魔女と狼
「狼と魔女の話をするよ」
昼餉の時間が始まった。朝餉と異なるのは、丸太椅子に腰かけているのが子供だけであるということ。大人はまだ畑を耕していたり、雑草取りをしたりしていて、子供たちの傍に居ない。そして鍋は既に空だった。子供たちの分しか作ってないのだ。
貧しいトルトヨでは、大人たちの飯は朝餉と夕餉だけ。一日三食は子供の特権である。
しかし、大人が居ないので子供たちの注意は散漫になる可能性が高い。そこでタネリが子供たちと一緒に飯を食い、祈りを済ませた直後から話を始める。唯一タネリだけが、大人でありながら昼餉を貰えるのだ。
「朝餉の時間にした話は、フォーク戦争がどんな戦争だったか......どうして魔族は負けてしまったかだったね。どうして起こったんだったかな」
「はい!」
「はい、ケント」
「みんなフォークを持っちゃったから」
笑いが起きた。
「よく聞いていたね。フォークは確かに持っていた。ではどっちの種族が主に持っただろう」
「人間! 武器が無い人はフォークで戦ったんだろ!」
「そう、正解だよウスコ。じゃあ、どうして魔族は負けてしまったのかな」
「魔女に魔法を封印されたんだっけ」
「魔法が使えなくなっちゃって、人間と戦える方法が無くなっちゃったから!」
「そもそも魔族は人数が少なかったんだよ! だってユークランカにしか居なかったんだもん!」
「みんな、よく聞いていたね。全員正解」
タネリが頷き、スープを啜る。子供もハッとして真似をした。
「じゃあ、今度はその偉大なる魔法使い__ロザンネ様のお話をしようかな。ロザンネ様がみんなの魔法を宝石に閉じ込めて、魔族は魔法を使うことができなくなってしまったんだったね」
タネリは語りを始める。
その偉大なる魔法使いの名前はロザンネ。黒に限りなく近い青色の髪を持つ、美しい女である。霧深いユークランカには更に霧深い土地があり、その霧に迷い込むともう二度と出てこられないとまで言われているのだそう。
何故その深い霧が漂っているのかと言うと、それはロザンネの仕業なのだ。彼女の家はその深い霧の中に建っている。もし本当に迷ったり、または命に関わる怪我をしたり、困り事があったりするとき、その霧に迷い込むと彼女が助けてくれるのだとか。
彼女は正真正銘の魔族だ。一説には、魔族の女王とまで呼ばれているそうだが、それはどれも人間が勝手に作りあげた伝説に過ぎない。
本当に伝わっているものは、フォーク戦争の時の彼女の活躍である。
「霧深い森の中の、更に霧深い土地に一人の美しい魔法使いが暮らしていました」
物語を語る時の彼は、目を伏せる。
「その魔法使いは、心優しき偉大な魔法使いです。彼女の名前はロザンネ。森で迷った人を正しい方へ導いたり、怪我をした人や動物を助けたりすることが彼女の日常です。ある日、彼女は人間と魔族との間で戦争が始まったことを知りました」
子供たちはタネリの顔をじっと見つめていた。まるで、彼の顔に物語が映し出されているかのように。
「魔族たちは、人を助けるためにしか使ってはいけないとされていた魔法の力を、人を傷つけるために使いました。人間も、美味しいご飯を食べるためのフォークを、魔族を傷つけるために使いました。二つの種族の心には悲しみが渦巻いていました」
タネリはスープを口に含んだ。子供たちも思い出したようにそれをした。あまりにも集中しすぎて、スープを飲むのを忘れないようにするためにする、彼の技法だ。家の影からじっとその様子を見ていたラフルの喉も、ゴクリと鳴った。
「ロザンネは皆に美しい心を取り戻して欲しいと考えました。平和を愛した彼女にとって、戦争というものは悲しすぎる出来事でした。彼女は自分に与えられた全ての魔法の力を使って、大きな宝石に、魔族全員の力を閉じ込めたのです。これで良かったのです。戦争に使われる魔法なんて、無い方が良いのですから。そして、彼女はこの国の、誰にも見つからない場所にその宝石を隠してしまったのでした」
タネリはスープを口に含む。続きを思い出すように、その動作はゆっくりだった。ラフルも彼と共に喉を動かす。手の中のバケツの水は半分になっていた。バケツには穴が空いていたのだ。彼はそれすら気づかないのだった。
「戦争は魔族が敗北して終わりました。人間も魔族も心と体に深い傷を負っていました。大切な人を失い、大好きな家を失い、国民の生活は何もかも変わってしまったのです。魔族の怒りはロザンネに向かいました。魔法の力を奪われたから、戦争に負けてしまったのです。彼らはロザンネの家に向かいました。力を返して貰うために」
タネリはそこで一度話を止めた。皆のスープの減り具合を見ているのだ。
「ロザンネ様は力を返すと思う?」
彼の問いに、子供たちはここぞとばかりに口を開いた。
「返さないよ。だってまた戦争が起こるじゃないか」
「でも、魔族にとって大事なものだったんでしょ? 魔族は魔法も失ったら、人のために魔法を使うことすらできなくなっちゃうよ」
「その方が良いの、タネリ」
「良いわけないよ! 魔法を使えないのは困るだろうし!」
「もし困っている人が居たらどうするのさ!」
「でも......人間は魔法なんて最初から使わずに生活していたんだよ。魔族だけ魔法を使えるなんて、やっぱりズルいんじゃないかなあ」
子供たちの自由な討論は、少しの間繰り広げられた。タネリはそれを邪魔せずに耳を傾けているだけだ。ラフルは彼の行動を一瞬たりとも見逃さない思いで眺めていた。
語り人になれるわけなどないのに。
それでも、魅入ってしまうほど彼の所作は興味深いのだ。子供があれだけ集中を保って話を聞き、大切なことを自分で考え、そして栄養を摂る。魔法のように、タネリはそれを完璧にこなしてしまうのだ。
楽しそうだな。
ラフルは壁に寄りかかる。
自分も、やってみたい。
「続きと行こうか」
ある程度話し合いの火が収まったところで、タネリは口を開いた。
「魔族が家に向かって来る頃、ロザンネは、戦争によって怪我をした森の動物の怪我の治療を行っていました。森は焼かれ、動物たちは無惨にも殺されてしまうことがあったのです。魔法があればパッと治せるのですが、自分の力もまた封印してしまったロザンネ。森に生える薬草と清潔な水、そして布で彼らの怪我を一つ一つ治すのでした。とても時間のかかる作業ですが、彼女は動物たちに尽くしました」
タネリはスープを飲み干した。
「ある日、彼女の元に一匹の狼がやって来ました。それは大砲の玉で腹が大きく抉れた狼です。また、腹も酷く空かせていました。ロザンネの家に辿り着いた時には既に虫の息だった狼ですが、ロザンネの懸命な治療の末、何とか命を繋ぐことができました。それからロザンネはその狼とは仲良しになり、家族として家に迎え、仲良く暮らしていました」
ポツン、とラフルは鼻の頭に冷たいものを感じた。上を見ると、黒々とした雲が集落の上空を覆っているのだ。
「やがて、魔族たちがとうとうロザンネの家にやって来ました。彼らはロザンネに迫って、魔法を返すように言いました。ロザンネは宝石に閉じ込め、それを隠したと話しました。場所を聞かれても答えませんでした。魔族たちは彼女を襲おうとしました。すると、ロザンネと一緒に暮らしていた狼が、自分の仲間の狼を引き連れて魔族を追い返してしまいました」
雨足は少しずつ強くなってくる。大人たちが家に入る準備を始めたのが視界の端に映った。
「ロザンネはそれから狼とその家で過ごしました。魔族たちは死に物狂いで宝石を探しましたが__その宝石は今も見つかっていません。そして、今度こそ場所を聞こうとロザンネの家を訪ねようとした魔族たちでしたが......彼女の家は、深い霧に囲まれて、今はもう、誰も辿り着くことはできないのでした」
おしまい、とタネリは物語の世界を閉める。子供たちもちょうどスープを飲み終えたのだった。近くに居た大人が、ボウルを回収し始める。
「どう思った?」
タネリが皆の顔を見回す。
「魔法が使えなくても、狼が守ってくれるんだね」
「昔の人と一緒だね。一緒に狩りをしていたって言っていたもんね」
「その通り」
タネリは頷いた。
「魔法を使わなくたって、幸せに暮らすことはできるんだ。ロザンネ様がそうしていたように。それに、今の僕らも幸せに暮らせているだろう」
「うん、本当だね!」
「魔法は無くても良いのかもね!」
子供たちが頷き合うのを、ラフルは複雑な表情で眺めているのだった。
彼らは残酷な未来を知らないのだ。この集落の掟を知らないのだ。自分がそうだった。兄と姉と、あの話を聞いている時、自分も頷いていた。
発展しない土地に住み続ける自分たち魔族の末裔が、いつまでも幸せで居られるわけがない。
__それは、自分だけなのかもしれないが。
ラフルは目を伏せた。湿った前髪が目に掛る。タネリが「さあ、家に避難だ」と子供たちを誘導する声がした。
みんな、幸せなのだ。自分だけなのだ。語り人になりたいから、と窮屈な思いをしているのは。大人もみんな、腹を空かせる意外では楽しそうだ。
自分だけ。どうして、自分だけ。
「ラフル」
ハッとラフルは顔を上げた。目の前に母が立っている。雨で湿っている、緩く結んだ三つ編みを横に下げ、顔には心配げな表情が浮かんでいる。
「風邪引いちゃうわ。早く家に戻るわよ」
「......母さん」
ラフルは動かなかった。
「僕、此処に居ちゃダメ?」
母は何も言わなかった。いよいよ地面がぬかるんでくる。バケツの水が何もしていないのに増えていく。遠くでゴロゴロと音がした。そのうち、何処かに雷が落ちる。
「やっぱり、何でもない」
ラフルは顔を上げて、わざと明るい声で言った。母が冴えない表情をしている。ああ、こんな顔させたくないのに。
「お家、入ろう」
「......そうね」
母が背を向けて歩き始める。ラフルはバケツを置き、その背中を追った。年々、歳を取る母の背中。心配を掛けてはいけないのに。下の弟や妹の世話で精一杯の親に、自分はどれだけ心配を掛けるのだろう。何て親不孝なのだろう。
ラフルは何度も心の中で謝った。広場を突っ切る時、チラリと焚き火の跡に目をやった。煙が弱々しく立ち上がっていた。何もかもが湿って、何もかもが褪せている。




