母親
「とんでもない量だな」
リゼとティモーは店に戻ってきた。日もほとんど沈み、本来ならば忙しくなってくる時間帯だが、今日は地区総会なのであとは夕食をとって眠るだけである。
カウンターに置いた紙の束を見て、ティモーはため息をつくようにそう言った。
メレディスに配るように頼まれた書類は二種類。ひとつは、建物保護の申請書。もうひとつは、補助金の申請書だ。前者は皆同じくらいの量であったが、後者は食べ物通りにある店全てがその対象なので、前者と同じ量のものがもうひとつあるという認識だ。
さらに、食べ物通りから一本入った通りのものも配ることになっており、リゼとティモーの前に置かれた紙の量だけ明らかに他の者より多かったのである。
「これ、配ってたら明日何も出来ないぞ」
「そうだね......」
リゼは明日の楽しみが潰れることを約束させられてしまったので、落ち込んでいた。この紙を一軒一軒配って回っていたら、夕方になってしまう。父は明後日の仕込みもしなければならないので、夕方には全て配ってしまいたい。
「カスペルさんも手伝ってくれるって話だったし、頑張ろうよ」
「ああ、そうだな」
カスペルに配られた紙の量は、リゼたちの三分の一も無かった。理由として、彼が店を構える周辺の土地は皆畑や広い庭を持っているので、建物が密集していないのだ。同じ面積で配るとなったとき、建物が密集する場所に住まうリゼたちの方が、圧倒的に配る量は多くなってしまう。
幸運にもカスペルの店はフローレンスと定休日が被っている。リゼたちの前に置かれた紙の量を見た彼が、不憫に思ってくれたらしい。手伝うと申し出てくれたのだ。これほどありがたいことは無い。ティモーがカスペルに昼食を作ってやるという約束をして、明日の戦士は三人になった。
「大丈夫か?」
「え? 何が?」
リゼが紙の束を見つめていると、父がぬっと顔を覗き込んできた。
「いや、明日はお前の楽しみの日だろ」
「......うん」
楽しみの日。そう、定休日はリゼにとって、とても大切な日である。忙しい日々の仕事を頑張ることが出来るのも、その日があるからなのだ。
「大丈夫。こっちの方が大事だもん」
リゼが言うと、父は「そうか」と頷いてエプロンをつけた。
「飯にしよう、食いたいものあるか?」
「お肉が良い」
「よし来たっ」
厨房に入っていくシェフから目を逸らし、リゼは肩からぶら下げていたポシェットをカウンターの席に置いた。その中には、もう少しで読み終わってしまう小説が入っている。
*****
リゼはいつものようにシャワーを浴びた後で部屋に戻ってきた。ベッドに上がって窓を開ける。今日は風が少ない。乾くのに少し時間がかかりそうだ。リゼはポシェットから小説を取り出し、開いた。
明日は本来、この小説を返却する予定だった。
リゼの一週間の楽しみというのは、定休日に図書館に行くことだったのだ。
エトランゼ大図書館。それはレメント川を渡った向こう側にある大きな建物だ。
レメント川の向こうには大きな建物が二つ建っている。その一つがエトランゼ大図書館。そしてもう一つが王城だ。エトランゼは忘れられがちだが、王都である。
しかし、リゼは王城を意識して生活していることがあまり無い。きっと、エトランゼ民も、その他の地区に住まう者もそうだろう。
その理由に、女王が全く表に顔を出さないことがあった。現在この国を統治するのは女王で、彼女はレメント川の向こうの王城で慎ましく暮らしている。彼女は滅多に人前に顔を見せず、唯一人前に出るのが建国記念日の祭りの時くらいだ。リゼは昔チラリと見ただけで、それ以外で彼女を目にしたことは無かった。
黒い髪の美しい女性だった。細い鎖に宝石を散りばめた髪飾りをつけて、中でも最も目立つ位置にあったのが、額のちょうど真ん中に来るように配置された赤い宝石だった。
他の人の話によれば、毎年自分の挨拶が終わるや否や馬車に乗ってさっさと城へ戻ってしまうのだとか。
彼女が国民との接点を持たないのは、関わりすぎてはいけないと考えているからだった。自分の権力を振りかざすことのないように、あのような箱入り娘のような状態になってしまっているのだ。
そこまで極端に恐れることはあるのだろうか、とリゼは思う。女王が居なくても国は上手く回っているのだから、顔を出したってバチは当たるまい。
もしかしたら、フォーク戦争が関係しているのかもしれない。メレディスの話では、フォーク戦争が起こった原因の一つに王権を巡っての事が挙げられるとのことだった。
今の女王を見れば、権力はあっても無いようなものだ。これで国の平穏が保たれているのだから、権力を奪おうとする者は現れにくいのかもしれない。
閑話休題、とにかくリゼはその王城の隣にある大図書館に行く予定だった。図書館は夕方には閉まってしまうので、申請書を配っていたら、閉館時間になってしまうだろう。
今読んでいるこの本もいよいよ読み終えてしまうので、来週の定休日まで夜の読書タイムが無くなってしまう。
申請書配りと自分の楽しみを天秤にかけた時、どちらが大切かなど想像するまでもないが、リゼにとって大図書館は、学校と変わらない役割を担う場所だった。
リゼは学校へ行っていない。今日の地区総会でフェーデルがメレディスにスプーン戦争の説明を求めた時、メレディスが「今ならば学校の授業で習う」と言って説明を拒んだことが、リゼにとってはショックだった。
彼はもちろんその気は無いのだろうが、学校に行っていない者にとっては、まるで学校に行っていることが当たり前かのような発言が気に触るものであることは、想像できたはずだ。話の腰を折られたことが気に食わなかったのかもしれないが、その発言をされると、リゼはあの場に居づらかった。
リゼが学校に通わない理由は、母が病気だったためだ。
リゼには母親が居ない。リゼが幼い頃に病気で亡くなっているのである。母の病は完治しなかったが、進行を遅らせることはできた。そのための薬は高額で、リゼの学費になるはずだった金はその薬に消えてしまった。
だが、リゼは母も父も恨んではいない。学校に行けなくたってこうして本から知識を得ることは可能だ。そして、学校に通っていればきっと、父と二人三脚で食堂を経営するなんてことはできないのだ。
リゼはフローレンスで働くのが好きだった。父の料理をまかないとして食べられるのも、客の会話に耳を傾けながら料理を運ぶのも大好きだ。
学校に行っていれば、きっとそんな経験できない。今ある状況を好きでいられるので、リゼは満足していたのだ。
頁がゆっくりと捲られる。物語を終わるのを拒んでいるようだったが、残りの頁はあと僅かだ。リゼはなるべく頭の中でゆっくり文章を読み上げる。終わらないで、と心の中で願う。今日はまだ髪が乾いていないのだ。
その願いも虚しく、最後の文章になってしまった。リゼは文字の一つ一つを押し潰すように読んだ。
「......読み終わっちゃった」
リゼはぽつりと呟いて、本を閉じた。まだ髪が冷たい。瞳を閉じて、読み終えた物語をもう一度最初から辿ってみる。
あの子が初めて出てきた場面、ピンチに陥って助けてもらった場面、初めて魔法を使った場面、それから......少し飛ばして......。
リゼはハッとして目を開いた。
そうだ、読み飛ばしていた箇所があった。
リゼは慌てて本を開く。
今まで読んできた本は数知れない。しかし、時々不自然に思い出せない箇所がある。それは、読み飛ばしてしまったシーンだ。
今日の地区総会で、メレディスが「虐殺」という言葉を用いた時、リゼはぎょっとすると同時に気づいた。自分が今まで読んできた小説で、そのようなシーンに出会った時、自分は読み飛ばしてしまうのだ。
何となく何があったのかは、自分の想像力で補いながら読むので、読み進めること自体そこまで苦ではなかった。
フォーク戦争で行われた虐殺。スプーン戦争はそれを祭典化させたものだが、もちろん今ではそのような非人道的な行いは許された行為では無い。では、昔は許されたのだろうか。どんな行為が行われていたのだろう。
リゼは本のちょうど中間辺りを開く。明らかに見知らぬ文章が目に飛び込んできて、思わず「此処だ」と声に出す。
リゼは勇気を出して、その文章に挑んだ。
頁としては、見開き一頁の短い場面だ。しかし、生々しい描写は、リゼの脳裏にシーンをはっきりと見せつけてくる。
そのような行為が起こる主な原因は、自分と異なるものを持つ者への恐怖心だった。この小説の場合は、人間が魔女の持つ魔法の力を怖がっている。
魔法を使えるって素敵なことなのに。
リゼは首を傾げたくなる。自分が魔法使いになりたいくらいだ。この物語に出てくる魔法使いは、人に害を与える魔法は使わない。寧ろ、人間が一方的に害を与えているのである。
命が消えるのはあっという間だ。瞬きをした瞬間には、今まで生きていた目の前の命が無くなっている。声を出す暇もなく、死に飲み込まれていく描写。
リゼは母親を思った。母が死ぬ時、自分は何処に居て何をしていたのだろう。このような場面に、自分は触れたことがあるのだろうか。
勇気を振り絞って読み出した頁はすぐに終わり、リゼが既に読んだ場所へと戻ってきた。ひとつのシーンを飛ばしていたからか、次のシーンの解釈は面白いほど異なった。一度読んだはずの場所だというのに、リゼの頁を捲る手は止まらない。
それから髪が乾いても尚リゼは頁を捲り続けた。同じ姿勢が辛くなってベッドに横になる。そうして何十分もすると、少しずつ瞼が降りてくる。
やがて今日ベッドに入ってから読み始めた辺りに差し掛かった時、ことん、と彼女の手から小説が落ちた。そのまま頁は捲られることなく、表紙が落ちてきて、物語に蓋をしてしまった。
外ではフクロウが鳴いている。エトランゼでは珍しい動物だが、部屋の主はそれを知る由もなく寝息を立てている。
程なくして父が階段を上り娘の様子を見に来るまで、彼女は小説の傍で布団もかけずに眠るのだった。