謎の地下通路
真っ暗な裏路地は、蛇のようにくねくねと続いていた。街の方方で上がる悲鳴が、車輪の音に乗せられて遠ざかっていく。
リゼはメレディスの背中を必死に追いかけていた。背後から複数の足音がする。右に曲がれば右へ、左に曲がれば左へ。時には遠くに行ったかと思うと、前から迫ってくることもあった。そうなればメレディスはすぐに方向を変え、新しい道に飛び込んで行く。たまにリゼが彼の前を走らされることもあった。
エトランゼがこんなに入り組んだ街であることを、リゼは生まれて初めて知った。最初は頭の中で地図を追えたものの、今はもう、どの辺りをどの方向へ走っているのかすら曖昧だった。
とにかく今は、自分たちを追う複数の足音から逃げることだけを考えた。口から漏れる息が激しくなってきて、足も鉛のように重くなってくる。走り始めてから一度も止まっていないのだ。
「もう少しだ」
メレディスの声がした。彼は今リゼの後ろを走っている。自分の呼吸音にかき消されそうになったが、メレディスの声はその呼吸音を押し退けて、リゼの耳の中で凛と響いた。降る雨で下がっていた体温が、じわじわと戻ってくる。
「その角を曲がった先だ。窓は開けてある」
彼の言葉の通り、真っ暗闇の中に右に折れる道を見つけた。しかし、真正面から白いものが迫ってくるのも見えた。
ハッとした時には、彼女の視界は黒一色になった。暗闇に慣れていたはずの目は、物の輪郭を瞬く間に失う。顔を覆う厚い布の感触と、そこから香る獣の臭い。背中に暖かい誰かの腹と胸の厚みを感じた時、パン、と乾いた音が通りに響いた。続いて、動揺する男たちの声がした。
閉ざされた視界の遥か下の方で、ぎらりと激しい光が瞬いた。地面の石畳の模様を映し出すほど鮮明な光で、リゼは目を見張った。夜なのに、太陽が出たのかと驚いたが、顔から取り払われた布の向こうには、真っ暗な通りが広がっていた。
「行くぞ」
呆然としている暇は無かった。リゼは再び走り出し、角を右に曲がった。その先はまだ通路が続いていたが、メレディスはリゼに止まるよう言った。それは、ある家の裏だった。戸口は閉まっているが、窓は開いている。暗闇に慣れた目で、その窓の向こうが一般的な家の厨房だと分かった。
「床板が外れるようになっているから、そこから地下に降りろ。その先で仲間が待っているはずだ」
メレディスがそう言ったので、リゼは慣れない手つきで窓の枠を掴み、腕の力で腰と足を引き上げた。なるべく音を立てないようにしたつもりだが、木枠がギシギシと軋む。何とか向こう側に降りた時、再び近づいてくる足音がある。
メレディスがそれを聞いて、窓から離れた。呆然と立ち尽くしたままのリゼに対して、素早く次のことを伝える。
「俺が奴らを引き付けている間に地下に降りろ」
その言葉を残して、彼は風のように通りを駆けて行った。リゼは耳で彼の足音を追っていたが、角を曲がったあたりで聞こえなくなってしまった。すると、今リゼたちが走ってきた通りをなぞるようにして駆けてくる音がする。
リゼはその場にしゃがみこんで息を潜めた。ローブたちは、この通りで足を止めたようだ。
「何処だ、何処行きやがった」
「あの光は何だったんだ。太陽が降ってきたのかと思ったぞ」
「閃光弾という目眩しだ。厄介な武器ばかり持ちおって」
彼らはメレディスを完全に見失ったようだ。すると、遠くで大きな物音がした。木箱か何かを派手に蹴散らす音だった。
「あの男か」
「この通りで走り回ってるのは、もう奴らだけだ」
「せめて旗持ちだけは捕まえるぞ」
「あっちは女らしいな」
足音が遠ざかっていく。リゼはそのタイミングを見計らって、床に手を這わす。指先にコン、と固いものが当たる感触がある。それに指を引っ掛けて上に引き上げると、きい、と小さく音が出た。慌てて手を止めて蓋の角度を保つが、音につられてやってくる足音は無かった。今度は慎重に板を最大限まで引き上げる。
埃っぽい空気がぶわっと立ち上った。厨房からするには明らかに不衛生な臭いだった。
此処だ。リゼの中に確信めいたものが生まれた。
板を支えながら、足を下ろす。ぶらりと空間に片足が揺れる。足裏が土壁を蹴った。硬い凹凸がある。足をかけると、弛んでいた繊維がギシッと張り詰める音がした。縄梯子である。
頑丈に作られていると信じ、彼女は体の向きを回転させると、一段一段を確実に降り始めた。数段降りたところで、床板を元に戻した。
湿っぽい土の香りと濃度の増した暗闇の中を、少女は足の感覚だけを頼りに降りていった。
足が地面につく感覚を覚えるまで、そう時間はかからなかった。とん、と靴の底が平たい場所についたとき、彼女は梯子から手を離した。恐る恐る辺りを見回す。
降りた先は人が一人通れそうな細い通路になっていた。足の下に敷かれた木の板は、土が剥き出しになった壁の隙間を、右へ左へ少しずつ曲がりながら奥へと続いている。
奥からはほんのりと光が覗いており、通路は仄かに明るかった。チラチラと壁に映る影が動いているところを見ると、誰か居るようだ。
剥き出しの壁は、補強のためか木の枠で形を保っているようだった。リゼは、昔読んだ小説の挿絵を思い出した。炭鉱掘りの物語である。
木枠に中途半端に刺さった数本の釘には、スコップやバケツ、ロープなどがかけられている。通りの邪魔にならないように、端には丸められた毛布や空の酒瓶などが無造作に転がっていた。
リゼはその場に留まって、その光景を呆然と見つめていた。
窓から入ってきた時は普通の家だと思ったのに。こんなに立派な地下通路を持っているとは。普段はどんな人が住んでいる家なのだろうか。炭鉱掘り? 大工?
耳を済ませると、奥から話し声が聞こえてくる。何を話しているかまでは聞こえないが、あの白いローブたちではないはずだ。メレディスが言うには、仲間が避難している場所なのだ。
リゼは止めていた足を音の方向へ進める。奥に行くにつれて、ぼんやりと闇に溶けていた輪郭が鮮明になっていった。
そして、彼女は広い場所に出た。アリの巣のようにその部屋だけが広く、その向こうにまた通路は続いていた。剥き出しの土壁に囲まれ、天井の木枠から頼りなくぶら下がる裸電球の下に、木製の丸テーブルが置かれている。そのテーブルを囲う三人の男女が居た。
一人は金色の髪を持つ女だ。もう一人は、深い青色の髪を持つ男。そして最後に、緑がかった青色の髪の少年であった。
三人の目は、一瞬にして突然の侵入者に向いた。一人は目を細め、一人は驚いて目を丸くする。もう一人は何の感情の抱いていないようだ。
会話が消え、しんと重い沈黙が降りた。リゼは体を固くして、その場で誰かが喋り出すのを待った。
「ありゃ」
金髪の女は、丸まっていた目を細めた。口にはにんまりと笑みが浮かんでいる。その口から出る声は、聞き惚れる程美しいハスキーボイスだった。
「驚いた。メレディスが女になっちまったみたいだ」
リゼは彼女の言葉に胸を撫で下ろした。彼の名前が出て来るということは、この部屋に居る全員は味方なのだ。
そう思ったのも束の間。
「誰の許可を得て入ってきやがった」
緩んだ緊張が再び蘇った。冷たい声に乗せられた問いは、青髪の青年からだった。彼は鋭い目で、リゼを頭のてっぺんから足のつま先まで舐めるように見た。そして、
「クエンテイルのやつらか? それともユークランカのどっかのやつらか」
彼は己の背中に手を伸ばした。その動きを、リゼは知っていた。メレディスが説明会で見せた動き__彼は、剣を抜こうとしている。
リゼの顔から血の気が引いた。
「やめな、ただでさえ狭いんだからさ」
青年の動きに気づいた金髪の女がそれを止める。青年はその言葉を受けても、まだ剣を戻さない。不満げな顔を女に向けて、
「こんな調子で此処に人を連れてきたら、此処がパンクしちまう」
「これ以上入れないから平気。それより見て気づかないかい? この子」
青年が金髪に向けていた目をリゼに戻した。リゼは居心地の悪さに顔を伏していた。そして、あれ、と思った。同時に、青年も「あっ」と僅かな声を漏らす。
「あの食堂の」
「そうさ」
リゼは顔を上げた。このハスキーボイス、聞き覚えがあった。
金髪の女が「気づいたかい?」と、リゼに向かって悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あの夜はどうも。お料理美味しかったよ、リゼ・フローレンスちゃん」
「......黒いローブの」
それは、あの夜にやって来た団体客の正体だった。メレディスやルークは既に顔を知っているが、目の前の彼女たちもまたそうなのだ。
かちゃん、と音がした。青年が剣を鞘に収めたのだ。
「そういうことかよ。早く言え」
「気づかないアンタもアンタだろ。顔くらい覚えてやんなよ。旗持ちなんだよ、この子は」
「今覚えたっての。うるせえな」
睨み合う二人に対して、もう一人の少年は無表情だ。リゼは彼の姿をそっと観察していた。
何を食べて生きているのか、枝のように細い腕や足、そしてボロ雑巾のような服に身を包んでいる。血色の悪い肌には泥や擦り傷が目立ち、他の二人とは雲泥の差だ。
あの夜に店にやって来た団体客に、彼のような体格の者は居なかった。エトランゼ班ではない、ただの委員会の本部の者なのか、それとも同じように襲撃にあった者なのか。おそらく後者だろうが、エトランゼであれだけの貧困層は見たことがない。
リゼが彼を見つめていると、彼も視線に気づいて此方を見てきた。窪んだ目が何処と無く骸骨を思わせる。リゼは失礼に思いながら目線を下の方へ落とすのだった。
「あ、メレディス」
金髪の女がリゼの方に目を向けた。リゼも振り返る。自分の後ろにいつの間にかメレディスが立っていたのだ。片腕にベストがかかっており、リゼはさっき顔にかかった布の感触を思い出した。
「上手くまけたかい」
「ああ」
メレディスは短く答えて、部屋を見回した。そして、
「テッドはどうした」
「トランテュから人員要請があってね。そっちに行っちゃった」
金髪の女が答える。メレディスは「そうか」と頷き、今度は目線をずらした。あの少年に目を向けているのだ。
「そこの子は」
「ユークランカから、兄ちゃんを訪ねてエトランゼまで遥々やって来たんだってさ」
リゼはそっと少年を見やる。彼の唇が薄く開いた。
「トルトヨっていう集落から来たんだ。家族と一緒に」
弱々しい声の中に、小さな震えが混じった。
「家族は」
メレディスが問うと、少年は弱々しく微笑んだ。首を横に振るまでもなく、その答えは明確に示されていた。
メレディスの目は、最後にリゼを見た。赤い目は地下でも美しかった。
「襲撃に関しては、災難だった、と言うべきか。それで済ませられるほどの問題では無いことは承知している。ただ、予想ができたとも、予想ができなかったとも言えることだ」
彼は静かにそう言った。リゼは彼の言葉の大半の意味を呑み込むのに時間がかかっていた。
予想ができたということは、メレディスは彼らの正体を知っているということだろう。襲撃というあまりに物騒な文化は、果たしてスプーン戦争ではよくあることなのだろうか。
いや、平和な祭典でこんなことが起きていたら、説明会の時点でメレディスから話があるはずだ。彼から、そのような話は全く無かった。
「詳しい話は、自己紹介の後でも良いんじゃないかな、メレディス。名前呼べないのも酷いだろうし、まずは互いの情報を共有しないとだろ?」
そう言って笑うのは、金髪の女だ。メレディスも頷いた。「じゃあ、アタシからね」と、金髪の女が一歩前に踏み出した。




