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スプーン戦争の夜明け  作者: 葱鮪命
第二章 長い一日
34/41

遠退く平和

 さっと血の気が引いたのを、リゼは感じた。人攫い__平和なエトランゼでは、まず聞かない単語だった。

 頭が真っ白になっていく。この鉄の香りから、父が大怪我をしていることは分かった。きっと、あの本物の剣で切りつけられたのだ。

 リゼは自分が置かれたこの状況を理解するのに、それなりの時間が必要だった。

 逃げなきゃ。

 それだけは理解できている。今すぐ裏口から逃げるのだ。しかし、何故か体が動かない。自分は夢でも見ているのだろうか。

「女の声がしたな」

 リゼはハッとした。そこで、無意識の拘束が解かれた。厨房の流しの下に体を滑り込ませ、その瞬間に酷く後悔した。

 何故、扉から出て行かなかったのだろう。父に逃げろと言われているのに。

 あの二つの人影は、一方は男のようだ。ざっざっとブーツの音が、リゼの隠れる厨房に近づいてくる。暗闇に居たので、彼らにリゼの姿はほとんど見えていないはずだ。

 リゼは流しの下から足を伸ばし、半端に開いた裏口の扉を強く蹴った。扉は大きな音を立てて閉まる。リゼは素早く流しの下に足を戻した。

「逃げやがった」

 男の声が苛立たしそうに言った。足音はまだ近づいてくる。

 リゼは口を覆い、荒くなる呼吸を少しでも抑えようとした。心臓の鼓動が聞いたことのない音を奏でている。耳の奥に心臓がついているように感じた。体全体に汗が浮かんだ。手足がガクガクと震える。

「さっさと捕まえて来い。女一人でも逃がすと、後々面倒だ」

「そうだな」

 ローブはついに厨房に入ってきた。流しの下から、白いローブの全貌が見えた。

 その人物は、裾が床につきそうなほど長いローブを身にまとっていた。白く滑らかな生地には、草木や鳥といった細かで美しい刺繍が施されている。

 ローブとなれば、思い出すのはスプーン戦争実行委員会の人間たちだ。だが、彼らがまとっていたローブは黒い。人攫いなどするような人達ではないことは、メレディスやルークたちの様子からよく分かる。

「何処行った」

 彼は裏口の扉を乱暴に開き、外に顔を出した。

「戻ってこないと、父親の命は無いぞ」

 ローブは、細長い十字架を軽く振った。飛沫が切っ先から床に飛んだ。父の血だ。リゼの視界は震えた。

 この人達は一体誰なのだ。生まれてから今まで、こんな残酷な経験をしたことがない。まるで、小説の出来事が本当に起こっているような__。

 リゼはハッとした。裏口からもう一人、白いローブが姿を現したのだ。

「女が逃げた。子供だろう。路地に居たか?」

「いや、見ていない。まだ中に居るんじゃないか」

 厨房に入ってきたローブが、そこで振り返った。リゼは流しの奥にじりじりと後退りを始める。心臓は今にも破裂しそうだった。

 裏口から離れた男は、ついにリゼが隠れる流しの前に立った。ローブの刺繍が目の前に迫り、リゼは呼吸を止める。

「まだ見つからないのか」

 それは、客席側に居るもう一人のローブの声だった。苛立たしそうに、彼は続けた。

「さっさとしてくれ」

「わかってる」

 リゼは背中にカウンターの壁を感じた。裏から父の荒い呼吸音がした。それを聞いた時、温かいものが頬に線を描いた。

「何もかも全部、お前たちの先祖のせいだ」

 血のついた切っ先が降りてくる。それと同時に、リゼは気づいた。剣を持つ彼の左手の甲に、緑色の宝石があるのだ。彼女はそれを見て、説明会でのメレディスの話を思い出すのだった。

 __彼らの体には、魔法石と呼ばれる宝石が埋め込まれていました。それが彼らの手から生み出される魔法の源でした__。

 リゼは自分が愚かだと思った。本物を見るまで、全てが何処かおとぎ話のように感じていたのだ。

 しかし、それは実在した。目の前に居るのは、自分たちと異なる種族なのだ。

「居ないのか?」

 客席側から声がした。

「子供は逃げ足が早い。かくれんぼもな」

 逃げ道を見極めようとしたが、もう遅かった。リゼは髪を引っ張られて、流しの下から、まるで物のように乱暴に引きずり出されたのである。

 あの時、父の言葉を聞いて外に出ていれば良かった。

 床に転がったリゼは、直ぐに立ち上がろうとした。しかし、

「あっ」

 ビリッと繊維がちぎれる音がした。足が何かを踏んだ。肩が下に強く引っ張られる感覚があった。ポシェットを踏んだのだ。

「居たか」

「ああ、隠れてやがった」

 べちゃ、と地面に膝をついたリゼは、今度は片腕を掴まれた。逃げようと藻掻くが、彼の力はあまりにも強かった。リゼは罪人のように上半身を流しに押し付けられ、背中で手を組まされた。抵抗という選択肢を早々に捨てるくらい、僅か数秒の出来事だった。

「暴れると余計に痛いぞ」

 首にヒヤリとした金属の感触。リゼはぎゅっと目を閉じる。

「お前たち、そろそろずらかるぞ。大門の馬車が一台やられた」

 裏口から声がした。

「クソ、思ったより早いな。お前は広場に行け。逃げ道を確保しろ」

 父の傍に居たローブの声だ。裏口の足音が遠ざかり、続いて父の細い呻き声がした。

「さあ立て。馬車に乗るんだ」

「お父さん」

 リゼはそこで目を開いた。父を呼ぶが、自分でも情けなくなるほど弱々しい声だった。

 カウンターの向こうで父が立ち上がったのが見えた。しかし、体はふらりと横に大きく傾き、ローブの方へ倒れた。上手く歩けないようだ。ローブが表に居たらしいもう一人を呼び、父を引きずるようにして外へ向かう。

「さあ、行くぞ」

 リゼの首に当てられていた剣は、鞘に収められた。空いた片手が、今度は確実にリゼの体を拘束しようとした。

 次の瞬間だった。

 外で物が倒れる音がした。

「何だ!?」

 拘束しようとしていたローブが其方を見る。リゼも外に目をやった。街灯の光で僅かに見えたのは、数頭の馬と大きな箱のシルエットだった。箱の中から、沢山の人間の気配がする。

「おい、イゴル、何があった!!」

 続いて、もう一度同じ音。今度はいくつも重なって聞こえた。

「くそっ!! イゴル!!」

 すると、それに答えるように迫る足音があった。誰かが店の中に入って来たのだ。それはカウンターに勢いよく手をつくと、体を半回転させて上手く飛び越えた。開け放たれた表口の扉から差し込む街灯の光で、その様子が僅かにリゼにも見えた。

 一瞬の出来事であった。

 暗闇の中で鋭く光る赤い目。ひゅん、と風を切る音がした。固いものと固いものがぶつかる、鈍い音が耳元で聞こえた。

「うぐっ!!」

 リゼの両腕からローブの手が外れた。外で聞こえたものと同じ音が、背後でもした。リゼはそっと後ろを振り返る。ローブが床に伸びていた。ずれたフードの下から、苦悶の表情を浮かべる男の顔が現れる。

 軽々とカウンターと流しを飛び越えたその人物は、静かにリゼの前に立った。

「......メレディスさん」

 堰を切ったように涙が溢れ落ちる。恐怖は未だ消えることは無かったが、その中で彼が来たことに心の底から安心したのだった。

 足から力が抜け、彼女は床に蹲った。

 その時、彼女は遠くで木の軋む音を聞いた。車輪がゴロゴロと回っている。蹄が規則正しいリズムを刻んでいる。馬車の発車を告げる音であった。

「お父さん!」

 リゼは反射的に立ち上がった。しかし、その場所から動くことは出来なかった。咄嗟にメレディスが行く手を阻んだのだ。リゼは驚いて彼を見上げる。

「今は無理だ。敵の数が多すぎる」

 それは、聞いたこともない口調だった。彼がこのような喋りをしているのを、リゼは聞いたことがない。人前であったり自分と話をする時は、いつだって丁寧な物言いで対応していたのだ。

「俺の基地が此処からすぐのところにある。そこまで行く」

「でも」

「今は動かない方が賢明だ」

 己の背後に見える景色に目をやったリゼの言葉を、彼は被せるようにして制した。

 既に車輪の音は遠くなっている。連れ去られた人々が乗せられているからだろう、普段聞く馬車の音より重々しい音を出していた。

 荷台の中に父が居る。コートニーやレミントンたちはどうなったのだろう。カスペルは、プリシラは__。

 リゼはグッと唇を噛んだ。

 もっと早くメレディスが来ていたら、父も__。

「リゼ」

 メレディスに呼ばれ、リゼは視線を上げた。赤い目が静かにリゼを見つめていた。宝石のような美しい目だ。まるで説明会で見たライフストーンのような煌めきを持っている。

「父親は必ず連れ戻す」

 静かだったが、彼ははっきりとそう言った。

「何が起こっているのかは後で説明する。とにかく今は、指示に従ってくれ」

 彼は続けた。何が起こっているのか、彼は把握しているのか。それなら、全て予測できたのではないのか。

 責めたい気持ちを、リゼは何とか抑えた。

 今此処で何をしようが、何も状況は変わらないのだ。

 リゼは項垂れた。メレディスはそれを首肯と取ったらしい。裏口から外に出た。土砂降りの雨が街を襲っていた。


 *****


「もうちょっとだからね」

 チェーリア・ファンファーニは、従兄弟たちの手を引いて、レメント川を渡ったところだった。中央の道を突っ走ると、見えてきたのは黄金の蕾たちだ。サザリアの花畑である。

「あっ」

 安心したのだろうか、チェーリアは両手の力が抜けた。すると、右を走っていた従妹が泥道の上に転がったのだ。

「ミラ!」

 チェーリアは急いで戻って、彼女を抱き起こす。

「ごめんね、大丈夫? 怪我は無い?」

 チェーリアは服の袖で、ミラの顔についた泥を拭い取った。ミラは赤く晴れた目をしていた。散々泣いた後なのだ。

「もう少しだよ。あとちょっと頑張れば、おじいちゃんとおばあちゃんが居るからね」

 チェーリアがそう言った時、先に花畑に入っていた従弟のアギラルが嬉しそうな声を上げた。

「おばあちゃん!」

 チェーリアはそれを聞いてホッとした。ミラの顔にも安堵の表情が浮かんでいる。

「ね、もうちょっとだから」

「うん」

 ミラの手を取り、チェーリアは立ち上がって慎重に歩いた。後ろを振り返るが、誰も追ってきていない。街の灯りはところどころ消えていて、いつもならば元気な酔っぱらいの彷徨う通りも、今は誰も居ない。

「みんな、捕まっちゃったの......?」

 ミラの不安げな声に、チェーリアは我に返った。

「大丈夫」

「イロちゃんは?」

「お母さんは......」

 チェーリアは遠くを見た。

 家に突然押しかけてきた白いローブたち。花守の冠作りのため、従兄弟たちが泊まりに来ていたので、チェーリアは奥の部屋で子供たちと遊んでいた。

 言い争う声がして扉から覗くと、母が叫んだのだ。

 __逃げなさい__。

 チェーリアは逃げた。従兄弟たちと、窓から外へ出たのだ。街は一変していた。沢山の馬車が、エトランゼの人たちを荷車にギュウギュウに詰め込んでいる。辺りで血の香りがして、子供の泣き声が響いていた。

 川を渡る直前、チェーリアの家の照明は全て消えた。暗闇の中で何が起こったのか、チェーリアは何も知らない。

「きっと、大丈夫」

 自分に言い聞かせるつもりで、チェーリアはそう言った。

 花畑が二人の足を迎えてくれた。

「ああ、チェーリア!」

 祖母のマイリスがやって来た。

 足が悪い彼女は、冠作りで街と花畑を毎日行き来するのが困難なため、この時期は花畑の掘っ建て小屋で過ごすのだと、チェーリアはイロに聞いていた。

 マイリスは、チェーリアをその胸にしっかり抱いた。

「良かった、無事だったの」

「うん」

 マイリスを支えるようにして、チェーリアは彼女から体を離す。

「イロは、どうなったかしら......」

 マイリスの問いに、チェーリアは何と答えたら良いのか分からなかった。表情で察しはついたようだ。マイリスは「そう」と目を伏せた。

「おじいちゃんは......」

 チェーリアは花畑を見回す。見える範囲に祖父の姿は無い。

「奥の方に居るわ。フェールンドたちの家は無事だったんだけれど、それ以外ほとんど捕まっちゃって......バレリオが、イーダが連れて行かれるのを見たって......」

 チェーリアが親戚の顔を次々と思い浮かべていると、隣でミラがわあんと泣き出した。

「ああ、大変」

 マイリスがすぐにミラを抱き上げる。抱き上げた拍子にふらついたので、チェーリアは慌てて彼女の背中に手を当てた。

「おばあちゃん、無理しちゃダメ。小屋に戻って椅子に座って」

「そうするわ。チェーリアも小屋にすぐ入るのよ。此処も完全に安全とは言い難いもの」

「うん」

 チェーリアは小屋に戻っていく祖母を見送り、花畑の奥へ向かった。昼間に皆で輪になって冠を作っている道に、数人集まっていた。

「ああ、チェーリアちゃん」

「無事だったか。イロはどうした」

「ダメだったの......?」

 チェーリアはその一つ一つに答えた。答えようとした。言いようのない心細さが胸の内を掻き回した。暗闇に消えた母の行方が心配だった。今にでも戻りたい。

 アギラルとミラを守った少女は、今この場では最も幼い。泣き崩れる彼女を、大人たちは優しく抱きとめた。

 暫くして、親戚が続々と花畑に集まってきた。小さな子供たちは掘っ建て小屋に避難し、残りの大人は難しい顔をして話を始めた。

 チェーリアは貰ったハンカチで目を拭っていたが、いつまで経っても母親が来ないと、いてもたってもいられない心持ちがした。

 そういえば、この場に祖父の姿が無い。アギラルが祖父を見つけたと言っていたが、見える範囲に居ないのだ。近くの大人に聞くと、

「険しい顔をしてサザリアを摘んでるわ。そんなことしてる場合じゃないのに」

 チェーリアは花畑の奥へ続く道を進んだ。

 祖父は本当に花摘みをしていた。チェーリアはその丸まった背中に近づく。

「おじいちゃん......」

 花でいっぱいになったバケツは、既に二つあった。この惨事の中、一人黙々と作業する風景は異常である。まるで、惨事が起こっていることを知らないかのようだった。もしくは__彼は初めから何か知っていたのか。

「何が起こっているか分かってるの?」

 祖父は手を止めた。チェーリアは鼻を啜った。涙を流す者も現れる程の一大事だということを伝えたかった。

「何かしらの動きはあるだろうと考えてはいた」

 彼は振り返らないままそう言って、茎を適切な長さに切っていく。

「寧ろ、この祭典は無くなってしまった方が良いんだ」

「どうしてそういうこと言うの?」

 皆で準備してきた祭典なのだ。祭典を心待ちにして、皆が説明会や保護作業に協力している。

 それなのに、祖父のこの態度は以前から変わらない。冠作りの時も、皆から離れた位置で黙々と作業をしていた。スプーン戦争のことを、「恨みの籠った祭典」だとも言っていた。

 彼はどうしてこの祭典にこうも冷たいのだろう。

「本当の意味を忘れてしまった祭典など」

 祖父は花をバケツの中に置くように入れた。

「する意味はあると思うか」

 孫を見上げた祖父の顔は、悲しげだった。

 生ぬるい風が花畑を吹き抜けていく。チェーリアはその風の中に、忘れかけていた血の香りを感じた。

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