夜のルーティーン
「お父さん、お掃除終わったよ」
雑巾を絞り終えたリゼは、後ろで調味料棚を整理していた父に言った。
「おう、おつかれ。もう休んで良いぞ」
父がそう言って、リゼを振り返る。
例の団体客が帰って一時間。彼らが武器を持っている理由も、ローブを着ている理由もとうとう最後まで分からなかったが、料理の味には満足してくれた様子だった。あの赤髪の男はよろよろと覚束無い足取りで通りを歩き、そしてハスキーボイスの女はリゼと父に料理の感想、それから何度も言っていた建物の感想を伝えてくれた。
「そんなに珍しい建物でも無いっすけどねえ」
と、父ティモーは首を傾げる。
そうなのだ。エトランゼにある建物は見た目も中身もほとんど一緒のようなもので、フローレンスが他と異なるのは、客席を増やすために表口から入ってすぐ左手に、取ってつけたような奇妙な空間があるくらい。厨房がある無い、客席の数など、店舗ごとに差異はあるが、本当に些細なものだ。
良い建物とは、何処のことを見て行っているのか。
「雰囲気が良いんです。それに、椅子もテーブルも沢山あって、人がいっぱい入りそうで」
女は言った。
「また来ようと思います。料理も美味しかったし......お嬢さんも可愛かったし」
パチリ、と片目を閉じた女に、リゼは息を飲んだ。リゼは初めてウインクをする人を見たのだ。
「お嬢さんのお名前をお伺いしても?」
「あ......えっと、リゼ・フローレンスです」
リゼは顔を伏せた。綺麗な人に「可愛い」という言葉とウインクをもらえた事に、顔が熱くなった気がしたのだ。
低い声が「リゼ・フローレンス」と小さく呟く。それは、女の横に立っていた赤い目の男だ。たしか、女に「メレディス」と呼ばれていた。
リゼは改めて彼の顔を見てみた。線の細い、美しい顔立ちだった。睫毛が長く、鼻が高い。リゼは何となく、彼の出身地を頭で思い浮かべた。
彼の赤い目も、その時しっかりと見た。しかし、リゼは小さな違和感を覚えた。彼の右目と左目とで、多少の違いがあることに気がついた。
両目とも赤いことに変わりは無いが、右はそれこそ宝石のようだった。左は、右の美しさには劣る。つまり、左が本物の瞳だとしたら、右は偽物のように美しいのだった。
リゼがぼんやりと彼を見上げていると、ハスキーボイスに意識を戻される。
「リゼ、か。素敵な名前だ。きっとまた会うことになるよ」
「......え?」
女に目を戻すと、彼女はいたずらっぽい笑みをその顔に浮かべていた。全てが画になる女である。リゼはまた見とれてしまった。
しかし、頭では今の女の発言についてぐるぐると思考が巡っていた。
きっとまた会うことになる。
また食べに来る、というニュアンスとは違う気がした。
リゼが考えていると、どん、と地面が揺れる感覚があった。少し離れた地面に、赤い髪の男が派手に尻もちをついたのだ。痛みは無いようで、愉快そうにゲラゲラ笑いながら、片腕で若い青年の肩を抱いている。
その青年も、今ではフードが脱げて灰色の短髪が見えている。リゼがフローレンスに戻ってきた時はそこまで酔っ払っていなかったが、この一時間で赤い髪の男の次に酔っ払ったのが彼だった。
一緒に尻もちをついたことが面白いのか、彼もまたケラケラと笑っている。
そんな二人の両脇には、二人の男が居る。其方はあまり酔っていないようで、「煩い」「早く立ってくださいよー」とそれぞれの片腕を引っ張って立ち上がらせようとしていた。
「何してんだか」
女は呆れ顔で其方を見やり、「帰るか」とメレディスに言った。「そうだな」とメレディス。
「それでは、私たちはこれで」
「あざしたー!」
「ありがとうございました」
無理やり立たされた二人の酔っ払いを挟んで、六人の団体客は暗闇へと姿を消した。黒いローブを着ていることも原因で、闇に溶けるのが早い。
「変わったお客さんたちだったね」
リゼは父を見上げる。
「だなあ。まあ、顔立ちの違うやつらが集まってるってことは、商人か何かなんだろうな。武器商人とかな?」
「そんな物騒なお店、エトランゼで出さないでしょ」
リゼは肩を竦め、父の背中を追いかけてフローレンスへ戻った。
あの方向に、宿屋なんてあっただろうか、と考えながら。
*****
掃除を終えたリゼは、二階に向かう。リゼが日中働くフローレンスは、建物の一階部分。厨房の奥には階段があり、そこから二階へ上がると、リゼと父の居住スペースだ。エトランゼで店を構える者は、大抵これと同じような建物に住む。
フローレンスの場合、階段を上った先はリビング。ほとんど此処に居ることは無い。廊下が左右に延び、右に行けば風呂場やトイレ、左に行けばリゼの自室とティモーの自室がそれぞれある。
自分の部屋に戻ったリゼは、着替えを済ませてシャワーを浴びた。しっかり髪の水分をタオルで拭き取って、それが乾くまでが幸せの時間である。
髪にタオルを巻いたリゼはベッドの隣の窓を開き、夜風が部屋に入ってくるようにした。続いて枕の下に手を差し入れる。固く乾いたものが指先に触れた。引っ張り出すと、それは小説だった。さっきの固い感触は、小説の背表紙だったのだ。
リゼは夜風に髪がよく当たるように、窓のある壁に寄りかかるようにして座る。足を投げ出し、手の中の小説をじっくり眺めた。
緑に染色された革には、金で蔓模様の細工がされている。魔法使いに弟子入りした、貧乏な薬草売りの話である。少し色褪せた表紙の緑はその物語の歴史の深さを思わせる。金の蔓模様は、魔法使いの魔法がかかった植物を。
本を開けば、美しい挿絵と細かな文字が目に飛び込んでくる。しおり代わりに挟んでいた折りたたんだメモ用紙を外し、昨夜の最後に読んだ文章を探す。
リゼの夜の楽しみというのは、このささやかな読書タイムだった。髪が夜風で乾くまでの間、一週間に一度あるフローレンスの定休日に通う、大図書館で借りた小説を読むというものだ。
物語はいよいよクライマックス。少しだけペースを上げれば、明後日の返却予定日に間に合うだろう。
何処かで酔っ払い達の陽気な笑い声がする。この声はパン屋のキースと、靴屋のレミントンだ。これも心地良い彼女の読書空間には必要不可欠な要素である。
夢中で頁を捲る少女の髪を、夜風のタオルは優しく撫でていくのだった。
*****
「ちゃんと歩きなよ」
「歩いてるだろお」
「体が斜めってるんだよ」
街灯が大きく隙間を空けて並んでいるので、通りは薄暗い。ローブを揺らしながら、六人の人影はレメント川の隣、食べ物通りを西へと歩いていた。
「全く。何しに来たんだか」
ため息をつく女は、隣の赤髪の男を支えていた。まるで熊にでものしかかられているような感覚だ。向こう側に押しやったが、その隣もまた酔っ払いなので頼りにならない。
「お料理美味かったっすねー」
奥の酔っぱらいの隣からそんな声がする。彼も飲酒していたが、まだ正常な会話と歩行が可能であった。案外強いのか、とさっきの食事処で女は意外に思ったのだった。
「俺、あのパスタもう一度食いたいです。絶対また行きましょうよー」
「そうだね」
思い出したらまた食べたくなってきた。噂に聞いていた林檎のパイが出てこなくて残念ではあったものの、代わりに提供されたココアプディングは絶品だった。自分の出身地ではココアもプディングも珍しい食べ物で、ほとんど初めて食べたのである。今度行くとなれば、是非レシピを聞いてこなければ。
女は思い、再び酔っぱらいを押した。
いい加減、地面に寝転がして運ぼうか。その方が断然楽だ。
「取り敢えず、あの店で下見は終わりですか」
「ああ、そうだよ。エトランゼ中の建物は一通り見終わったかな」
女は長かった一ヶ月間を思い出す。この地区の入口である南門を初めて潜ったのは、およそ一ヶ月前。呆れるほど平和ボケした門兵に事情を話し、女王のもとへ案内してもらった。城の門兵の方がしっかりしていたので、更に呆れたのだった。
無理もないな、とは思った。小さな犯罪を取り締まることさえ出来たら良いくらいに、この国は平和が染み込んでいるのだ。それは良いことと捉えるべきか、それとも悪いことと捉えるべきか。
少なくとも、国民は大半が知らない。これからこの国で行われる大きな祭典を。この国がかつてどんな有様だったのかを。
平和ボケした脳が少しは正常に戻ってくれることを祈るしかない。いや、生まれた時から平和なのだから、今から起こることを飲み込める者はほとんど居ないのではないかと思っている。自分だってそうだ。ここに居る六人全員、本物でも偽物でも、戦争というものを経験したことがないのだ。
決して楽しい記憶ではないが、それでも伝えるために楽しくしたこの祭典を、後世に伝えていくのが自分たちの役割。それを再確認出来たのは、さっきの店で出会った少女を見た時だった。
「リゼ・フローレンス......想像通りの子だったかい?」
今度は自分のすぐ右隣を歩く男に話しかけた。彼はさっきから無言で歩いている。赤い目がフードの下から女をチラリを見た。
「まあ」
曖昧な返事だった。女は吹き出す。
「可愛い子だったね。上手くやるんだよ。アンタが支えていくんだから」
「分かってる」
本当に分かっているんだろうか。女は苦笑する。
最後の下見の場所は、食堂・フローレンス。そこを最後に選んだのは、エトランゼで屈指の名店という噂を聞いたからというのが理由の一つ。最高に頑張った一ヶ月前の仕事は、最高の料理と酒で締めようという女の提案だった。
そしてもう一つは、そこの看板娘、リゼ・フローレンスの姿を一目見ようと思ったからである。
女の予想とはそこまで違いはなかった。想像通り素朴で平凡そうな、エトランゼ地区民と言われれば納得する、そんな少女だった。武器にも警戒して、黒いローブの団体客を明らかに怖がっている様子は、正直に言ってしまえば丸わかりだった。だが、何とか客として接客してくれた勇気は褒め称えても良いだろう。あの子は良い子だ。
皆の歩幅が小さくなった。目的地がすぐそこなのだ。
「楽しみだね、これから」
女は言った。声はしなかったが、皆フードの中で頷いているのだろう。
祭典は近づいてきている。
胸の底から湧き上がる高揚感を押さえつけようと、女は胸を押えた。
ああ、楽しみだ。早く全て終わらせて、そして全て全力で楽しみたい。
やがて六人の黒いローブたちは、宿も何も無い路地裏へ、その姿を消した。