トルトヨ
国を東西南北に簡単に分けると、西は鬱蒼とした森が広がる、人もあまり住まない地域だ。もちろん、かき集めればそれなりの人間は居るだろうが、皆森の方方で独自の文化を形成していた。
その地区の名は、ユークランカ。かつて魔族の土地とされ、他の地区から一目置かれていた。王都からは物理的にも心的にも距離が離れているので、ほとんどの国民が彼らの生活についてよく知らないだろう。
ユークランカ地区と言えば、小麦の名産地である。国の多くの民が主食とするパンは、このユークランカ産の小麦で作られていることがほとんどだ。よって、人々の頭にあるユークランカとは、森の手前に小麦畑が広がる、緑と黄色と、空の青が美しい、手付かずの自然と共存する民族の地なのである。
その考えはあながち間違いではない。森の前には小麦畑が広がっているし、曇天でも晴天でも、その上に空は広がっているのだから。民族は魔族の血を引いて慎ましく暮らし、小麦と森の産物を頼って生計を立てている。
しかし、彼らが辿ってきた歴史の足跡は、他の地区の者には想像もできない。
魔族とは、魔法を使う者である。今ではもはや、誰も魔族など信じていない。人間陣営の子孫たちは。魔法などという現実には到底起こりえない超自然的な力は、命の代が次へ次へと変わるうちに、すっかり忘れられてしまったのだ。
フォーク戦争における魔族とは、ユークランカ地区に住まう者を指す。彼らは普通の人間より少し頭が良く、想像を超える武器を作った。または、背が高く、喋る言語も難解で、普通の人間には理解のできないものだったので、距離を置かれてしまった。
どうも、そんな思い込みがされている。
魔族は魔法を使う部族ではなく、薬草や少し突出した能力を持つだけの、同じ人間だと。
誰も、摩訶不思議なものは信じないのだ。彼らに永遠の命があることも、その印が体に刻まれていることも。
そして、そんな悲しい歴史も誇るべき魔法も、魔族の血を引く本人たちですら忘れかけている事実なのである。
*****
「おはよう」
「おはようございます」
「はらへったー」
ユークランカ地区は一つの種族として、魔族が暮らしていたが、フォーク戦争を経てその中でも考えが別れてきた。人間と交わる道を選んだ者たち、人間を嫌い続ける者たち。基本的に、東に行くに連れて前者の考えを持つ者が多くなっていく。そして人間との血も濃くなっていく。
反対に、西はまだ色濃く魔族の血が残る。
此処は、そんなユークランカ地区の西でも東でも無い。ちょうど真ん中に位置する小さな集落だ。まだ少し魔族の血が多く流れる者が居り、小さな池の畔で皆仲良く暮らしていた。
その集落の名は、トルトヨ。人口は約四十人。子供がその六割を占め、小さな畑で育てた野菜と、池で採れた魚で生計を立てる集落である。貧しい暮らしながら、彼らは平穏な生活を保っていた。
「おい、ちょっと火が強いぞ」
「悪い、薪をくべすぎたな」
「全くお前は下手くそなんだから。俺がやるって言ってるだろ」
「そう言って、お前が一番鍋の底の焦げ目を厚くしたんだからな」
「......その節は悪かった」
その集落は柵で囲まれている。これは森の動物と人間との生活圏の折り合いをつけるためのものである。ユークランカは狼の住まう地でもあるのだ。どの集落でも、狼が越えられないくらいの高さの柵は必須であった。
家は木製で、高床式。ユークランカは寒い地域である。なるべく冬の地面の寒さから建物は守られねばならない。
家々は柵の内側に沿うようにして建ててあり、丸い柵に沿えば自然と集落の中央に丸い空き地が出来る。人々はそこに各々の家で代々守り続ける畑を持つのだ。育てている食物は芋類と豆類がほとんど。そして、薬草が少し。これが医者の代わりなのだ。
そんな畑もまた、円を描くように作られている。そして、中央はやはり空き地ができる。その空き地には、人々が集合していた。大きな石で円を作り、その中に大小様々な木の枝を放り込む。そこに火をつけ、大きな鍋を焚べる。中には畑で採れた野菜と池で捕れた魚がぶつ切りの状態でグツグツと煮込まれていた。
「あら大変、胡桃が無い」
「この前あんなに買ってきていたのに?」
「ええ......ちょっと、誰? 犯人は!」
「あ! ディックとケントが逃げたぞ!!」
「絶対にあの子たちよ!」
「ちょっとタネリ、捕まえてきて!」
鍋の周りでは各々が決められた仕事をこなしていた。男たちは鍋の周辺で火の様子を見たり、薪を割ったりしている。女たちは鍋に入れる食材を持ってきたり切ったり、子供たちの面倒を見たり。
その中に一人の少年が居た。森の緑と空の青色を混ぜ合わせたような髪色をしている。彼は芋の皮剥きをしていた。ナイフを器用に使って、するすると皮を剥いていく。また、毒のある芽を取り除いていた。その隣では彼の妹が、次に兄に手渡す芋を選別している。
「誰か! パトリシオを起こしてきてくれ!」
火を見ていた男が周りに向かって言う。手に持っていた芋をちょうど処理し終えた少年が、パッと顔を上げる。
「僕、行こうか」
「ああ頼んだよ、ラフル」
ラフルと呼ばれた少年は椅子代わりの丸太から立ち上がる。妹がついてくる。
「ヴィヴィも行く」
兄の服の裾を掴んで、彼女は言う。兄は「はいはい」と頷いて歩き出した。広場を突っ切って、畑も突っ切る。向かうは真正面に見える家だ。家に取り付けられた梯子を上り、ラフルはその先の扉を叩いた。
「パトリシオ、朝餉の時間だよ」
家の中から返事は無い。いつもの事だ。彼ほど朝に弱い人間をラフルは知らない。皆で用意をすると決まっている朝餉の用意も、彼だけは例外的にしなくても良いことになっているほどだ。
「パトリシオ」
ラフルが更に大きな声を出すと、家の中から物音がした。
「起きたかな」
妹が兄の膝裏から扉を覗き込む。
「さあ、どうかな。あとどのくらいで出てくると思う?」
「遠吠え三つ分!」
「いや、もっとかかるな」
ラフルは笑い、もう一度声をかける。そうしないと、ベッドからこの扉まで来る間に床に倒れていびきをかきはじめるのだ。
やがて、扉が開いた。今日は早い。
扉の向こうに立っていたのは、寝癖で頭が爆発した中年の男だ。枝のような腕を見ると疑いたくなるが、彼はこれでもトランテュ地区で大工をしていたのである。
「パトリシオ、おはよう。朝餉の用意ができているよ」
「......あうおい」
聞き取れない言葉が返ってきた。彼の朝一番の言葉を聞き取れたらこの集落では一人前である。
「待ってるから、ベッドに戻って寝ちゃダメだよ。床でもね」
「あうおう」
「うん、じゃあ待ってるよ」
ラフルは適当に返事をし、梯子を降り始める。降りる際に妹が嬉しそうに背中に飛びついてきた。この短くも小さく少し危険なアスレチックを楽しむのが、彼女の最近の遊びなのである。
「起きてきそうか?」
広場に戻ると、ラフルに頼んだ男が薪を抱えて問う。
「まあ、鍋が完成するまで待ってあげるとちょうど良いかも」
ラフルが肩を竦めると笑いが起こった。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
奥から女と若い男に腕を掴まれて、二人の幼い男の子が連れてこられる。女はラフルの母、ベルタ。その反対の男はタネリ・クーシネン。その間の二人の兄弟はラフルの弟だ。
「ヤンチャな胡桃泥棒を捕まえてきたよ」
タネリが皆の前で子供の腕を離す。母親にこっぴどく叱られたのだろう、末っ子の方は泣きじゃくっていた。
「お腹が空いていたんだろうさ」
「本当に申し訳ございません」
「良いんだよ、ベルタちゃん。二人とも早く大きくなって、トルトヨから出ていかないとな」
大人たちは笑いながら言う。ベルタは申し訳無さそうにしていたが、タネリに励まされている。
ラフルはぼんやりとその景色を見ていた。
「よし、できたわよ」
鍋に調味料を入れて味を整えた女が言った。
「パトリシオー、早く来い」
ラフルがさっき起こしたパトリシオが、のそのそと家の梯子を降りてくる。梯子の途中で寝るぞ、と誰かが言ったので、また笑いが起こった。次の瞬間、パトリシオは梯子から足を踏み外す。そして、盛大に尻から落ちてしまった。皆驚いて彼を見るが、
「良い目覚ましになったろ」
と誰かが言うと、また笑いが起こった。
*****
広場には全員が集まった。鍋の周りに置いてある、切り出しただけの丸太椅子に座った。少し窮屈なので地べたに座る大人も居る。
ラフルは弟と妹に挟まれた状態で丸太に座っていた。手には顔と同じくらいの大きさの木のボウル。中にはホカホカと湯気を立てるスープが取り分けられている。隣の弟たちも、同じ大きさのボウルを持っている。彼らの場合まだ幼いので、そのボウルは小さな手には合っていない大きさだった。
「お腹空いたなあ」
ラフルの右隣に座っていた妹のヴィヴィは、スープを見つめている。ラフルは顔を上げて周りを見た。スープが全員に取り分けられるまではまだ時間がかかりそうだった。
ヴィヴィの腹からはぐうぐう、絶え間なく空腹の音が聞こえてくる。彼女が頑張って芋を選別して兄に渡しているとき、他の兄弟はパンに練り込むはずの胡桃を盗み食いしていたのだ。当然、左隣の弟たちからは腹の音が聞こえてこない。
「ヴィヴィ」
ラフルは妹を呼んだ。妹の目が兄の顔を見上げる。ラフルは優しく微笑んだ。
「なぞなぞを出すよ」
「なぞなぞ!」
妹の目が輝く。退屈な時間を潰すためのものだ。
「朝は眠って布団から出てこないけど、夜になると元気に顔を出すものはなーんだ」
「朝は眠ってて......」
眉根を寄せてヴィヴィは考え込む。彼女が考えている間、ラフルは周りを見回してみた。大人たちは自分たち子供より一回り小さなボウルにスープを装っている。不満を言うものは居ない。これが普通なのだ。
トルトヨは貧しい集落。子供たちには早く巣立ってもらうため、食べ物はほとんどが子供に分け与えられる。大人は常に無理を強いられているのだ。
自分も__。
ラフルはぼんやりと「彼」を探す。他の子供に挟まれて丸太に座り、楽しそうにお喋りをする彼が居る。彼のボウルはもちろん小さい。
「分かった!」
ラフルはハッとした。ヴィヴィが嬉しそうに顔を覗き込んでくる。
「お月様でしょ?」
「正解」
頷くと、彼女は嬉しそうに足をパタパタさせる。ラフルはそんな彼女の手の中のボウルに、自分のボウルから、最も大きい魚の欠片を取り出して分けてあげた。
「はい、ご褒美」
「良いの?」
「うん、芋の皮剥き手伝ってくれたじゃないか」
ラフルが言うと、妹は大きく頷く。そして、太陽のような笑みを浮かべるのだった。
「ありがとう。ラフルお兄ちゃん」
やがて、スープが全員の手に行き渡った。皆は膝の上や、地面にボウルを置いた。そして、胸の前で手を組んで目を閉じた。
「本日も、ロザンネ様の御加護がありますよう」
男の一人がそう言い、朝餉の時間が始まった。ラフルはスプーンで掬った魚の身を口に運ぶ。時間をかけてそれを食んだ。大人たちの腹から音がするのを、彼は複雑な思いで聞いていた。




