決断と成長
「ちょっと、リゼちゃん。私はもう少し慎重に考えた方が良いと思うんだけれどねえ」
メレディスが去って、それに伴った人だかりも消えると、コートニーはリゼを椅子に座らせた。
「リゼちゃん、旗持ちになるの?」
レミントンも急いで自分の席に戻って来て、リゼの顔を覗き込む。
「リゼちゃん、旗持ちになるってことは、これから何ヶ月も色々な人に見られ続けるってことなのよ。きちんと考えてから答えを言わないと」
「リゼちゃんがエトランゼのリーダー第二号ってこと?」
「ティモーさんだって、どんな顔するか......」
「リゼちゃん、人気者だね!」
「黙ってなさいよ、アンタ」
リゼはコートニーに手を握られていた。足も手も、極度の緊張状態にあったからだろうか、産まれたての子鹿のようにプルプルと震えていたのだ。
座ってしまうと、もう二度と立てないような気がした。足に力が面白いほどに入らない。
自分が想像以上に無理していたのだと、リゼは座ってから理解した。コートニーは最初から分かっていたようだ。あの場で彼女が助けに来なかったら、リゼは気を失っていたかもしれない。
あれだけの大人数の前に居ることは、初めての経験だったのだ。
「でも......」
リゼはコートニーの手を握り返す。今なら雑巾も絞れないほど握力が無い。
「でも、私やってみたかったんです」
リゼはコートニーが厳しい顔をしていると分かっているので、彼女の顔を真正面から見ることができなかった。
自分のことをよく知っている彼女だからこそ、旗持ちになることで起こる出来事を心配しているのだ。コートニーは、リゼの母代わりなのだ。
しかし、あの時__メレディスが自分の口から答えを聞きたがった時、少女の心の中で、何かが大きな音を立てて割れた。それは、決して悪いものではない。
不安を押し上げて、それは口からぽっと出てきたのだ。「やります」と、リゼはコートニーを押し退けてそう言ったのだ。
「人前に出ることは苦手だけれど、やってみたいと思ったんです」
自分の行動に、リゼは自分でも驚いたのだ。だが、それが本心であると気づいたのだ。
プリシラやトシュテンから聞いていた旗持ちの話、誰かの心を動かす役__まるで、小説の主人公みたいではないか。
ああ、そう、そうなのだ。小説みたいだ。
リゼは、肩から下がるポシェットの存在を強く意識した。
この中に入っている小説の主人公も、旗持ちなのだ。彼は中年の男と描かれているが、自分と同じ役割だ。
まだ途中までしか読んでいないが、彼は選ばれた時に不安げな顔をしていた。心情も全て、文章を通してリゼは知っている。
しかし、表紙に描かれた彼は楽しげだった。理想とする旗持ちの姿がそこにあるのだ。彼はきっと、物語の中でいつか、その役にピタリとはまる瞬間があるのだろう。
自分に皆を導く力があるのか、野山を駆け巡る体力があるのか、リゼには分からない。
それでも、やってみたいと思ったのだ。小説の主人公のように、ピタリとその役にはまってみたいのだ。
自分の心は、そう言っている。
「コートニーさんに、心配はかけないようにします。私、楽しみです。旗持ちになるの」
リゼはなるべく大きな笑みを顔に浮べる。コートニーの顔は、その時きちんと見た。彼女は心配そうな表情を浮かべている。困ったような、少し怒ったような顔だ。
「......そう」
やがて、彼女はリゼの前からはけた。自分の席に腰を下ろし、リゼを握っていた手もパッと離す。代わりに、その手でリゼの髪に触れた。
「私が知らないうちに、随分お姉さんになっていたみたいね」
とても寂しそうな声色だった。リゼは何と返したら良いのか分からずに、されるがままになっていた。
会場の全体の雑音が弱まった。見ると、メレディスが登壇している。
「それでは、後半に入ります」
彼の顔は、また表情を失い、声も淡々としたものに戻っていた。
*****
「それにしてもよー」
カウンターの上に乗っていた小皿は全てが空だった。彼はそれをティモーの方に押しやり、ぐったりと上半身をカウンターに横たえる。
「本当に良い子に育っているよなあ、リゼちゃん」
酔いも回ってきて、少し前までの元気は無くなり、今はとろんとしている大男。キースである。
カウンターにて、ティモーは「当たり前だろ」と皿洗いを始める。
「俺の育て方が上手かったんだ」
「そうかあ?」
「おい、何か言いたげだな。言ってみろよ」
「いや、ロレッタさんのおかげだぜ。お前はきちんと感謝しろよ。可愛い娘を産んでくれたんだ。そして、お前に託してくれたんだ」
キースの声は眠たげだった。酔っ払いのいつもの絡みではあるものの、ある人物の名前が出てきたのは久しぶりの事だった。
ティモーは、その名前に目を伏せる。
「......そうだな」
ロレッタ・フローレンス。リゼの母親である。そして、ティモーの最愛の妻だ。彼女はまだ幼かったリゼと、小さかった食堂を残して、今はサザリアの花畑の奥で眠っている。
「俺が料理一筋だったばかりに、リゼには寂しい思い沢山させたろうな。ロレッタも、最期までずっと申し訳なさそうだった。何よりあいつ......学校に通わせる機会を奪ったって、最期は泣いてたんだよな。ロレッタに同情することも、リゼに同情することも出来たんだろうが......」
ティモーが皿の水を切って、流しの横に立てかける。その手は時々止まり、やがて思い出したように次の皿を手に取るのだった。
「俺は、結局どっちの立場にもなれなかった。ロレッタの病気のことは仕方ないし、それでリゼが学校に行けないのも仕方ないことだろ。じゃあ、俺が上手くフォローすれば良かったんだろうけど、上手い言葉なんか思いつかないんだ。こういう時に、勉強はしておくもんだったな、って思うな」
ティモーは一人笑って、皿洗いを済ませた。明日の朝食でも作るのだろう。冷蔵庫とパントリーをゴソゴソと探り始める。
「俺ずっと思ってるんだけどよ」
キースは中身が残り少ないジョッキを引き寄せた。
「リゼちゃんは学校に行かなくたって、きちんと自分の道を歩んでる気がするぜ」
キースとコートニーには子供は居ないが、ティモーからは、よくリゼの教育のことで相談は受けていたのだ。リゼが学校に行かないことで生じる負の効果について、ティモーは時折不安がっていた。
彼がリゼの前でそのような態度を出さないことを、キースは知っている。娘の前では明るく振る舞い、料理だけに精を出す、からりとした父親であろうとしているのだ。
しかし、リゼが週に一度大図書館に通い、そこで本を借りてきて毎晩の楽しみにするという彼女の日常に、父親として申し訳なさを感じていたのだった。
娘を満足に学校に通わせることも出来ない。しかし、その理由は妻の病気であって、それもまたどうしようもないことだ。
彼が二つの事象の間でうんうん唸っているのを見ていると、親友としては一つだけ言いたいことがある。
「リゼちゃんは、楽しみを見つけるのが人より上手な子なんだぜ。俺らじゃ思いつかないような些細なことも、全部楽しみに変えちまうんだ。コートニーがよく、そういう話をしてる」
「コートニーが?」
ティモーはパントリーから持ってきた食材を調理台に置いた。野菜ももう残り僅かだ。新鮮さも失われているので、料理人の腕が試される時である。
「ああ。今回のスプーン戦争だけどさ、賛否両論ある祭典だってのは、お前知ってんだろ」
「ああ。カスペルがよく言ってたが......」
「リゼちゃんにしてみりゃ、その賛否すら尊いもんなんだと」
「なんだそれ」
「な?」
キースが吹き出した。
「俺らには無い感覚だろ」
キースの言葉を、ティモーは考える。
そういや、と彼はここ最近の娘の表情を思い出した。随分と楽しそうだ。
スプーン戦争という祭典の存在を知って一ヶ月だが、彼女はその祭典に異常なまでの興味を示している。申請書を配った日、大図書館に行く彼女は見た事がないほど嬉しそうで、ティモーは内心驚いたのだった。
「あの子はさ」
キースは酒を飲み干した。
「俺ら以上に成長してるぜ。自分で自分の道を見つけてるんだ」
「道」
ティモーの手が止まる。真っ赤になっている親友の顔をじっと見た。
「俺らが心配することは何もない。お前は父親として申し訳なく思わなくて良い。堂々としてりゃ良いんだよ。リゼちゃんは大丈夫なんだ」
キースがニッと笑った。ティモーは「そうか」と止まっていた手を動かし始める。
「そうだったか」
ティモーが小さく呟いた時、外が騒がしくなった。二人の視線は窓の方へ向く。
「説明会、終わったか?」
「マジか、早いな」
キースが慌てて椅子から立ち上がるが、バランスを崩してカウンターの向こうに倒れた。
「いって!! この床固いぞ!!」
意味のわからない酔っ払いの発言が聞こえてきたが、ティモーは神妙な顔つきで野菜を刻むだけだった。
「さっさと帰らないと......コートニーに留守番頼まれてんだよ」
「その顔で誤魔化すのは無理があるだろ」
カウンターの向こうから現れたのは、体に大量のアルコールを投入した男の顔だ。ティモーはそこで久々に顔に笑みを浮かべた。
キースは親友の笑い顔を一瞥してから、覚束無い足取りで出口に向かう。
「そんじゃ、リゼちゃんに宜しくなあ。料理、美味かったぜ」
「おう。後でちゃんと請求するからなー」
「うお、まじか......」
扉が閉まり、店の中は一人になった。ティモーは野菜を細かく刻んでいたが、その手を浮かせてぼうっと宙を見つめた。
窓から通りの様子と、微かに大図書館の明かりが見える。
知らないうちに、娘は自分の道を見つけていたのだ。学校に行った方が有意義な生活を送ることが出来るなんて、そんなのは大人の勝手な妄想に過ぎないのかもしれない。
大図書館に行った後、彼女がどのように過ごしているのか、そう言えば知らないのだ。カウンターから見える接客中の彼女の姿しか、そして閉店後ベッドで本を読んでいる途中に寝てしまった彼女の姿しか、日常では見た事がない。
今回のスプーン戦争で、彼女の知らない一面を知ることになるかもしれない。
非日常の中で見せる真の娘の姿を、ティモーは父親として、かなり楽しみに思うのだった。
野菜を全てフライパンに投入した。油が跳ねる音と共に、外で大きな物音がした。
*****
長いトイレ休憩を挟んだ後、メレディスは細かなルールについて説明した。
リゼは、そのほとんどが頭に入ってこなかった。メレディスの方を見ると、高い確率で目が合った。今ではその理由がよく分かる。
自分は旗持ちに選ばれたのだ。エトランゼ、プーヘント、そしてロスランという三つの地区の満十三歳以上の者の中から、自分が選ばれる。それがどれほど低い可能性なのか。
リゼは自分の身に突然降り掛かってきた幸運に、酷く戸惑うのだった。
頭の中がその事ばかり巡っているので、リゼはメレディスの話をほとんど聞いていなかった。しかし、ある単語が彼女の意識をこの場に戻した。
「魔女と狼というルールがあります」
それは、何ともメルヘンな単語だった。
リゼはピクリと反応した。肩にかけていたポシェットの中身を意識せざるを得なかった。
「このルールは、祭典に参加したいという意思がありながら、やむを得ない理由で参加が出来ない方に適応されるルールです」
例えば、とメレディスは会場を見回す。
「足が悪い方や、怪我をしている方......とにかく、参加したいという意思があるならば、このルールは適用されます」
リゼは橋で転んでいた男を思い出していた。そう言えばこの会場に入ってからカスペルの姿を見ていない。彼らは会場に辿り着いただろうか。振り返って確認したいが、何人と目が合うのか分からないので、リゼは大人しく椅子に座っているのだった。さっきの出来事によって、自分にどれほど好奇の目を向けられているのか__考えるだけで、彼女は全身に汗をかくのだった。
「参加意思がありながら参加出来ない方は、このルールの中では魔女と呼ばれます」
「魔女?」
レミントンの声がした。
「そして、その魔女が本来持つべきライフストーンを持つことができるのは狼。狼となった人は、ライフを合計五つまで所持することが可能です」
「なんで魔女と狼なんだろ。守護と被守護とかじゃダメなのかな」
「まあ、理由があるんでしょう」
メレディスは説明を続けた。
「魔女と狼の関係を結んだ二人は、五つのライフストーンに二人分の命が宿ることになります。ライフストーンが五つ壊された場合、二人は同時に戦死者となります」
「つまり、自分の代理人を作ることが出来るってことか」
レミントンが頷いた。
リゼはルールの用紙を開く。「魔女と狼」という項目には、今メレディスが説明したことが載っていた。
カスペルが付き添っていたあの男の代理人は誰だろう。カスペルは優しいから引き受けてくれるだろうが、あの気難しい男は、カスペルが魔女の役になることを断ってしまいそうだ。
「大体のルールはこれで説明し終わりました」
リゼはルールの用紙から顔を上げた。再び、メレディスの視線とかっちりと合わさる。リゼはハッとして顔を下げた。
「最初にもお話しましたが、スプーン戦争は過去を忘れないための祭典でもあります。共に楽しみながら、次世代へ伝統を紡いでいきましょう」
メレディスがそう言って降壇の仕草を見せると、会場は拍手に包まれた。リゼは俯き気味に手を叩きながら、家に戻ったら父に何から話そうかと考えるのだった。




