第一話
生まれ変わりたくなどなかった。
それがエラ・ユリハルシラが七歳の頃の偽りなき思いだった。
エラは自分というものを認識し始めたときに、沢山の知らぬはずの記憶を自分が抱えていることに気付いた。それはその記憶によれば「前世の記憶」と呼べるものであり、前世では日本という国に生まれ、自由に生き、年齢による衰えから衰弱し、その人生の幕を降ろしたことをエラは覚えている。
家族や友達のことは覚えてはいるが、自分の名前や何歳まで生きていたなどの自分に関する記憶は非常に曖昧だ。
でもその人生が幸せだったことは間違いない。思い出した優しい記憶たちがそう教えてくれたから。
そしてエラは家族や使用人たちを観察し、さらには自分が暮らすこの国がどういう国でどのくらいの文明レベルにあるのかを暮らしの中で調べた。
日本人の記憶を持つエラからしたら明らかに外国人である明るい色彩を持つ肌や髪、目の色。
自分もまたそれに漏れず、両親と同じような色彩を持っており、この国がおそらく近世ヨーロッパに似た文化・文明を持っている国なのだろうと分かった。
エラが存在しているのは自分の持つ記憶とは遠くかけ離れた世界。
この時点でエラは泣きそうになったが、前世の世界とこの世界が違う世界なのだと決定付けたのは、魔術というものが存在していることだった。
魔術などというものは、前世の世界ではファンタジーの世界にのみ存在しているものであり、現実でそんな摩訶不思議な力を使うことなどできはしなかった。
だがこの世界では確かに存在する。それをエラは身をもって体験した。
エラが六歳の頃、夏の暑い日に熱い紅茶を出されて冷たいものが飲みたいなと、氷の沢山入ったアイスティーを想像したら目の前の紅茶に突然氷が出現した。
何が起きたのかと驚いていると使用人が慌てて何処かへ行き、その後現れたエラの母が「魔術が使えるのね!この子は魔術の才があるわ」と喜んで魔術について簡単に教えてくれた。
だけどエラは呆然としたままで、エラの母は「まだこの子には難しかったかしら」と苦笑していたが、エラはそれどころではなかったのだ。
魔術を自分が使った。
その事実はエラに自分が前世のファンタジーの世界の住人になってしまい、前世の自分とは違う人間なのだと容赦なく現実を突きつけた。衝撃と悲しみに暮れ、ただただ呆然とするしかなかったのだ。
エラはその後一年間周りの観察を続けたが、やはり前世とは違う世界なのだという確信が深まるばかりでその事実に静かに絶望し、生まれ変わりたくなどなかったと、強く思った。
あの曖昧でありながらも幸福に溢れた記憶にある世界とは程遠い世界。
エラが前世で読んだ小説にファンタジーの世界に転生するという題材のものがあり、前世でそれを読んだ時は自分も転生したいと、そんな風に思ったような気がする。
だけど実際転生してみると、何故生まれ変わってしまったのかという思いが強かった。
日本は何を食べても大体食事は美味しかったけれど、この世界は何を食べても前世ほど美味しくない。
日本は着る物も楽だったけれど、この世界は一人では着ることのできないような面倒な服が多い。
日本は身分などほぼないに等しい国だったので気楽に暮らせたけれど、この世界は身分を重んじるので息苦しい。
こんな風に、何をしても前世と比べてしまう。
文化も文明レベルも違うこの地は、エラにとって圧倒的に生きづらかった。
せめて生まれ変わるのであれば、前世の記憶など保持して生まれたくなどなかった。そうすればこの世界の常識を当たり前に受け入れて、こんなにも生きづらくなどならなかったのに。
それが七歳になったエラの正直な気持ちだった。
エラは歳を重ねるごとにその顔に影を差し、会話も減り表情も失っていった。貴族にしては子供に対して愛情のある両親が、エラのことを心の底から心配してくれているのを知っている。
それでもやはり前世の記憶に引っ張られて心がそちらに向かってしまい、このエラとしての新たな生はエラにとって受け入れ難い。前向きにこの新たな生を生きようなどとは、到底思うことなどできなかった。
◇◇◇
現実が受け入れ難く、苦しみながらも両親のためにとただただ人形のように生きていたエラ。
そんなエラは九歳の時にある運命的な一つの出会いを果たすこととなる。
「はじめまして。ルシオ・サルメラと申します」
ルシオと名乗った少年はエラの記憶の中では当たり前のように存在していた黒い髪に黒い目を持ち、大人びた表情で紳士的に挨拶をした。
エラは挨拶も忘れて懐かしいその色彩に見惚れる。
(あぁ、ずっと見たかった色だわ…)
この国にもそういう色彩を持つ人間が少なからず存在することは知っていた。でも改めてその郷愁の色を目にすると、自然と込み上げてくるものがある。
気付けばエラはルシオの髪に手を伸ばし、震える手でその髪にそっと触れた。
子供特有の柔らかい髪はエラの指に優しく絡まり、エラの白い肌と対照的な黒い髪はその色をより主張している。
「なんて綺麗な濡羽色…」
あまりに愛しい、それでいて懐かしいその色に、無意識に笑みを浮かべたエラの目の端から何かが零れ落ちた。
それは昔年の友との邂逅にも似た喜び。前世の記憶を持つエラは此処にはいない家族を、友を思いエラ自身も気付かぬうちに泣いていた。
しかしその涙はすぐに乾く。黒曜石のように美しい目を見開き、唖然としている少年が目の前にいることを思い出したから。
「エラ!」
父の焦ったような声で我に帰り、慌てて手を離して挨拶をした。
「はじめまして。エラ・ユリハルシラです。いきなりのご無礼をお許しください」
「はは、気にしないで下さい。そんなに息子のこの色を気に入っていただけましたかな?」
「…はい。その、あまりに綺麗な色で気付けば手を伸ばしてしまっておりました。本当に申し訳ございません」
気にしないでと言われても初対面の相手の髪をいきなり触り、急に泣き出すなど失礼にも程がある。
激怒してもいいことをしたのに心の広い人だなと、エラは深くお辞儀をしながら思った。
「やはりクラウスの所に連れてきて正解だったな。あの話は進めても?」
「私は構いませんが…本当に宜しいのですか?侯爵のところにはもっといい縁談が沢山来るでしょうに」
「そうでもない。ここ数十年でそこそこ受け入れられるようにはなってきたが、やはり黒は忌まれることの方が多い。泣いて嫌がられることもあったよ」
「そうなのですね…私には茶髪や金髪となんら変わらないように思いますがね」
「流石クラウスだ!」
なにやら父とルシオの父は二人で話を進めているが、もしやこれは婚約するかどうかを決める顔合わせだったのだろうかと、エラはまだ衝撃冷めやらぬ頭で考える。
そしていつの間にやら子供同士で仲良くしなさいと、ルシオ少年と二人で中庭に追い出されるような形で置かれ、エラの父たちは話し合いの為に部屋に篭ってしまった。
ちなみに母はどうしても外せないお茶会に出ており、本日不在である。
離れた所に侍女がいるが、空気に徹しているので実質エラとルシオの二人きりのようなものだ。気まずい。
出会いを初手でミスした感じを拭えないエラはどうしたらいいのか分からなかったが、とりあえずこのままではまずいと庭を案内することにした。
エラの母が薔薇を好きなので中庭には様々な色の薔薇が咲き誇っており、一通り案内し終えると最後に小さなガゼボへと誘ってお茶をすることにした。
このガゼボは花を愛でることが好きなエラの母のために、父が母と結婚したときに作ったものらしい。
父と母がたまにこのガゼボでお茶を楽しんでいるのを何度か見かけている。
だから外にあるといえど綺麗に手入れがされたテーブルと椅子なので誘っても問題ないはずだ。
椅子に座ると侍女たちがサッと現れて紅茶を淹れてくれる。いつ見ても凄い手際である。
しかし呑気に感心している場合ではない。だってエラの目の前にはルシオ少年がいるのだから。
何を話すか迷った末に、エラは先程のことを謝罪することにした。
「あの…先程は申し訳ありませんでした」
「え?ああ、大丈夫ですよ。僕は気にしてませんから、エラ嬢も気にしないで下さい」
「はい」
言葉を交わしたのはそれきりで、また沈黙が落ちた。
こういうとき、どうすればいいのだろうか。いくら前世の記憶があるとはいえ、自分はまだ九年しか生きていない。ずっと無気力に生きてきた為に、会話もあまりしてこなかった。当然気の利いたことなど言えやしないし、焦りばかりが込み上げてくる。
そこに救いの手を差し伸べてくれたのは、先程まで沈黙を保っていたルシオであった。
「…エラ嬢はその、本当に僕と婚約することになっても、構わないのですか?」
震える声で、恐る恐る問いかけてきたルシオの瞳には、昏い闇が渦巻いている。
そういえばこの世界では黒髪は忌まれていたな、とエラは思い出した。宗教上の問題だった気がするが、この世界に対してあまり興味がなくて全然覚えていない。
今エラに分かるのは、ルシオ少年の過去に辛い何かがあったのだろうということだけ。怯えたような仄暗い瞳がそれを雄弁に語っている。
無気力に生きてきたためにこの世界での容姿による差別の詳しい事情はわからないが、きっとこの少年は不愉快な思いを沢山してきたのだろう。そして沢山傷付き、また傷付けられることを恐れているのだ。
そう思いはしたが、エラにとってはそれはどうでもいいことでしかなかった。
エラにはもう、何もかもがどうでもよかったのだ。先程はあまりに懐かしいその色に触れて感情が昂ったが、所詮ここは日本ではない。懐かしくとも、その色はエラにとっては紛い物でしかなかったのだ。
だからこそ、エラは言い切った。
「構いません。父が決めたお相手ならば、私はそれを受け入れるまでです」
エラの答えにルシオは一瞬傷付いたような顔をして、昏い黒の瞳が一層澱んだ。
「そう、ですか…」
泣き出しそうな声音で溢すルシオにエラが抱いたのは、ちくりと刺すような胸の痛み。
自分の心に細波が立ち、エラは顔に出さずに動揺する。懐かしい色を持つ少年と一緒にいると、どうしようもなく感情が昂り、揺れる。
何も感じない無気力な日々が失われてしまいそうな予感。エラにはそれが怖かった。変化を持ってしまったら、本格的にこの世界の住人になってしまいそうな気がして。
遠ざけたい。近寄りたくない。…なのに。
「でも、濡羽色のそばにいるのは、悪くない」
そんな風に思いながらもぽつりと言葉を溢してしまったのは、ルシオへの同情故なのか。それとも郷愁の色を傍に置いておきたかったからなのか。心を遠くに置いてきてしまっていたエラには分からなかった。
エラは目を逸らしていた為に気づかなかったが、黒い双眸は大きく見開かれ、昏い陰は消えて光を灯す。その黒い瞳に映るのは月の光のような金の髪を持ち、エメラルドを嵌め込んだような目をした儚げな妖精のように美しい少女。
心配そうに少し離れた場所から様子を伺っていたメイドがその時見たのは、一人の少年が恋に堕ちた瞬間だった。
◇◇◇
エラとルシオはその後婚約を結び、同じ時間を共有することが増えた。
ルシオは婚約してからというもの、欠かさず週に三回エラの元を訪れる。一般的な婚約者との逢瀬にしてはだいぶ多いのだが、未だ無気力に生きているエラはそのことに気付かない。
会うのが多くとも、少なくともどちらでもいい。愛されていなくても、愛されていてもどうでもいい。エラにとっては何もかもがどうでもよかったのだ。
どうでもよかった、はずだったのだ。
なのにエラはルシオと過ごすうちに、自分に戸惑いを隠せなくなっていた。そして表面上はルシオに普通に接していても、心の中には荒波が押し寄せていた。
その黒い髪が揺れ、黒い明眸が自分を見つめると、どうしようもなく感情が昂る。
どうしたって前世を思い出してしまう。
日本に戻りたい、この記憶を消してしまいたい、でも消してしまいたくない。そんな思いが渦巻いて、平静ではいられなかった。
そんなエラの様子に気付いているのかいないのか、ルシオはエラとの距離を詰めてくる。どこか縋るように、そして決して逃しはしないとでも言いたげに。
「ねぇエラ、髪を撫でて」
ルシオはそう言って、目を細めてエラを見る。眩しいものを見るみたいに。
仕方なく髪を撫でれば、整った顔をくしゃりとさせて幸せそうに微笑んだ。それだけに飽き足らず、エラを座らせてエラの膝に自身の頭を乗せ、もっと撫でてとせがんだ。
子供のようだと思ったが、実際子供だ。エラは自分自身も子供であることなど忘れて子供をあやすように、黒く柔らかい髪を撫でる。
そのときにいつもは無表情なエラの口の端が少しだけ上がっていることに、本人は気付かない。
愛おしいものを見るような目で、ルシオを見ていることにも。