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スプーン戦争の夜明け  作者: 葱鮪命
第一章 知らない祭典
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夜の柵の向こう側

 集落はまだ眠りにつかないらしい。タネリが語って聞かせる夕餉の時間は、いつもより早く終わりを告げた。エドガルドがタネリの想定していた時間を遥かに削って話を終わらせたからだ。物足りない子供も中には居たらしく、第三回目のスプーン戦争について周りの大人に各々聞いている。

「ディックには少し難しかったのね」

 母親ベルタの腕の中で、アルフォード家の四男ディックは幼い寝顔を見せていた。

「私、ベッドに寝かせてくる。ケントとヴィヴィは?」

「僕ら此処に居るよ」

「うん、もう少しパトリシオからお話聞いていたいの」

 息子と娘の楽しそうな顔を見て、ベルタは「そう」と微笑んだ。エドガルドが妻のゆりかごから息子をそっと抱き上げ、家に向かう。妻もその隣を歩きながら、

「懐かしいわ。何だか昨日のことみたい」

 ぽつりと言った。

「貴方がタネリの代わりに語り人をするなんて」

「お前も止めたらどうなんだ」

「あら、様になっていたわよ。とっても優しい語りで。見た? あの時のラフルの顔」

 可笑しそうに、ベルタはクスクスと笑う。

「何だか不思議そうな顔をして貴方を見ていたの。可愛かったわ」

「空を見ていたから分からん」

 梯子を登り、二人は家に入った。ベルタが湯を沸かしてミルクを温めるのを横目に、エドガルドは寝室へディックを寝かせに行った。やがて寝室からエドガルドが戻ってきて、二人は向き合ってミルクを飲んだ。

「子供たちはすっかり祭典のお話に夢中ね」

「そうみたいだな。まあ、集落の外に出ても良い珍しい機会なんだ」

「そうね」

 ベルタはミルクに映る自分の顔を見つめて、小さなため息をついた。

「ラフルの夢が叶う頃には、集落に人は居るのかしら」

 エドガルドは妻を見つめていた。此処に来た頃に比べたら、随分痩せた。エトランゼに居た頃は、まだ頬の肉が健康的で、髪にも肌にも艶があった。子育てと、大人への栄養の少なさから、今の彼女が出来上がっている。彼女に恋した少年の自分に少しの罪悪感が募る。

「どうだろうな。よっぽど故郷愛の強い者じゃないと難しいだろう」

「貴方みたいなね」

 ベルタと目が合った。当時と変わらない目の光だ。

「恨んでいないか」

「何がですか」

「俺が、お前を此処に連れてきたことだ。小さな集落だからな、余所者扱いを受けることもあるだろう」

「少しだけね。でも、後悔は少しも無いの。私は貴方が生まれた場所で子供を産んであげたいと思ったから。そうしたら、広い世界を見た時の感動は他の人以上になるでしょうから」

 花のように柔らかな笑みが向けられ、エドガルドはそっと目を逸らした。

「ラフルは......俺よりも上手いだろうな」

 彼が目を逸らした先は、家の外へ続く扉だった。子供たちの笑い声が虫の音と共に流れ込んでくる。

「私は大好きですよ。貴方の紡ぐお話」

 エドガルドはミルク入りのカップの縁に口をつける。一気に流し込む。

「貴方の子ですもの。あの子は上手くやるわ」

 溶けきらないスパイスが、カップの底に点々と残っていた。


 *****


「ねえ、何処に行くの」

「いいから、ついておいでよ」

 ラフルはタネリの背を追っていた。広場から離れると、火の光も弱くなってくる。光がない集落では、夜は月と火だけが光源なのだ。

 タネリはラフルを連れて集落の柵までやって来た。そして、堂々と柵の扉を開けたのだ。ラフルは目を疑った。語り人である彼ならば、狼の恐ろしさはトルトヨの誰よりも知っているだろうに。あんなに子供に注意しておいて、自分は良いのだろうか。

「ほら、何しているんだい。はやく」

 タネリは柵の内側で渋っているラフルを振り返り、そう言った。

「ねえ、良いの? 夜は柵の外に出ちゃいけないって掟でしょ」

「良いのさ。僕らは大人だろう」

「......」

 ラフルは自分の胸の痛みに気付かないふりをした。そう、大人だ。大人は別に、いつだろうが柵の外に出て良いのだ。

 ラフルは柵の外に一歩踏み出した。ドキドキとしている自分とは違って、タネリはラフルが外へ出て来たのを見るとそそくさと歩き出した。ラフルも遅れないようにその背中についていく。

「ランタンに火をつけようか」

 そう言って、タネリは腰にぶら下げていたランタンを外し、そこに火をともした。暖かな光が木々の作る闇を柔らかく押し返す。

「もう少しだよ」

 そう言ってまだまだ進む彼に、ラフルは黙ってついていく。

 広場でぼんやりと周りの話に耳を傾けていたら、タネリが「夜の散歩に行こう」と誘ってきた。こんなことは今まで無かった。胸の内が激しく踊って、上手く返事が出来なかった。代わりに小さく頷くと、彼は自分を広場から遠ざけて、柵の外に連れ出したのだ。

 集落の掟では、柵の外側は子供だけでは行ってはいけないことになっている。大人だって、夜は外に出ない。森には狼が居るからだ。ラフルはまだその銀色の美しい獣を見たことがないが、時折森に響く彼らの声は、その存在を決定づける証拠となっている。

 集落での掟を教えてくれるのは、今ランタンの光を揺らして歩く前の背中である。遊びも掟も、彼が教えてくれるのだ。大人になったら出ていかなければならないというものだけは、親の口から伝えられるものだが。

「さあ、此処だ」

 ラフルは足で踏み締める地面の感覚を知っていた。この道は、自分がよく知る道だから。何なら昼に此処に来ている。

「此処......」

 それは、池だった。タネリが頷いた。

「此処でなら、説得力のあるお話ができるかなと思ってね。そうなら、最高のステージだよ」

 ラフルはタネリの言葉の端々に「説教」の気配を感じた。体を固くして、彼の横顔を盗み見た。暗くてよく分からない。

 もしかして、集落を出ていかない自分を、出ていく決心をつけさせるようにと、父と母に頼まれたのではないだろうか。タネリにまで言われてしまったら、自分はいよいよ明日にでも出ていかなければならなくなる。

 ラフルの予想は的中した。

「トルトヨに残りたいんだってね」

 タネリが此方を振り返る。その顔には思いのほか優しい表情が浮かんでいたが、ラフルは目を伏せていた。

「うん」

「どうして?」

「......言いたくない」

「言ってみなよ。笑いはしないさ」

「......でも、言いたくないんだ。笑わなくたって、呆れられる」

「呆れるもんか」

 真剣な声だった。タネリは子供と接する時、真剣な話をする子にはきちんと耳を傾ける。子供が聞いて欲しい話を、その子が求めている姿勢で聞いてくれるのだ。

「言ってみなよ」

 タネリがもう一度言ったので、ラフルは腹を括った。虫の音がリンリンと近くの茂みから聞こえてくる。

「......語り人になりたいんだ」

 ラフルは虫の声に負けそうな声量で、しかし精一杯言った。目をぎゅっと閉じた。瞼の裏が白くなるほど。

「ああ、そうみたいだね」

 光が飛び散る。目を開いたのだ。タネリの顔が目の前で真剣な表情をして、自分を見ている。怒っているのか、それとも真剣に聞いてくれているのか。ラフルは困惑して問うた。

「そうみたいだね? 知ってたの?」

「知ってるも何も」

 彼は今度は呆れ顔をし、肩を竦める。

「昼餉も食べないと決めたくせに、僕の話だけはバッチリ影から聞いているじゃないか」

 ラフルに雷が落ちたような衝撃が走ったのは言うまでもない。父の仕事場から理由をつけて逃げ出して、池に水を汲みに行ったついでと思って家の影から昼餉の話を聞いていたのだ。

 彼からの位置では、自分は見えていないはず。

「見え見えだよ。そもそも君の夢は小さな頃から分かっていたよ。君だけ違うんだから。僕への視線の当て方がさ」

 タネリが苦笑した。ラフルはあんぐりと口を開けて彼を見つめる。

「エドガルドとベルタにも話は聞いていたんだ。僕の予想は外れないさ。パーバリとリーナの夢だってすぐ見抜いたんだからね」

「お兄ちゃんと、お姉ちゃんの夢を知ってたの」

「まあね」

 タネリは近くの木の枝にランタンの持ち手をぶら下げた。両手が空くと、その木の他の枝に飛び乗る。幹に背を預けて枝に座ると、彼はふう、と息をついた。

「トルトヨはね、やっぱり貧しい集落だからさ。子供たちの居場所はなかなか確保できないんだ。外へ行く夢を持つのは正解だと思う」

 ラフルはムッとした。それではまるで__、

「まるで、僕の夢が否定されたように感じる、って?」

 心の中の言葉を一言一句違わずに言われて、ラフルは言葉に困った。黙っていると、タネリは笑った。

「こんなことを憧れている人に言われるのって、とても嫌な気分かな」

「嫌どころじゃないよ。夢への道に大きな石を置かれたみたいに感じる」

「良い表現するね」

 タネリは木の枝をコンコン叩いた。隣に座れということらしい。ラフルは勢いをつけて乗った。頑丈な木だが、男二人が乗っても折れないのは、体重にも原因があるのだろう。二人は枯れ枝のように細いのだ。

「貧しいけど、素敵なところだよね」

 タネリは呟くように言った。

「僕もトルトヨが好きだよ。パーバリもそうだった。彼の絵はきっと、エトランゼで大きく評価されるさ」

「でも......」

 ラフルは兄の顔を思い浮かべる。暗いところなど感じられないほど、彼は光に満ちていた。トルトヨの闇をいち早く知っていたのは彼だったが、最後までその素振りを見せなかったのだ。

「お兄ちゃんは、エトランゼで夢を諦めていないのかな。だって、やっている仕事は絵描きじゃなくて、運び屋なんだよ?」

「そうだね。でも仕事の傍らで絵を描いているかもしれないじゃないか」

「それで満足なのかな......」

「さあ」

 タネリは枝に座り直した。ほとんど揺れが無い。

「でもさ」

 タネリは続けた。

「インスピレーションは受けるかもね」

「インスピレーション......?」

「そうだよ。この狭いトルトヨから出たことで、もっと描きたいものが増える。知識も増える。きっとパーバリは絵を描く道具ってものを知らない。だから、外に出て、画材屋に入って、きっと顎が外れるほど驚いただろうね。自分がこの道具を操れるようになるまで、どれほどのお金が必要かを考えて悩むだろうね。そして、頑張ってお金を貯めようという気になるだろうね」

 タネリは柔らかい声だった。

「美味しいご飯を食べて、新しい言葉を知って、いっぱい知らない世界を見るんだ。そして、きっと色んな出会いがあるだろう」

「......何だか、」

 ラフルは今の話を聞いて、一人思い当たる人物が居た。掟に従って集落を出て、その先での出会いをよく知る人物が居るのだ。

「父さんの話みたいだ」

 タネリは微笑んだ。そして、枝の先にかかるランタンを指さした。

「ランタン、消して」

 ラフルは躊躇う。これを消したら、本当に真っ暗になってしまう。集落の明かりは此処まで届かないし、それに今日は、新月なのだ。

 タネリがそれ以上何も言わないので、ラフルはランタンを手にして、ふっと息を吹きかけた。火はパッと消えてしまった。辺りに闇が迫る。もうタネリの顔も見えない。

 ラフルは不安になって辺りを見回し、そして、

「わあ」

 池の水面に映る、満天の星空を見つけた。タネリが居た方を見ると、うっすらと彼の顔が見える。水面の僅かな光が反射しているのか、それとも暗闇に目が慣れてきたからなのか。

 ラフルはもう一度池に目を戻す。こんなに美しい景色をラフルは生まれて一度も見たことがない。たった少し息を吹くだけで、こんな景色が現れるなんて。

 隣でタネリが「さて」と囁く。それは、語り人としての声色だと、ラフルは気づいた。

「夜の星の話をしよう」

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