるで漆黒のキャンバスに星をこぼしたようだった。
いや、違う──星は夜空にあるものなのに、地上が星空を装っているようにも見える。
上も、下も、ただの夜空。
雲と星しかない世界のなかで、重力の感覚が曖昧になっていく。
いっそ、この空のほうが地面だったと錯覚してしまいそうだ。
「空、慣れた?」
深憂が少しだけ身を傾けて尋ねた。
恭介は、ひきつるような笑みで返す。
「……怖くは、ないって言いたいけど。手、離されたら……空に吸い込まれそうで」
深憂が微笑む。夜の静けさに馴染むような、やわらかな表情だった。
「この手、離さないでね。ずっとギュッとしてて」
そのまま深憂は彼の手を引き、高層ビル群の谷間を風のようにすり抜けていく。
そして──都市の中心、天を衝くようにそびえるひときわ高い建造物の頂に、二人は舞い降りた。
地から天へ星空を貫くようにそびえるコンクリートの巨木──
それはイグドラシルと名付けられた、森彼方市の象徴のランドマークだった。
まるで神話の世界樹のように、地上と天を結ぶ境界の塔──その屋上は、想像を裏切る静けさに満ちていた。
人工の頂に、密やかに息づく深緑の庭園。
ビルの上とは思えぬほど自然の匂いに満ちた空間だった。
「……こんな所があるなんて、知らなかった」
「いい場所でしょ」
マロニエの並木道の先に、ひっそりと噴水が佇んでいた。
照明は落とされているが、水面は月光を受けてわずかに光る。
きっと昼間は、ここに噴き出す水の煌めきが踊っているのだろう。
深憂はその水面を見つめ、ぽつりと口を開いた。
「見て」
促されるまま、恭介が水面を覗き込む。
そこに映っていたのは、自分と深憂の顔。
波一つない鏡のような水に、二人の表情が静かに浮かんでいた。
「深憂さんの顔……映ってるね」
「うん」
深憂は、自分の顔を見下ろしたまま、小さく頷いた。
その横顔は、どこか思い詰めたように見える。
「ねぇ、恭介君。私を初めて見たとき、どう思った?」
その問いに、恭介の記憶が春の教室へとさかのぼる。
新しい学年の始まり。ざわめく教室の中で、彼女は一人だけ静かに座っていた。
雪のように白い肌。アッシュブロンドの髪。宝石のように澄んだ蒼碧の瞳。
西洋人形のように美しく、それでいて、どこか壊れそうな儚さがあった。
他の生徒たちは、彼女を「異物」のように見ていた。
でも恭介は、その肩の震えが気になって、思わず声をかけたのだった。
「私のこと、怖くないの……?」
あのときの、目を見開いた彼女の表情。
外敵に怯える小動物のように身を固くしていた彼女が、次第に心を開いていった。
「可愛いって……思ったよ」
言葉にした瞬間、深憂の頬がほんのりと赤くなる。
水面に映った顔もまた、ふわりと染まっていた。
「……そっか」
静かに呟いた深憂が、ふと視線を落とす。
「でもね、私、不安なんだ」
「不安?」
「この世界で……人間としてちゃんと生きていけるのかなって」
「……どうして?」
深憂の目が、夜空に浮かぶ紅い月をとらえる。
「私は人間のつもりで生きてきた。でも、体の中には吸血鬼の血が流れてる。心は、人間なんだけどね。今日みたいな夜になると……身体のほうが、勝手に反応するの」
「……目、赤いままだね。俺の血を吸ったときと、同じ色だ」
「でも今日は、誰の血も吸ってないんだよ」
その言葉に、恭介が息を飲む。
「月の影響なの。満月が近づくと、血が騒ぐみたい。瞳の色も、力も……。さっきみたいに飛べるのも、きっとそのせい」
彼女の言葉には、どこか諦めが滲んでいた。
「昔、それで何度も……居場所を失ったことがあるの。小さい頃、力を見られて騒ぎになって……」
思い出を語る深憂の声は、過去の傷に触れるように震えていた。
彼女の人生には、いつも普通からの逸脱がついて回ったのだ。
「……だから、今またあの頃みたいになったらって、すごく怖くて」
彼女の肩が、再び小さく震えているのを、恭介は見逃さなかった。
恭介はその肩をそっと抱き寄せる。
「大丈夫。君がどんなでも、俺は傍にいるよ」
「……本当に?」
「ああ。君が人間でも、そうじゃなくても──君であることには変わりないから」
深憂の表情が、ようやくほころぶ。
頬を寄せ、彼女は小さく笑う。
「……優しいよね、恭介君」
「そうかな?」
「うん。ずっと、そういうところが好きだった」
彼女は身体を預けたまま、目を閉じる。
頬に触れた唇の柔らかな感触が、ゆっくりと離れる。
紅い瞳が、恭介をまっすぐに見つめる。
「ねぇ、ずっと一緒にいてくれる?」
「ああ」
「……私と、これからも、ずっとずっと生きてくれる?」
「うん、もちろん。今はまだ早いかもだけどさ、進学して真面目な職業に就いてさ──」
「……結婚、する?」
かなり踏み込んだ質問だった。恭介は一瞬だけ、言葉を探すように黙り込んだ。
「……ああ。そうする」
そう言いながら、胸の奥にざらりとした違和感が残った。言葉は本気のつもりだった。けれど、その重さに、自分自身がまだ追いついていない気がした──。
しばしの沈黙──夜風がそっと木々を揺らす音だけが、二人を包む。その沈黙の中で、深憂がぽつりと呟く。
「……恭介君」
紅い瞳が、夜の闇にゆらめいた。
「噛んでも、いい?」




