1-1⊕
チャイムを押す前に、恭介は一つ、深く息を吸い込んだ。
目の前に立ちはだかるのは、無機質な鉄のドア。
それはまるで、これから自分が踏み込もうとする非日常を拒むかのように、黙して重々しく佇んでいた。
ふと見上げる表札には「神良」の二文字。──間違いない。
確認した瞬間、胸の奥で跳ねていた鼓動が一層激しくなった。
まるで水揚げされた魚のように、暴れている。喉が渇く。息が浅くなる。
落ち着け──と、もう一度、深呼吸する。
(この先に、彼女がいる……)
そう心の中で呟いただけで、再び胸が高鳴る。
思わず、今日のために選んできた服の袖をぎゅっと握った。駅前のセレクトショップで買った、新しいシャツ。ハッキリ言って服装のセンスには自信が無い。鏡の前で何度もチェックした一張羅だ。
意を決して、インターホンへ指を伸ばす。
微かに震える指先が、静かにボタンを押し込んだ。
静まり返ったマンションの共用廊下に、チャイムの音がやけに大きく響いた。
『はーい?』
スピーカーから聞こえたのは、聞き慣れた──けれど、どこか艶やかに響く女の子の声だった。
その一声で、背筋がしゃんと伸びる。喉がからからに渇いた。
ぎこちなくインターホンに口を寄せ、なんとか声を絞り出す。
「お、俺……です。史門恭介です……」
『恭介君? 待ってたよ。鍵開いてるから、入ってきて』
通話が切れる音。再び、静寂。
ドアノブに手をかけると、なぜか重く感じた。
力を込めて回すと、金属がきしむ音とともに、ゆっくりとドアが開いた。
玄関の床に、きちんと揃えられたローファーと赤いスニーカー。
それだけで、彼女の生活に、自分が一歩足を踏み入れてしまったような気がして、胸がざわめいた。
靴を脱ぎ、ぎこちなく並べる。
曇りガラスの戸を、ゆっくりと開けた、その瞬間──
「いらっしゃい、恭介君」
「うわっ!?」
声は、真横から。
思わず飛び上がるように振り向くと、そこには──神良深憂がいた。
その銀髪を揺らし、意地悪そうに笑っている。
「驚いた?」
「あ、ああ……まさかそんなところにいるなんて……」
彼女はくすくすと笑いながら、ふっと息を抜いたように言った。
「はー、おかしい。恭介君、めちゃくちゃ緊張してるじゃん」
「からかわないでくれよ、神良さん……」
「深憂、でしょ? クラスメイトの家に来ただけなんだから、そんな構えなくていいのに」
にこりと笑いかけてきたその表情に、思わず頬が熱を帯びる。
カーテン越しに差し込む夕暮れの光が、彼女の銀髪をふんわりと染めていた。
髪の先はキャミソールの裾を越え、スカートの上まで流れている。
恭介の目の高さまである彼女。背も高く、雰囲気も大人びている。
「ちょっとだけ遅かったね。迷った?」
「いや、迷ってはないけど……チャイム鳴らすまでに、だいぶ迷ったかな」
「ふふ、可愛いとこあるんだね、恭介君」
その一言に、また胸が跳ねた。
彼女に悟られまいと、恭介は眼鏡を上げて表情を整える。──が、無駄だった。
彼女の言葉には、どこか特別な意味が含まれている気がして、鼓動の速さは収まらない。
教室ではよく話す関係だ。けれど、ただのクラスメイトだと思っていた。
それが──今、こうして二人きり。彼女の家で。
「ね、恭介君……」
「ん……?」
彼女の住むマンションがある隣町に行くまでに乗ったバイクあの風切り音と静寂な孤独感に満ちた道中とは、まるで違う。その時よりも更に心臓の音がうるさく感じる。
恭介は、目の前の少女──神良深憂の言葉に、反射的に身を固くした。
「他に誰もいない部屋に、男女が二人きりなんだよ?」
その一言が、脳に届くより先に、身体が反応する。背中に汗がにじむ。胸の内が、ざわ、と波立った。
彼女はまるで、淡々とした日常の話でもするかのように、ゆっくりとキャミソールの襟元に指をかける。
細くて白い指が、生地をほんの少し引き下ろした。
それだけで、鎖骨のあたりが露わになり、そこから滑らかに続く肌が光を帯びて浮かび上がる。
夕陽が差し込むリビングの光が、彼女の銀髪と素肌を柔らかく染めていた。
その光景が、まるで映像のように目に焼きつく。
「あ……うん。そ、そうだね……」
喉がからからに乾いて、声がうまく出ない。
理性が引き戻そうとするたびに、目が、意識が、彼女の仕草へと引き寄せられる。
深憂の声が、ひどく柔らかく響いた。
「今日、来てくれるって聞いたとき、ちょっとだけ期待しちゃった」
その言葉の響きに、胸の奥がずきりと疼く。
まるで何かを見透かされているようで、同時に、その想いに応えたくなる衝動に突き動かされる。
そして──彼女の手が、さらに襟元を滑らせた。
そこにあったのは、思わず目を奪われるほどの豊かな膨らみ。細身の体にそぐわない柔らかさが、布の下からそっと現れていた。
その瞬間、恭介の喉が、ごくりと鳴った。
自分でも驚くほどの音が、静まり返った空間に響き渡る。
顔を赤らめながら視線を逸らす。
だが逸らしても、すぐにまた吸い寄せられる。
心が、目が、すでに彼女に囚われていた。
彼女はそんな恭介を見て、ふわりと笑う。
「……恭介君のエッチ。やっぱり期待してたんでしょ?」
「え、いや……その……」
うまく否定もできずに、しどろもどろになったその瞬間。
「鼻血、出てるよ?」
唐突な一言に、恭介は慌てて手を鼻へとやった。指先に、かすかに温かい感触。
そんな彼の前に──深憂の顔が、ふいにすっと近づいてきた。
距離が、極端に近い。
頬が触れそうなほど。いや、触れている。
彼女の腕が、いつの間にか背に回され、優しく包み込んでいた。
抱きしめられている。少女の、柔らかな体に。
その温もりに触れた瞬間、理性の堤防が音を立ててひび割れる。
だが、そんな感覚を切り裂くように、深憂の言葉が静かに落ちた。
「あたしね、前から恭介君のこと、ずっと気になってたんだ」
それは、からかいや冗談ではなかった。
真っ直ぐで、真剣な響きが、彼の胸の奥へと静かに染み渡っていく。
「君の優しさも、雰囲気も……全部。特にね、匂い。好きな匂いなの。近くにいると、ずっと我慢してたんだ」
香り。
その言葉に、恭介の背筋がぞくりとする。
なにかが、ひっかかった。
この言葉は、告白にしてはどこか、異質だった。
「……この瞬間を、ずっと待ってたんだよ」
そして、彼女の前髪がふわりと揺れる。指先が恭介の頬に触れ、露わになった額と、ゆっくりと近づいてくる唇。
そっとそこに触れたその口づけは、柔らかく、温かく、そして──甘かった。
しかし同時に、その中に確かにあった。言葉にできない「違和感」が。
やがて唇が離れ、恭介はかすれた声で問いかける。
「あの……深憂さん。なんで……俺の鼻を吸うの……?」
その瞬間、彼女はくすりと微笑み、指先で唇の端をぬぐった。
指についた赤いものを、まるでリップクリームのように、ぺろりと舐める。
それは、粘ついた──恭介の鼻血だった。
「やだ……恭介君にまだ言ってなかったんだよね? 私の秘密」
「……秘密?」
問い返す恭介の声は、掠れていた。
混乱と衝撃で、思考がまとまらない。
そんな彼を深憂は見つめながら、声をひそめて囁いた。
「うん、私──吸血鬼と人間のハーフなんだ」