小さな誓い
小さな誓い
厚井彰人は、ビルの屋上で東京の夜景を見下ろしていた。会社の研修を終えた帰り、ふと立ち寄ったこの場所は、喧騒から離れた静けさがあった。目の前には、宝石のように瞬く光の粒。ネオンと車の尾灯、遠くにそびえる東京タワー。彼は手すりに両肘をついて、ゆっくりと息を吐いた。
「……あたしも、ここに来るとは思わなかった」
その声に振り返ると、桐原遥が立っていた。同期入社で、何度か一緒に研修の課題に取り組んだ仲だ。茶色のコートを羽織り、口元に白い息を漏らしながら、彼女は隣に立つ。
「彰人くん、真剣な顔してた。何考えてたの?」
「ん……ちょっと未来のこと」
彰人は照れたように笑ったあと、視線を前に戻す。
「俺、本気で出世しようと思ってるんだ。できるだけ上までいって、会社の中から国を守るキーマンになりたい」
「……国を守る?」
遥の目がほんの少し見開かれる。
「大げさに聞こえるかもしれないけどね。でもさ、この国を良くしていくって、結局は中から変えなきゃ意味がないと思ってる。政治家じゃない。民間からだ。企業って、経済だけじゃなくて、人材や文化も動かしてる。そこに俺がしっかり立って、地に足つけて、未来を引っ張れる存在になれたら、って思うんだ」
「……うん。分かる」
遥は小さくうなずく。彼の熱のこもった言葉を、ただの理想論として切り捨てる気にはなれなかった。いや、それどころか、心の奥が微かに震えた。
「目の前の仕事を一つひとつ全力でこなして、学んで、人を見て、自分を鍛えて。会社の中で信用を積み重ねて、いつか決定権を持つ場所まで行く。そのときには、ただの出世じゃなくて、意味のある仕事ができるって信じてる」
「……彰人くん、やっぱりすごいよ。なんか、ちゃんと未来の話してる感じ」
遥はそっと微笑んだ。彼のように明確なビジョンを持つ人間に出会ったのは、これが初めてだった。まっすぐな目をして、ブレずに歩こうとしている。
「じゃあさ、あたしは――」
言葉を区切って、少しだけ俯いたあと、遥は勇気を出して続けた。
「その横にいてもいい?」
「……え?」
「ついていくって、変な言い方かもしれないけど。でも、あたし、そういう人のそばで、支えたり、時に一緒に戦ったりできる人でいたいの。ただ、なにもしないで“いいなあ”って見てるだけじゃなくて、同じ現場で同じ空気を吸って、同じ理想を持っていたい」
彰人は驚いたように遥を見つめた。
夜風が吹いた。遥の前髪が揺れ、澄んだ瞳が夜の光にきらめいた。
「俺……ずっと、こういう道を一人で進むつもりだった。正直言うと、誰かと一緒に進むとか、あんまり考えてなかったんだ」
それでも――と彼は言葉を続ける。
「でも、遥となら、未来がもう少しあったかくなる気がする。守るだけじゃなくて、分かち合えるかもしれない」
「じゃあ……決まりだね」
遥は笑った。
東京の夜景は変わらず静かに瞬いていた。
二人は並んで、ただ夜を見つめていた。
そこには、まだ見ぬ未来と、確かな一歩があった。