きらきら星ノート
七月七日。
今年の七夕も、どこか冴えない空だった。
小雨が降る夕方、僕、笹原悠人は、駅前の古本屋の前で一冊のノートを拾った。
表紙に「きらきら星ノート」とだけ書かれた小学生の自由帳のような古びたノート。
誰かの落とし物らしく、表紙には小さな星のシールが貼られていた。
何気なくページをめくると、そこには短冊のような願い事が並んでいた。
「いつか、パパとママが笑ってくれますように」
「となりの席のたけるくんが、明日も学校にきてくれますように」
「ささはらくんと、またお話できますように」
そこで、僕は指を止めた。
(……え?)
ささはらくん? それは、もしかして僕のことか?
僕の名前はありふれていない。学生時代クラスに同じ苗字の子がいた記憶もない。
誰かが僕に向けて書いた願いなのだとしたら……
そして次のページに、書きかけのまま止まっていた文字があった。
「ささはらくんが、ひとりじゃなくなりますように」
その瞬間、心の奥にずっと置き去りにしていた何かがかすかに震えた。
小学四年の夏。
僕は転校したばかりで、教室にうまく馴染めずにいた。
昼休みはひとりで本を読み、発言のタイミングもつかめない。そんな僕に、ぽつんと声をかけてきた子がいた。
「ねえ、星って好き?」
おかっぱ頭の小柄な女の子だった。名前はたしか七海だったと思う。
「きらきら星ノート」を持っていて、「願い事を書いたら、いつかかなうんだよ」と言っていた。
「本当に叶ったこと、あるの?」
「あるよ。おばあちゃんがね、わたしが『元気になりますように』って書いたら、病院から一度だけ帰ってきてくれたんだよ」
それが奇跡かどうかなんて、わからない。
でも彼女のまっすぐな目を見て、僕ははじめて「信じてみよう」と思えた。
あの夏、僕は毎日彼女と星の話をして、願い事を交換して、少しずつ教室の景色が変わっていった。
だけど、夏の終わり、七海は、突然転校してしまった。
理由は聞かされなかった。
手紙も書いた。返事は来なかった。
それきり、七海のことは時間の中に埋もれていった。
あれから十数年。
僕は、社会人としてなんとか日々をこなしている。
でも時々、自分がどこに向かっているのかわからなくなる。
誰かのために頑張っているようで、誰の顔も浮かばない。
あの頃のように、純粋に「何かを願う」ことさえ忘れていた。
その夜、僕はふと思い立ってノートに自分の願いを書いた。
「もう一度、七海に会えますように」
子どもじみた願い。でも、書かずにはいられなかった。
書いたあときらきら星ノートの最後のページの裏に、小さな付箋が貼ってあるのに気づいた。
《このノートを拾った人へ》
そこにはたった一行、走り書きのようにこう記されていた。
《明日の午後七時、星ヶ丘の天文台に来てください》
翌日、僕は迷った末に星ヶ丘の天文台へ向かった。
子どもの頃一度だけ遠足で来た記憶がある。
星の見えない曇り空。
でも、そんなことはどうでもよかった。
展望台の上には、ひとりの女性が立っていた。
風になびくセミロングの髪。
振り返った彼女は、静かに微笑んだ。
「……やっぱり、悠人くんだったんだ」
その声を聞いた瞬間、すべてが繋がった。
「七海……」
「久しぶり、だね」
彼女は僕より少し背が低くて、昔と変わらない優しい目をしていた。
「ノート、落としたの?」
「ううん、わざと置いてきたの。きっと拾ってくれるって思ってた」
「……なんで」
「だってあれ、ずっと前に悠人くんに渡したかったノートだから」
七海は、あの夏、急な引っ越しでお別れも言えなかったこと。
その後、家の事情でずっと転校を繰り返していたこと。
何度も手紙を書いたけれど、送れずにいたこと。
会えなかった間のことを色々と話してくれた。
「でもね、忘れてなかったよ。ずっと。星がきれいな日も、そうじゃない日も。あの夏のこと、いつも思い出してた」
不思議と、涙は出なかった。
ただ、心がぽかぽかと温まっていくような感覚だった。
天文台のライトが消え、夜空にわずかに星が浮かんだ。
「ねえ、願い事、してもいい?」
「うん、もちろん」
二人で静かに目を閉じた。
心の中で、ゆっくりと願う。
「この再会が、ずっと続きますように」
大人になって願いごとは忘れがちになる。
叶わないことを知って口にするのが怖くなる。
でも、たとえそれが子どものような夢だとしても。
誰かの心を照らすなら、それは本物の「星」なんだと思う。
今も僕の部屋の本棚には、あの「きらきら星ノート」がある。
最後のページには、新しい願いがひとつ。
「今度は、二人で星を見上げられますように」
その願いは、もうすでに叶いはじめている。
素敵な七夕になりますように。