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スタンプラリーを巡るような感覚で、恭介は健康診断の用紙の各欄を淡々と埋めていった。残すは、いま受けている採血のみだった。
医者の手が注射器を構える。細く光る針先が、慣れた動作で恭介の腕に滑り込んだ。
血が、静かに引き抜かれていく。
恭介は眉をかすかに寄せながら、ぼんやりとその光景を眺めていた。注射器を通り、真空採血管へと吸い込まれていく赤──
それはふと、彼の脳裏に違う映像を浮かび上がらせた。
白く透けるような指先が、自分の腕を掴む。小さく開いた唇。あの夜、深憂がもしも本当に吸血鬼だったなら──そんな妄想めいた情景が、まるで現実のように立ちのぼってくる。
深紅の液体が、彼女の唇に触れる。自分の体温が、ゆっくりと失われていく感覚──
「どうかされましたか?」
表情を曇らせたまま注射器を見つめる恭介に、医者が問いかけた。
恭介は驚いて顔を上げた。そこには、白衣をまとった若いイタリア人風の男の姿があった。
黒髪、透き通るような肌。彫りの深い顔立ちは明らかに日本人離れしており、秀麗な眉目と細い顎が中性的な美しさを際立たせている。美形の部類に入るだろう。
外国人の医師というだけでも珍しいのに、その男が流暢な日本語で話しかけてきたことに、恭介はさらに戸惑いを深めた。
「あ、いや……」
「針が痛かったですか?」
「いえ、痛みはなかったんです。ただ、採血なんてあまり経験がなくて、つい見入ってしまっただけで……」
恭介は曖昧に笑ってごまかす。
(この血が、吸血鬼の食事になるなんて──)
そんなこと、口が裂けても言えるはずがない。
「血って、不思議ですよね」
「……え?」
突然の言葉に、思わず間の抜けた返事をしてしまう。
医者は採血器具を見下ろしながら、穏やかに言葉を継いだ。
「世界中の人種が違っていても、肌の色も髪の色も目の色も違っていても、体の中を流れている血は、皆赤い。それって、少し神秘的じゃありませんか?」
何を言いたいのか、すぐにはわからない。
恭介がまばたきを一つする間に、彼はふっと笑った。
「私はロナルドと言います。両親はイタリア系ですが、国籍は日本です。心も体も、日本人のつもりなんですよ。見た目はイタリア人ですけど、赤い血を流してるという意味では、誰とも変わらない人間ですから」
微笑を浮かべながら「不思議ですよね」と繰り返すその口調に、どこか軽やかで親しみのこもった響きがあった。
その話しぶりに、恭介は警戒心が薄らいでいくのを自覚した。
自然と口元に笑みが浮かぶ。
「日本語、すごく流暢ですね。本当に、日本人と変わらない」
「もちろん。小学校から大学までずっと日本で通ってきましたし、医師免許も日本のものです」
「なるほど……見た目が違っても、中身が同じなら同じってことですかね」
「そうですよ。──では、吸血鬼の血は何色だと思います?」
その問いかけの瞬間、ロナルドの瞳に宿る色が変わった気がした。
先ほどまでの温和な笑みのまま口元はほころんでいたが、目だけが真剣さを帯び、どこかぞっとするような冷たさを孕んでいた。
(また吸血鬼の話かよ……。音無さんといい、この人も……)
音無林檎がしてきたように、ロナルドも何か特定の反応を引き出そうとしているのでは──そう感じてしまう。
おそらく彼らは、吸血鬼事件の犯人を探っている。
道彦は深憂が事件の容疑者だという噂を口にしていたが、林檎やロナルドのように、あからさまな探りを入れるような態度ではなかった。
(俺は……疑い過ぎてるだけか? 深憂さんの秘密を守ろうとして、逆に視野が狭くなってないか……?)
恭介が言葉を飲み込んだまま黙っていると、ロナルドはどこか申し訳なさげに苦笑した。
「すみません、ちょっとした話のタネのつもりだったんです。あまり真面目な顔をしないでください。この町で吸血鬼の話が妙に騒がれてますから……不謹慎でしたね。私の方が配慮に欠けていました」
「いえ……すみません」
謝罪の言葉を返しながら、恭介は自分が疑心暗鬼に陥っていることを自覚した。
ただの雑談にも過剰に反応してしまう──それは正常とは言えない。
採血管がいっぱいになり、ロナルドはそれを抜き取ると、新たな管へと付け替えた。二本目の採血だ。
光にかざされた血液の管。ロナルドはそれを眺めながら、どこか夢見るように言った。
「私は──吸血鬼も人間と同じく、赤い血をしていると思うんです。元が人間だったなら、体の構造もほとんど変わらないでしょう。違うのは、生きるために血を摂ること。そして──時に、人間を凌駕する力や、魔術のような技を使うところでしょうか」
「……ロナルド先生、吸血鬼の存在を信じてるんですか?」
「ええ。医者のくせに非科学的だって笑われるかもしれませんが。血液が命そのものになる存在──彼らは、死してなお人間の姿に執着した『なりそこない』なのかもしれません」
恭介の血で満たされた採血管をうっとりと見つめながら、ロナルドは物思いに耽る。
まるで空想に没入する少年のような表情。その姿に、恭介は言いようのない違和感を覚えていた。ただ、それが何なのかはまだわからない。
ロナルドが顔を下げ、視線を恭介の腕に落とす。採血が終わったことを確認すると、針を抜き、器具を銀のトレイに置いた。
「はい、お疲れ様でした。これで健康診断はすべて終了です。教室に戻って構いませんよ」
「……ありがとうございました」
恭介が立ち上がり、背を向けようとしたとき──ロナルドの声が背後から低く響いた。
「ところで……君は、神良深憂という子と仲が良いらしいですね?」
その一言に、恭介はびくりと背筋を強ばらせた。
振り返り、声をひねり出す。
「ええ、まあ……」
「聞いた話では、君は森彼方市の吸血鬼事件を調べているとか」
「それが、何か……?」
声は自然と張りつめ、冷たい汗が背を流れる。
「案外……君のすぐ近くに、いるのかもしれませんよ。吸血鬼が」
ロナルドの瞳が、氷のような輝きを宿す。
その言葉に、恭介は奥歯を噛みしめた。
この人もまた、音無林檎と同じ──深憂を疑っている。
そんなこと、あるはずがない。
「ふざけないでください! 俺の周りに吸血鬼なんているはずないでしょう!!」
叫びを残して、恭介は背を向け走り出した。体育館の出口へと駆けていく。
ロナルドはその後ろ姿を眺め、ぽつりと呟いた。
「……あなたは気づいているかもしれませんが──吸血鬼は、確かにすぐ近くにいるんですよ。血を渇望する、飢えた怪物がここに─」
◆
午後六時。
下校を促す校内放送が虚ろに鳴り響くなか、すっかり日が落ちた校舎裏に、ひとりの女子生徒が佇んでいるのが彼の目に入った。
冬の空はすでに墨を流したような深い紺色に染まり、校舎の壁も、冷えたコンクリートの地面も、街灯の淡い光にぼんやりと浮かび上がっている。
冷え込みは強く、空気は鋭く乾いていた。鼻先を刺す冷気に、彼は無意識に肩をすくめる。
そこは待ち合わせには不向きな場所だった。
ましてや彼にとって、高校という空間は馴染みのあるものではない。制服の群れに紛れることもできず、その異質さは闇の中でもなお際立っていた。
居心地の悪さが、じわじわと皮膚の下から滲み出してくるようだった。
少女の前まで歩を進めると、彼女が顔を上げる。
音無林檎だった。
白い息を吐きながら、冷たい美貌にわずかな不機嫌の色を浮かべ、彼女は一瞥して仲間であることを確認すると、短く言い放った。
『遅かったわね、ロニ』
口をついて出たのは、流れるようなドイツ語だった。
ロナルド──通称ロニもまた、同じく自然にドイツ語で返す。
『申し訳ありません。作業に手間取ってしまって』
笑みを添えて応じたロナルドは、昼間、健康診断で採血を担当していた医師──に扮した人物だった。今は白衣を脱ぎ、黒のスーツに身を包んでいる。
『医師になりすまして校内に潜入するなんて、骨が折れましたよ。とはいえ、全生徒の採血は完了しました。作戦の準備も、いよいよ整いました』
彼は本物の医者ではない。国籍も日本人ではない。
すべては所属組織が用意した偽装の身分だ。
名はロナルド・ジェイムス・ディオ。イタリア人の父とアメリカ人の母を両親を持ち、国籍はイタリアだ。
林檎は彼を愛称で「ロニ」と呼んでいる。
160cmほどもない林檎と並ぶと、彼女の頭はロナルドの胸の下あたりにくる。年齢差に加え、その身長差も相まって、ロナルドは林檎を、まだ成長途中の少女を相手にしているような気分で見下ろしていた。
『採取した血液の解析なんて、優先順位を決めれば済む話でしょう。何に時間を取られてたの?』
責めるような口調に、ロナルドは内心で小さく呻いた。
──またか。
『林檎様……あなたの後始末に人手を割いていたんですよ。例の警察署の件とか。あまり目立つ行動は控えていただかないと──』
『ずいぶんとお喋りな口ね。いつから私に口答えできるほど出世したのかしら?』
口調は変わらず冷淡だったが、言葉の棘だけは確かだった。
ロナルドは深くため息をつく。
『林檎様、今回の任務では偽名を使わないんですか? 本名で学校に潜入だなんて。それと……私の話、聞いてましたか?』
『聞いてたわ。でも、おかしいと思わない? あなたは私の部下。なら、聞く義務があるのはあなたの方じゃなくて?』
『……もういいです』
肩を落とすロナルドに、林檎は一拍おいて本題に入った。
『それで、結果は?』
『対象外のサンプルは、半数が解析済み。特に異常はありません』
『神良深憂は?』
『黒で間違いありません。あなたの読み通りでした』
『ふふ……まさか、人間社会にまで紛れ込んでいたとはね。上層部からの情報も、どうやら確かだったみたい』
『本来、ああいう種は群れずに棲息するものですから』
『史門恭介の方は? 彼、私のことを警戒していたから』
『そこも予想通りの反応でした。口を割ることはありませんでしたが、彼が神良深憂について何かしら把握しているのは確実でしょう』
『……そう』
報告を聞き終えた林檎は、満足げに口元に小さな笑みを浮かべた。
『ご苦労様。これで予定通り動けそうね。あとで詳細資料を持ってきて。作戦開始は──』
そう言って、彼女は夕闇に浮かぶ春月を見上げた。
陽の名残が空を群青に染めながら、白く滲んだ月がゆっくりと輪郭を明らかにしつつあった。
『明日の深夜から、ってところかしら。装備の準備をお願い』
そして、ひと息。
「それじゃあね」
日本語で短く別れを告げると、林檎は足元の白いコンクリートを軽く蹴った。
ロナルドが一度、まばたきを終えたときには、彼女の姿はそこになかった。まるで最初から存在しなかったかのように。
その消失を見届けてから、ロナルドは無線機を取り出した。
発信ボタンを押し、マイクに口を寄せ、低く英語で指示を飛ばす。
『イブリースより各局。作戦コード:ノクターンを開始する。カインは明日二二〇〇時までに、林檎様の武装準備を。それ以外の者は命令があるまで監視体制を維持。動きがあり次第、即応できるよう待機せよ。定時の状況報告も忘れるな。以上』
通信を終えると、無線機を上着のポケットにしまった。
夜気の冷たさを受けながら、ロナルドは静かに笑った。
その笑い声が、静まりゆく校舎裏に冷たく染み渡った。




