57 : 舞踏会に舞う夜の葉 - 05 -
その女生徒は、慌ただしく走って来た。
舞踏会が開かれる、およそ一週間前――植物温室のガラス扉を、音が鳴るほど激しく開く女生徒がいた。
夕日が山の端にさしかかる頃、植物温室の管理も任されている魔法薬学のハインツ先生は、非常に驚いた後、渋い顔をした。
「……お前さん、ここを壊す気か?」
「ハインツ先生! 私とてもうっかりしていて、レポートを提出し忘れてしまいましたの!」
「……おう、どうも」
勢いよく差し出してきたレポートを、ハインツ先生は受け取る。ざっと見ると、汚い字だが、提出に足る出来にはなっているようだ。だがそもそも、このレポートの提出期限にはまだ四日あるため、こんな夜中に植物温室に走ってくる必要は無い。
「こんな夜遅くに来るんじゃない。送るから、さっさと帰りなさい」
「生徒が陰鬱な顔をしているんですのよ。教師として何か尋ねるべきじゃありませんの?」
女生徒はさめざめと泣く真似をした。長身な女生徒はハインツ先生とさほど目線が変わらない。
ハインツ先生は大きなため息を吐いた。
「ドウシタンデスカ」
「それが、聞いてくださいません? 私、ダンスレッスンを死ぬ気で受講して、晴れてタンザインさんと舞踏会で踊る権利を勝ち取ったというのに――誰もパートナーになってくれませんのっ……!!」
女生徒は拳を握りしめて言った。そのまま何処かを殴ってしまえば、簡単に穴が空きそうなほど力強い拳だ。
この少女が、このひと月ほど講堂でダンスレッスンをしていたことはハインツ先生も知っている。彼自身、何度か同僚のウィルントン女史に頼まれ、現場監督として赴いたことがある。
頑張りが実を結び、見事あの次期紫竜公爵、ヴィンセント・タンザインと一曲目のダンスを踊る栄光を勝ち取ったというのに、少女は舞踏会会場にすら入れない危機に瀕している。
握りしめた拳で植物温室を壊されては堪らないという風に、ハインツ先生は渋々言った。
「黙ってりゃ、どんな男子の目でも釘付けに出来るぐらい美人なのになぁ」
「私の真の魅力を、正しく評価できる男子が少なくって困っていますわ」
少々おつむと言動が残念な生徒ではあるが、その見た目はすらりとした長身と整った顔立ち、そして肉付きのいい胸という、ラーゲン魔法学校の女子という女子が憧れるプロポーションをしていた。
ヴィンセント・タンザインと踊れば、さぞや素晴らしい一対のペアが生まれることだろう。
しかも、お喋りの無いダンス中、彼女は中の下から、上の上に所属する女子に変貌する。
そしてそれが、思春期の男子にとっては大きなプレッシャーとなる。
男子生徒諸君らの気持ちが、ハインツ先生は痛いほどわかった。
誰も、自分と変わらない身長の、とびっきり美人な女生徒の横で惨めなエスコートをしたくないのだろう――それも、ヴィンセント・タンザインと踊った後に。
圧倒的に、力量の差が出る。
ワルツは、男性のリード力が問われるダンスだからだ。
どれほど下手な女性でも、男性のリードが上手ければ、ある程度形にはなる。だが、男性のリードがいまいちな上、女生徒も踊りの名手でないのなら――結果は想像するに容易い。
「ダンスの上手い男子を誘えばどうだ?」
「ダンスに自信があるような男子生徒は、そもそもとうの昔に売り切れておりますの」
バーゲンセール品のようだなとハインツ先生は思ったが、言わないだけの自制心はあった。
「あー本当に、残念だったな。まあ、また機会が……」
ある、と言おうとして、ハインツ先生は言葉に詰まる。
(いや、確実に無いだろう)
この少女は庶民だ。ヴィンセント・タンザインと舞踏会で踊る機会がこの先の未来で訪れることは、多分かなりほぼ、一生無い。
「まあ。また機会が? あるとでも?」
「あー。いや……」
言葉を濁したハインツ先生は唐突に悟った。
どうして彼女が今日こんな時間に、ここ走ってやって来たのかを。
「ハインツせんせ?」
「なんだ?」
「お願いがありますの」
嫌な予感がしたハインツ先生は、後じさりながら首を横に振る。
「――嫌だ」
「お願い致しますわ。教師を誘ってはいけない決まり、無かったですわよね?」
「無理だ。そんな小っ恥ずかしい真似出来るか。何年前に卒業したと思ってんだ」
「お願い致しますっ! そうじゃないと私、一年生を剣で脅して、会場に連行しないといけなくなっちゃいますわ!」
騎士の娘である彼女は、杖の腕よりも剣の腕の方が勝っている。ハインツ先生は頭を抱えた。
あと一歩と思ったのか、女生徒は拳を握りしめる。
「今年で卒業する可愛い生徒に、一生に一度の思い出を作ってやろうって甲斐性もありませんの?」
脅すような言い方だ。
だが彼女がどれほど覚悟を決めてこの温室に訪れたのか、ハインツ先生はきっと知っていた。
甲斐性なんか、無いと言い切りたかった。
ハインツ先生は、ラーゲン魔法学校の教師である。
与えられる優しさには、上限がある。
だが、毎年生徒を送り出す身となったハインツ先生は、生徒に思い出を作らせてやりたいという、年長者らしい思いを、持ち合わせるようになってもいた。
そういう建前に乗った振りをして、声の震えと、握りしめた拳が白くなっていることに気付かないふりをして、自分の心など何も見ていない振りをして、ハインツ先生は髪をガシガシと強くかきむしった。
「しゃあねえなぁ……」
ハインツ先生に舞踏会当日のパートナーを承諾させた女生徒は、ハインツ先生が撤回の言葉を口にする前に、自慢の俊足で舞踏会のパートナー受付に、名前を書きに行った。
***
ラーゲン魔法学校がこの日のために呼び寄せた、オーケストラが奏でていた音楽が止まる。
そろそろ、一曲目のダンスが始まるようだ。軽食を食べ終えたオリアナとヴィンセントは、ダンスの気配を察し、おしゃべりを止めて楽団を見た。
「どの子か覚えてる? エスコートが必要?」
オリアナが尋ねた子について、すぐに見当が付いたのだろう。ヴィンセントは微笑を浮かべる。
「自分の踊る子くらい、きちんと覚えてるから安心してくれ」
「よかった。引き渡す時、鬼みたいな顔になっちゃうかもって心配だったから」
オリアナが冗談を言うと、ヴィンセントが足を進めた。
彼は、懸命な努力の末、ヴィンセントとダンスを踊る権利を勝ち取った女生徒がどこにいるのか、この人がごった返す会場の中できちんと把握していたのだろう。
ヴィンセントがきちんと女生徒を発見できたのを見届けると、オリアナはほっとした。ここまでは、言い出しっぺのオリアナの責任だと思っていたからだ。
女生徒は壁際で、第二クラスの女生徒と会話を楽しんでいた。前の人生で、オリアナに元気をくれていた友人達だ。正装した彼女らが懐かしくて眩しくて、思わず目を細める。
ヴィンセントと踊る女生徒の周りに、ペアの男子生徒はいない。
どこにいるのだろうと、きょろりと辺りを見てみたが、それらしい生徒はいなかった。一曲目を誘うヴィンセントに気を利かせ、離れた場所にいるのかもしれない。
「じゃあ、私も行くね。―― 一曲目、誰と踊ろうかな」
踵を返そうとしたオリアナの腕を、ぎょっとしたのはヴィンセントが掴む。
「踊るのか?」
「え? 踊るよ? 私ちゃんとした舞踏会初めてだから、楽しみにしてたの」
「――あっちに、君の好きなパスタがあった」
声を低めて言うヴィンセントに、オリアナはパチパチと瞬きをした。
「この格好で食べるの、さっきは反対してたじゃない」
「非常事態だろう」
「非常事態なの??」
オリアナはぷっと吹き出した。
何をどうしても、非常事態とは思えない。
「ともかく――」
ヴィンセントが何か言おうとした時、会場の入り口から悲鳴が聞こえる。大きな動揺を含んだ、それでいて黄色い悲鳴だ。








