祭典の邪魔者
「祭典を中止にはしない」
静かだった食事の席に、凛とした声が響いた。テーブルから離れかかっていたリゼの意識は、その声に引き戻された。真正面で、メレディスがスープ缶を置いたところだった。
「それを決めるのはダグラスさんの仕事だろ」
カティアが空になったスープ缶を集め始める。
「こんだけの被害が出てるんだ。拉致された人を優先に助けるのが__」
「分かってる。だが、中止にはさせない」
同じことを、メレディスは繰り返した。一瞬、リゼは彼が何のことを言っているのか理解できなかった。それぞれが黙々とスープを腹に落とし込んで、会話も途切れ途切れに続いていただけだったが、彼は前触れもなくそんなことを話し始めたのだ。
メレディスの目はリゼを見ていた。そこで、リゼは自分が投げた問いが宙ぶらりんの状態のままだったことを思い出した。メレディスは、その問いに対して答えたのだ。
それが分かれば、彼の発言は耳を疑いたくなる。
祭典は中止になるのか、行われるのか。行われて良いはずがない。人が傷つき、拐われ、何処に居るのかすら分からない。祭典などしていられる雰囲気は国の何処にも無いのだ。
心の何処かで期待していた回答を、メレディスは涼しい顔で跳ね除けた。揺るがない意志をその言葉に込めていた。本物の右と偽物の左に、同じ強い意思が宿っている。それは、まるであの時のようだった。地区総会で、フェーデルと対話している時だ。
事務的に淡々と喋っているだけだった彼の空気が、一変する瞬間。己の内側が表面に滲み出ているのだ。
「祭典は予定通り開催される。これは絶対だ」
毅然とした態度で、彼はまだ繰り返す。面と向かって言われ、リゼは返事に困った。
今まで冷静な物言いをしていた彼が、時折子供のように、我儘で頑固な言動をとるようになる。この不思議な現象に、リゼはまだ慣れていなかった。「急にガキみたいなこと言うんだから」とカティア。
「ダグラスさんが指示を出すまでは、絶対は無いんだよ」
彼女は空の缶を、隅の木箱に放り込んだ。カランコロンと大きな音は、メレディスの言動に対する苛立ちのようだった。
彼女が言う「ダグラスさん」が誰なのかリゼは分からないが、今この場でする質問ではない。部屋の空気が徐々に冷ややかになっている。
「家族が被害にあってる人も居るんだ。そういう発言は他所でするもんだよ、メレディス」
まるで弟を諭すような響きである。
「旗持ちならば、前準備が必要だ」
メレディスは負けじとテーブルに前かがみになる。
「祭典がこのまま行われるとなれば、リゼには旗持ちとしての仕事を教える必要がある。被害者救助に時間を割いていられない」
「アンタそれは」
部屋の空気が一瞬にして凍りついたのは言うまでもなかった。リゼは唖然として彼を見る他なく、ラフルも隣で同じような態度を取ったらしい。
カティアがまずいと思ったのだろう、「メレディス」と名前だけで彼を叱りつけた。トラビスだけは呑気に欠伸をしている。部屋の空気は奇妙に二分割されていた。
メレディスは態度を改める素振りを微塵もみせない。あたかも自分が正しいことを言っていると思っているようだった。
リゼは時々、メレディスという人間が二つの面を持っていると思うのだった。実行委員会として事務的な言動をする、淡々とした面。今まで見てきた彼は、ほとんどがこの面だった。
しかし、一方で、内側に眠る感情が表面に滲み出る時がある。その時に見せる彼の内側は、人間的な情熱が燃えているのだ。スプーン戦争に対する思いがひしひしと伝わってくるのである。
しかし、その熱意が被害者救助を押し退けるまでのものとは、リゼは思わなかった。人間的な感情が燃えている彼は、道徳的な位置から大きく外れた場所に居る。
もしかして、とリゼは嫌な想像を頭に思い浮かべる。とても嫌な想像だった。目の前の彼が、人間の皮を被った何かに変わる。次の瞬間、全身に寒気を覚えた。慌てて頭を振り、浮かんだ考えを揉み消した。
そんなことはあるわけがなかった。あって良いはずがない。
すっかり重くなった空気の中で、カティアは深いため息をついた。リゼとラフルの顔をチラリと伺い、
「さて、晩餐も済んだし、あとは自由に過ごそう」
明るい声でそう宣言した。トラビスがそれを受けて立ち上がる。そんな彼の首根っこを、カティアが掴んで引き寄せた。
「メレディスとトラビスは、明日の話し合い」
「はあ? 自由って言ったばっかだろうが」
トラビスが面倒臭そうに顔を顰める。カティアがそれを睨みつけ、リゼとラフルには柔らかい笑みで言った。
「二人は通路に居て。すぐ終わるからさ。外には出ちゃダメだよ」
「は、はい」
「行こうか」
ラフルが先に立ち上がり、リゼを促す。それに従いながら、リゼはメレディスの表情を盗み見た。瞳にはまだ強い意志が漲っている。何がそこまで彼を動かすのだろう。
ぶつくさ文句を言うトラビスの声を聞きながら、二人は通路へ出た。
*****
時間は少し戻って、エトランゼ大図書館。ランタンの明かりを消し、潅木の裏に身を潜めていたアニカ・テンパートンは、頭を浮かせて、そっと向こう側の様子を伺った。もう一時間は物音がしない。強く降っていた雨は、霧雨のようになっている。
図書館の明かりによって、庭は明るい。辺りには慌てふためいた司書たちが落としていっただろうものが散乱している。アニカは胸が苦しくなった。
「もう行ったみたい」
少し離れた場所から、ブリーレの声がした。それによって、様々な茂みから身を隠していた司書たちが姿を現し始めた。
アニカはその中で彼の姿を探す。自分を潅木の裏に押し込んだのは彼だった。そんな彼の姿が、今は無い。
「アニカ、平気?」
気がつくと、ブリーレが近くに居た。白いワンピースには泥と落ち葉がくっ付いている。自分の服も酷い有様だろう。アニカは思ったが、それよりも気になることがあった。辺りをそっと見回す。
「あの......ルークさんは」
「捕まったのを見たって、ベンクが言っていたわ」
「そんな」
「不安なのは分かるけれど、こんな大騒ぎならきっと実行委員会の本部が対応してくれるはず。私たちが今すべきことは、大切な資料を守ること。分かったわね、アニカ」
両肩に手を添えられて、しっかりと目を合わせられた。アニカは薄く頷いて、森の小道を振り返った。連れ去られた司書や実行委員会の委員たちが心配だ。街はきっと沢山の混乱が生まれているに違いない。
「テーラ、あなたは王城へ行って、状況を説明してくること。ベンクは庭を一通り見てきてちょうだい。残った皆は、図書館の中へ。困っている人が居たら手を差し伸べること」
ブリーレはすぐに指示を始める。彼女に指示を受けた司書たちが素早く動き出す中で、アニカはまだエトランゼの中心部を見ていた。利用者の顔が次々と頭に浮かんだ。
「アニカ」
ブリーレに呼ばれて、アニカはハッと我に返る。
「みんな、きっと助かりますよね」
ブリーレは「当たり前よ」と力強く頷く。それによって、アニカは自分の中で絡みあっていた不安の糸が、スルスルと解けたような気がした。ようやく動こうという気が起きて、つま先を大図書館へ向ける。
彼女の背中が図書館に消え、ブリーレは視線を少し下へ動かした。
「祭典、大丈夫かしら」
赤い旗は、繊維の糸をぶら下げて力無く垂れ下がっていた。
*****
「リゼは、この辺りの出身なのかい?」
リゼが通路の壁にかけられている工具やロープを眺めていると、縄梯子の辺りでブラブラしていたラフルが戻って来た。部屋の方ではカティアたち三人の話し合いが既に始まっていて、時折苛立たしそうにテーブルを叩く音や、強まる語調に乗せられた言葉が聞こえてきた。
部屋を出るように言われたリゼとラフルだが、二人きりになるというのは初めてだった。まだ会って一時間余りである。気の合う合わないも分からず、話題も見当たらない。通路を各々探検して、見る場所も無くなってきた頃、ラフルの方が先に口を開いた。
「えっと」
リゼは答えに困った。メレディスに連れられてフローレンスから飛び出たが、逃げ回っているうちに自分が今何処に居るのか分からなくなった。この地下拠点が、エトランゼではどの辺りなのか、リゼには皆目見当もつかない。「たぶん」と自信の無さそうな回答を得て、ラフルは少しだけ困った様子だ。
「エトランゼって広いよね。門を潜った時びっくりしたよ」
ラフルが何とか話題を引っ張り出す。
「僕が居たトルトヨには無いものが沢山あるな」
リゼはラフルを見た。彼の目の先には、乱雑に置かれた酒瓶や、木箱がある。木箱の中には使い方も分からない工具がごちゃごちゃと入っていた。
「そうですか」
リゼは言ってから、会話を終わらせてしまったことを悔やんだ。気まずい空気を作らないように試行錯誤するラフルの優しさに、蓋をするようなことはできない。
しかし、何も思いつかない。此処がフローレンスならなあ、とリゼは思うのだった。あの雰囲気の中なら、どんな人とだって顔を見て笑顔で接することができる。どうしてこうも違うのだろう、とリゼは目を伏せた。
「ねえ、聞いてもいい?」
「は、はいっ」
リゼは慌ててラフルの方を向く。
「その、鞄の中に入っていたの......」
ラフルは、リゼが肩からかけている底の無いポシェットを見ていた。
「小説のことですか?」
「うん、ショーセツ」
ラフルの目が少しだけ変わった。
「ねえ、それって何?」
「えっ?」
「その、ショーセツ......僕、初めて聞いた言葉なんだ。本のことなのかい?」
リゼは唖然とした。彼女は今まで「小説」を知らない人間に会ったことが無かった。近所の子供だって、それくらいの言葉は通じるだろう。リゼは、ラフルの出身地のことを思い出した。それに対する、トラビスの反応も。
「えっと......物語が書いてある、本、です」
リゼは言葉を選んだ。どんな言葉を彼が知らないのか、なるべく簡単な言葉を選ぶべきだと思ったのだ。
「物語」
ラフルの顔が輝いた。いつも何処か暗かった彼の顔に、光が満ちている。
「僕、物語好きだよ」
彼はそう言って、堰を切ったように喋り始めた。
彼が住んでいるトルトヨという集落には、「語り人」という役職があるのだという。それは、朝昼晩の食事時に、子供たちに物語を語って聞かせるという仕事らしい。一つの物語を上手く三つに切って、一日かけて語っていく。そうすることで、子供たちが一食も欠かさずに食事をとることが出来るという、食糧難のトルトヨでの大切な仕事なのだ。
そんな説明を聞いたリゼの心は、すっかり「語り人」に惹き付けられていた。エトランゼには無い職業だ。何て楽しそうなのだろう。職業の内容もそうだが、彼女はラフルの楽しそうに語る姿にも夢中だった。彼はこの話題になった途端、今までにないくらい饒舌になった。物語を心から愛している人の喋り方だ。
「僕ね、」
徐ろに、ラフルが声の大きさを落とした。
「語り人になるのが夢なんだ」
彼は何か後ろめたいことでもあるのか、非常に言い出しづらそうだった。
「変、かな」
「どうしてですか?」
リゼは目を丸くして問い返した。
「変だなんて思いませんよ。今の説明を聞いたら、誰も思わないと思います」
彼は今の今まで、突っかかりのない、流れる水ようにスラスラと喋っていたのだ。人を惹きつける魅力が十分にある喋り方をしていたのだ。現にリゼは「語り人」に心を奪われている。ラフルの表情も相まって、彼女の心に響いてきたのだ。
「ラフルさんなら、きっとなれます。だって、お話するのとっても上手でしたよ」
リゼは微笑んだ。トルトヨのことをもっと知りたかった。ただ貧しいという集落では無いのだ。そこは面白いもので溢れている。食事を集落の人全員でとること、スープだけであること、たまに贅沢をして、胡桃入りのパンが食べられること。
自分の知らない世界の話だ。本の世界にも載っていない、知らない土地の、知らない生活。魔法を信じる人種たち。どんなファンタジーよりも心を惹き付けるものがあるように、リゼには感じられた。
ラフルは不思議な表情をしていた。今にも泣きそうに見えて、頬が赤いのは、どうしたのだろう。リゼは自分が変なことを言ってしまっただろうか、と次の言葉を考える。
「夢、叶うと良いですね」
「うん......ありがとう」
ラフルは頷き、あとは黙ってしまった。
「じゃあ、明日はそういうことで」
静かになった通路に、カティアの声が響く。リゼは久々に其方を見た。彼女が椅子から立ち上がって、此方にやって来るところだった。
「お待たせ。長く待たせてごめんよ。話し合いも終わったから寝るとしようか」
廊下を覗き込んで、カティアは微笑んだ。




