腹ごしらえ
リゼは物珍しいものを見る心地で、テーブルの上を一通り見回した。
それぞれの席に用意された、赤いラベルの缶詰。カティアの話では、豆スープの缶詰だということだった。缶切りで綺麗に蓋が開かれ、中のスープが見えている。豆と芋が入ったもののようだ。
リゼが今居るこの空間は、スプーン戦争実行委員会の仮拠点らしい。同じようなものが各地区に設けられているようで、本拠点はトランテュ地区にあるそうだ。
祭典の用意をするために、委員たちが寝泊まりをしたり、食事をしたりするために、ある程度の日用品と食料は常備されているという。缶スープもそのひとつだった。
「これしか無くて悪いね。本当はもっと美味いもんで持て成してやりたいけどさ、生憎此処には料理が出来るやつが一人も居ないんだ」
スープ缶の蓋を部屋の隅の木箱に放って、カティアが席に戻ってきた。
「こんな粗末なもん食う機会なんてなかなかないだろう? 訓練だと思って、さあ、食べた食べた」
カティアに促されて、リゼは缶を両手で包み込むように持ち上げた。当然だが、缶は常温だ。縁に口を付けて缶を傾けると、冷たい液体が口内に流れ込んでくる。微かに感じるトマトの風味と、パサパサした小粒の豆と、噛む必要も感じないほど細かくされた芋の味。薄味のスープである。お世辞にも美味しいとは言えない。
「どう? お味は」
「ええっと__」
「美味しいっ」
リゼは驚いて隣を見た。左にはラフルが座っているのだ。リゼと同じように、スープ缶を両手で包んで持っていた。唇をペロリと舐めて、再度缶に口をつけている。
「舌おかしいんじゃねえのか」
対岸に居るトラビスが言った。こら、とカティアの叱り声が飛ぶ。
「本当に美味しいんだよ。こんなに美味しいの、食べたことない」
ラフルの言葉は、表情からしても嘘には聞こえなかった。リゼはもう一度口に含んでみた。舌の上で転がして味を確かめ、ゴクリと喉に流し込む。やはり、美味しいとは思えない。
「料理人の舌には少し厳しいかもね」
リゼの表情に気がついたカティアが苦笑した。リゼは慌てて「お、美味しいです」と小さく言った。
たしかに、名シェフのもとで肥やした舌には厳しい味である。父ならば、「食えたもんじゃない」とはっきり言って、このスープに足りない味を皆の前で大胆に挙げ始めるだろう。
「アタシらは慣れちゃったけどね。無理に食べなくても良いさ。何か他のものを用意しようか」
「いえ......」
リゼは今一度ラフルを見た。彼は既にスープ缶を大きく傾けている。不味いが故に早く飲み終わりたいということでは無さそうだ。本当に美味しそうに、ゴクゴクという喉の音が此方まで聞こえてくる見事な飲みっぷりである。
対岸を見みてみると、トラビスとメレディスは黙々とスープを片付けていた。トラビスの発言からして、心から美味しいと思って飲んでいるわけではなさそうだ。
「ぷは」
隣で、ラフルが缶から口を離した。誰よりも早く、彼はスープを飲み干したのだ。
「ねえ、これは何処で手に入るんだい? お店で売っているものなの?」
名残惜しそうにスープ缶を手の中で転がしながら、ラフルはカティアに聞いた。
「本部から持ってきただけだからなあ。仕入れ先は本部長に聞かないと分からないけど......そんなに気に入った?」
「うん」
ラフルは大きく頷いた。その顔には初めて見せる大きな笑みが浮かんでいる。
リゼは、もしかして、と彼の出身地を思い出した。ユークランカ地区のトルトヨという集落の出身だということは、自己紹介で話していた。彼の身なりからして、あまり裕福な暮らしは出来ていないようである。このような味でも満足できるくらいに、薄味のものを口にしているのかもしれない。
ユークランカから遥々やって来たようだし、お腹も空いていたのだろう。休む間もなく奇襲にあっていれば、食事をする余裕など無かったはずだ。
「あの......良ければ」
リゼは自分の手の中にあったスープを、ラフルの方へ押した。まだ二口分しか減っていないスープである。
ラフルは目を丸くしてリゼを見た。
「良いの?」
「はい......お腹、空いていないので」
大嘘だった。カティアが缶スープを準備し始めた頃から、彼女の腹はぐうぐう泣き喚いていたのだ。夕食はまだだった。説明会に行っている間に、父が作ってくれるという約束だったのだ。
だが、そんな自分と比べても、ラフルの方がきっと空腹のはず。自分はまだ、胃の底に昼飯の残りがあるような気がした。
「ありがとう」
ラフルは微笑んで、缶を受け取った。そして、さっきよりは時間をかけてその中身を空にした。
皆がスープを飲んでいる間、手持ち無沙汰になったリゼは、外の様子を想像していた。
外はどんな酷い状況になっているのか。この穴の中には、外部からの情報が何一つ入ってこない。音ですら遮断されているのだ。埃っぽい空気が籠っていて、心做しか息苦しさを感じる程である。
父はどうなっただろう。冷たいスープは、父の温かくて美味しい料理が酷く恋しくなる味だった。もう父の味は二度と感じられないのではないか。あの怪我では、荷車から助け出したとしたって__。
考えれば考えるほど、嫌な想像が頭を埋めていく。
この食事会が始まる前までメレディスが話してくれたのは、クエンテイルと呼ばれる魔族の純血が、何故このような奇襲を仕掛けてきたのかということであった。
ユークランカ地区の西端部に位置するクエンテイルという集落。エトランゼを襲ったあの白ローブたちは、そこからやってきた者たちらしい。
彼らは、エトランゼに限らず他の地区でも似たような奇襲をかけているということだった。しかし、エトランゼはその中でもとりわけ酷い状況のようだ。
何故、クエンテイルがこのように動き始めたのか。考えられる理由は二つあるという。
「一つは、封印された魔族の力を解放するため」
メレディスが話した一つ目の理由である。説明会において、フォーク戦争の際に魔族の魔法が、ある偉大な魔法使いによって封印されたことはメレディスから聞いていた。
それを解放するというのは、たしかに正当な理由として考えることができそうだ。
メレディスの話に納得したリゼだったが、一人そうでない者が居た。
「そんなことができるのかい?」
ラフルが二度目の横槍を入れたのだ。メレディスがチラリと彼を見たが、今度は引き下がろうとはしなかった。
「だって、見つかりはしないよ。あれは誰にも見つからないような場所に隠したって、タネリが......」
彼はそこまで言いかけて、余計な横槍を入れたことに気がついたようだ。再び肩を竦めると、口を閉じてしまった。少しの沈黙があって、
「そもそも、魔族の力が何に閉じ込められたのかソイツは知ってんのか? どうせ知らないだろ」
トラビスがリゼを顎でしゃくった。リゼは身を縮めて首を縦に振るしかなかった。メレディスの説明に納得するや否や、ラフルの話で完全に振り落とされてしまったのだ。
ラフルの言う「あれ」とは何だろう。皆そこに言及しないということは、知っていて当たり前の知識なのだろう。魔族の魔法が閉じ込められている物体が存在するらしい。
説明会でメレディスに聞いた話は、魔法使いが魔族の魔法を封印したということだけだ。メレディスには悪いが、何処か現実味のない御伽噺のように感じられて、半信半疑で聞いていた。しかし、白いローブが厨房で独りごちた一言や、クエンテイルの奇襲の理由を聞くと、真実味を帯びてくる。
「魔族の魔法は、ある宝石に閉じ込められたんだ。それが、国の何処かに隠されている。クエンテイルはそれを探して、その宝石から魔力を解放しようとしているんじゃないかという話だ」
メレディスの説明を聞いて、リゼは彼が説明会で見せてくれたライフストーンを頭に思い浮かべた。スプーン戦争用に作られた武器でのみ壊すことができる、赤くて美しい、不思議な人工の宝石だ。
魔族が捜し求めているのは、きっとライフストーンのような偽物ではないだろう。それどころか、魔法の力すら閉じ込める宝石なのだ。それを聞くと、いよいよ魔法の存在を認めざるを得なかった。
リゼの心は、その説明を聞いて踊り始めた。
__まるで小説みたいだ。
しかし、そんな純朴な思考は、次なるメレディスの話で簡単に打ち壊された。
「奴らが動くもう一つの理由は、スプーン戦争でエトランゼを討つことを目標にしている可能性があるからだろう」
リゼの口から「えっ」と声が漏れた。
エトランゼとは、正しくこの土地のことである。
クエンテイルがスプーン戦争に参加しようとしているのは分かった。しかし、それは本物の戦争に仕立てあげようと目論んでいるのであって、一つの地区に対する宣戦布告をしているわけではない。
エトランゼが目の敵にされるようなことを過去にしたのだろうか。
リゼの疑問に答えてくれたのはカティアだった。
「エトランゼはね、フォーク戦争の際に人間陣営の本拠地だったのさ」
彼女は、険しい顔で「それに」と付け足す。
「彼奴らが強い憎しみを抱かずにはいられない、戦争のシンボルってもんが、このエトランゼには存在している」
リゼは真っ先に南門を思い浮かべた。あれは、エトランゼ民ならば誰もが知っているフォーク戦争のシンボルだ。エトランゼが、かつて人間陣営の本拠地だったのなら、魔族はあの壁を壊すことで勝利を確信したのかもしれない。しかし、それが恨みに直接繋がるだろうか。理由付けとしては何処か薄っぺらく感じる。
ならば、他のものが魔族の気を立てるのだろう。南門以外で、戦争を象徴するもの。
リゼはハッと息を呑んだ。
「エトランゼ大図書館の、赤い旗」
「その通り」
カティアが頷いた。
リゼの指先に、ツンと冷たい旗の柄の温度が蘇った。此処に来る前、自分はあれに触れたのだ。旗持ちに選ばれたと知ってから、より近いものに感じた戦争の産物。
耳の奥でいつかのアニカの言葉が聞こえた。
__これは、フォーク戦争の時に、勝利した人間陣営が証として刺した軍旗なの。勝利の旗。当時の王様に戦争の勝利者を示すため、王城の前に旗を刺したんだって__。
更に時を遡れば、リゼはある老人から次のようなことを聞いていた。
__恨みの籠った旗だよ__。
勝利と敗北。人間と魔族。喜びと悲しみ。或いは恨み。そして、戦争と平和。リゼの頭の中に、ペアとなった単語の波が、どっと押し寄せてきた。
あの庭師の言葉が、リゼは今になって全て理解出来た。頭からバサリと冷水を浴びせられたような気持ちだった。
「あの旗はね、魔族が最も憎たらしく思っているものなんだよ。言ってしまえば、彼らから何もかも奪い取った旗なの。勝利を収めた人間が立てた存在が、二百年間の魔族の思いを彼処に閉じ込めてしまった」
リゼは呆然と立ち尽くすしかなかった。
楽しいなどという単純な感情で片付けられる祭典ではないことを、説明会で分かっていたつもりだった。だが、今現在起こってしまっている奇襲を目の当たりにした上で彼らの説明を聞いていると、その学びがどれほど浅はかだったかを思い知らされる。
スプーン戦争が如何にして出来上がったのか、表面的な部分でしか触れていないことに、リゼは気づいたのだった。
「でも、それが地区を襲って、人を拐う理由にはならないと思うんだ」
カティアが続けた。
「彼奴らが何を企んで人を拐うのか......まだ分からないことは多いってわけ」
そう、クエンテイルがいくら人間陣営に恨みがあり、旗があるエトランゼに憎しみを抱いているとは言え、それが奇襲に繋がる理由が分からない。
魔力を閉じ込めた魔法石を探しているのならば、一般人を拐うだろうか。空き家となったところで物色するのなら理解できるが、馬車に乗せて連れ去るまでするだろうか。
旗を壊すのが目的ならば、人を拐う必要など最初から無いはずだ。抜いて焼くなり好きにすれば良い。
いくらエトランゼを恨んでいるからと言って、そこに住む人を拐うだろうか。しかも今回の奇襲は、エトランゼに限ったことではない。それでいて、彼らはスプーン戦争に参加しようとしている。下手をすれば、スプーン戦争への参加権を剥奪されもおかしくはない行為をしているというのに。
「所詮は原始人の考えることだからな」
トラビスが鼻で笑った。
「祭典でユークランカに寝返る為の人員確保だとか、単に敵の頭数減らして勝利しやすくしてるだとか、馬鹿な奴らが考えることなんかそれぐらいだ」
「トラビス」
ついにカティアの声が大きくなってきた。
「アンタ、その魔族差別どうにかならないのかい。ユークランカ出身なんだろ? 自分の地区にちょっとは誇りを持ちなよ」
「ユークランカの西と東じゃあ文化に雲泥の差があるんだ。俺が生まれたエグトラドールと原始人の巣窟を一緒にすんじゃねえ。西に行けば行くほど、野蛮な考えしか出来ない奴しか居ねえんだよ」
トラビスがベッと舌を出す。リゼはラフルの反応が気になった。トルトヨが未発達な地であることから、今のトラビスの発言は気に障るものに違いないと思ったのだ。
しかし、リゼの前に座っているラフルの表情は、顔を覗きこまない限りは見えそうもなかった。ただトラビスが、時折ラフルの表情を盗み見ているのが分かった。彼がトルトヨ出身であると意識した上での発言なのだ。
「謀反を手伝わせるために人を拐った可能性は否定できないな。クエンテイルは、ユークランカ地区の一員として祭典に参加することになる。本部の目を気にしているところからも、祭典に参加しようという気はあるらしい」
メレディスがそう言って、カティアとトラビスの間に入った。
「ただ、実行委員会である俺たちがこうして被害を目の当たりにしている。黙って見過ごすということは無理な話だ」
リゼは彼の話を聞いて、今最も聞くべき問いが思い浮かんだ。黙ることを徹底していた彼女だったが、皆の目はほとんど気にしないくらいに、無意識のうちに次の質問を投げていた。
「じゃあ、スプーン戦争は中止になるんですか?」
答えが返ってきた。それは、腹の音だった。
「......飯にしようか」
苦笑するカティアと、呆れ顔のトラビス。リゼの目に次に映ったのは、顔を赤らめるメレディスだった。




