185 : 番外編 / だから、好きでは無い - 03 -
コンスタンツェは愕然とした。
舞踏会会場の煌めく灯りの下で目にした光景を、どうか誰かに嘘だと言ってほしかった。
***
「――大馬鹿野郎はこちらですの?!」
バンッッと、ドアの蝶使いが外れるほど強く、植物温室のドアを開ける。
中でタイを緩めていたハインツは、大きく目を見開いて、こちらを見た。
「おまっ……大きな声はよしましょうね?」
「言うに事欠いてそれですの!」
およそ四年ぶりに、こんな風に個人的な態度でコンスタンツェが話しかけたというのに、声のボリュームなんかを注意してくるハインツに、コンスタンツェはまた叫んだ。
温室のドアを、バタンと閉める。温室が小刻みに震えた。
マーメイドドレスに入った長いスリットの隙間から、いつもは自重している自慢の脚を、これでもかと見せつける。
すらりとした足を動かし、コンスタンツェは大股で歩く。ハインツの視線を感じた。はしたないとでも怒るつもりだろう。より怒りを載せた足音が、カツカツとヒールの音となって温室に響く。
ハインツはコンスタンツェの迫力に気圧されたように、指でタイを掴んだまま、動かないでいる。
腰まである長い髪を結い上げ、紅を引き、真っ黒なドレスに身を包んだコンスタンツェは美しかった。華やかな顔と、すらりと長い足と、大きく形のいい胸は、舞踏会中の男子の視線を一度は集めた。
けれど今日、コンスタンツェよりも注目を集めた人物がいた。
「どうして、そんな格好で――舞踏会に来たんですの!」
コンスタンツェがハインツの襟を掴んだ。そのまま、ぐいっとタイを引っ張る。引き剥がしたタイを投げ捨てて、整髪剤でかっちりと整えられた髪に手を突っ込み、ぐしゃぐしゃぐしゃっと思いっきり掻き回す。
そんなことをされていても、ハインツは何一つ文句を言うこと無く、コンスタンツェを見ている。
整髪剤がところどころ固まっているせいで、いつもよりもぼさぼさになった髪を気にもせず、ハインツが言う。
「どうした。お姫様はご機嫌斜めか?」
「どうしてって聞いたのは私ですわ!」
まるで、コニーに戻ったかのようだ。泣き出しそうに顔が歪む。
ハインツは今日、舞踏会に来ていた。パートナーを伴う招待客としてでは無く、スタッフ側としてだ。
これまでも春の中月になる度に、教師の中でも年若いハインツが学校中を走り回っている姿を目にしていた。
けれど一度だって、ハインツが髭を剃り、髪をまとめ、きちんとした身なりで舞踏会当日に会場内を手伝っていたなんて話は、聞いたことが無かった。
今日のハインツは、信じられないほどに格好良かった。
いつもはぼさぼさで、どこで結んでいるのかもわからないような髪を、今日は後ろで一つに結び、後れ毛はきっちりと整えていた。清潔で品のいいシャツとベストを着こなし、眉も髭も整えられ、凜々しい表情を浮かべたハインツに、舞踏会の会場にいた全ての女子が見惚れていた。
「来なければよかったのに!」
コンスタンツェは羽織っていたショールを投げつけた。顔に当てられたハインツは、苦笑して床に落ちた女物の薄衣のショールを拾う。
「喜ぶと思ったんだがな」
ムカッときた。そんなどころでは無い。カチンッときた。それだけでは済まない。イラッともした。
「難しくなりやがって。昔は熊のぬいぐるみで喜んでくれてたってのに」
「昔も、喜んでいたのは熊のぬいぐるみじゃないことぐらい、わかっていて、そういうこと言ってるんでしょう!」
いつだってコンスタンツェは、熊のぬいぐるみの向こうにいるハインツに喜んでいたのだ。
こんなに綺麗に着飾った日に、どんな男子の視線だって奪った日に――熊のぬいぐるみを持ち出してくるハインツが、憎くて仕方が無かった。
「こんな格好、喜ぶわけないじゃないの! どれだけの子に見られたと思って? 私以外の、どれだけの子を喜ばせたというの! 私しか知らなかったのにっ……! 私が、私がっ……どれほどの我慢を――!」
「お前を見たかったんだよ」
ハインツが手を伸ばした。
叫びながら、ぽろぽろと大粒の涙を零していたコンスタンツェの手を掴む。以前拒否したことを覚えているのか、ちょっとやそっとの拒絶では、振りほどけないほどしっかりと握られている。
ハインツはコンスタンツェの手を引き、温室の隅に移動する。そこは植物が生い茂っていて、外を通りかかったぐらいでは、人がいることはわからない。
「もう跳ね退けんなよ」
ハインツがコンスタンツェを抱きしめる。コンスタンツェが驚いて目を見開くと、その拍子にまた涙がこぼれ落ちた。
「今年卒業だろ。最後ぐらい、お前の晴れ姿を見に行って何が悪い」
涙が止まらなかった。ハインツの糊の利いたシャツをぎゅっと掴む。
「何故なの……どうして、髭まで剃って」
「――お前、自分が何歳か知ってるか?」
予想だにしない言葉に、コンスタンツェは息を呑んだ。驚きすぎて、涙が引っ込んでいる。
「……馬鹿じゃないの?」
あまりにも都合がいい風にとってしまった自分に対して、コンスタンツェは呟いた。
「馬鹿なんです。男はいくつになっても、馬鹿なんです」
コンスタンツェは両手を握りしめて、ハインツの両胸を押した。
(そんなはずが無い。ハインツは先生で、ヘインは十六も年上で――)
だから、自分と少しでも釣り合うために髭を剃って現れたと言っているだなんて。そんな馬鹿な真似をする理由が、自分の抱えている気持ちと同じだなんて――そんなわけが無いのだ。
押す胸はぴくりとも動かない。あまりにも力の弱い抵抗は、ハインツが抱きしめる腕の力にかき消される。
「綺麗だ。想像してた何倍も」
コンスタンツェの肌から染み込むように、低い声がじんわりと心に響く。
どんな男子にも魅力的な女子に見られた夜に、ただの子ども扱いをされていたわけじゃなかった。
ハインツがコンスタンツェの髪からリボンを引き抜いた。大人っぽいドレスに似合わない黒色のベルベッドリボンは、コンスタンツェが十歳の時に、ハインツが買ってきたものだった。
綺麗に結い上げていた髪がコンスタンツェの背に広がる。
「想像、していたの……?」
「そりゃするだろ」
ハインツが笑う度に、目の前にある喉仏が震える。
リボンに口付けながら、当たり前のように肯定された。
(子どもにしか、見られていないと思ってた)
髪にくくったリボンを解きながら、ドレス姿を想像したと白状する男に期待するものを、ハインツはきっとわかってやっている。
コンスタンツェの手を取ったハインツが、コンスタンツェの手のひらを自分の頬に押しつける。
久々に触れるハインツの肌はかさついていた。夕方にも剃ったのか、皮膚の下に髭は感じるものの、指に引っかかる程では無い。懐かしい感触だ。
夢中になって撫でるコンスタンツェの剣ダコだらけの手を、ハインツが掴む。そして、大きな手のひらでコンスタンツェの手の甲を包んだ。
そのまま、コンスタンツェの手のひらを自分の唇に寄せる。
抵抗なんて、一つもしなかった。コンスタンツェの手のひらに口付けたハインツが、コンスタンツェを捕らえるようにじっと見つめる。
「―― 一年の時。友達と素敵な恋人を一人で作るんだって啖呵切ってたな。上手くいったか?」
「上手くやれていたわ」
「恋人は?」
出来ているわけが無い。
万が一素敵な男子に告白されたとしても、本当に頷けたかもわからなかった。
その理由は、コンスタンツェよりもよほど、ハインツが知っている気がした。
幼い頃、彼の恋人を何度も見たことがある。如才ない交際をしていた彼が、恋愛に疎いはずが無い。コンスタンツェが突然異性に興味を持ったと言い張り、彼を振り切るように逃げた理由にも、すべからく気付いただろう。
だからこそ長期休暇中も、無理にベルツ家を訪ねてくることは無かった。
『めっちゃいい人。頑張って私の事好きになってくれて、好きにさせてくれるんだって』
エッダが語るデリクの話を聞いたとき、羨ましくて、涙が出るかと思った。
涙を隠すために、いつも以上に大げさに振る舞って見せた。
ハインツはコンスタンツェのこの気持ちを否定しないかわりに、受け入れてもくれない。
好きになってもいいという、許可さえ与えられることは無い。
彼に、幸せにしては貰えない。
そんなコンスタンツェにとって、エッダが何気なく差し出された言葉は、何よりも一番、欲しいものだった。
ハインツの対応は大人として当然で、それが彼自身の答えでもあると――ずっと思っていた。
なのに。
「――恋人は、卒業するまでいらないの」
「わかった」
何をわかったと言うのか。
(本当に、わかったとでも――私が望むものをくれるとでも、言うの?)
奥歯を噛みしめるコンスタンツェを、ハインツがぎゅっと抱きしめる。その腕の力強さに、反発心がいとも簡単に萎んでいく。コンスタンツェはぶるぶると体を震わせた。
「望む通り、頑張ったでしょう? 友達と笑って、楽しい青春を過ごして……私はちゃんと、貴方の理想通りの学校生活を送った」
コンスタンツェがこだわっていたのは、彼に迷惑をかけるからだけで無かった。ハインツはきっと、コンスタンツェに年相応の経験を求めた。友達を作り、勉強に励み、時に悪さをして――そういう年相応の体験をきっと、年長者として、教職者として、あの時の上級生にも求めていた。
「そうだな。お前はちゃんとしてた。馬鹿だったのは俺だよ。笑ってるお前を見る度に、十六回ぐらい留年しときゃよかったと本気で思った」
「……ラーゲンは、留年は三度までよ」
「だから馬鹿だっつってんだろ」
コンスタンツェがずっと、こっそりと見つめ続けていたハインツの顔が、こんなに近くにある。
こつんと額と額をぶつけると、ハインツは低い声で言った。
「なあ。真面目に答えろよ」
嫌に神妙な声に、コンスタンツェは見つめ合ったまま、瞬きで返事をした。
「お前がフェルベイラに告白したって聞いた。準備室に、男のナニを一年ぐらい使い物にならなくする薬がある。俺はそれを、フェルベイラに飲ませる必要があるか?」
コンスタンツェは声をあげて笑った。額をくっつけたままだったので、ハインツの体も揺れるほどに笑った。
そして笑いすぎて流れた涙を拭いながら、これまでずっと我慢していた満面の笑みをハインツに向けて、言う。
「無いわ。けど、私が卒業するまでよそ見しないよう、ヘインが飲むっていうのはどう?」
ハインツはげんなりとした顔をして、コンスタンツェを抱きしめた。