8.7 そいつは穏やかじゃねーな
色街を訪れたシドが、店で目的を果たして出てくるまでの時間は三十分足らず。帰路についた彼は、行きと帰りで一変した街の雰囲気に思わず目を白黒させた。
神隠しにでもあったのか、いつもなら鬱陶しいくらいによってくる商売女や客引き達はまるで見当たらない。そのかわりにウロウロしてるのはマフィア然とした連中ばかりで、空気が異様なまでギスギスしている。
特に人だかりが多そうな場所が、おそらく現場だろう。わずかに漂う腥さから連想されるのは流血沙汰だ。
「おう、ムナカタ」
触らぬ神に何とやら、とばかりに足早に立ち去ろうとしたシドだったが、彼に気づいたマフィアの一人が声をかけてきたものだから、緊張混じりに片手を上げて応じる。弟子に「非合法な組織との付き合いはしない」といっておきながらこれかよ、という向きもあろうが、切りたくても切れない個人的な付き合いというものも一定数あるのだ。そのあたりは、少女がもっと清濁を併せ飲める年令になったら話していこうと思っているシドだが、やろうとしていることは結局、緩やかな先延ばしである。
さて、結婚式でしか見ないような傾いた出で立ちで、シドに声をかけてきたこの男。浮かべる笑みだけは人畜無害そうだが、その実、泣く子も黙る某マフィアの幹部である。夏も冬もなく彼が身にまとうのは、いつだって白いスーツに白いシャツ。荒事となれば部下を率いてまっさきに飛び込んでゆき、荒れ狂う暴風のような働きで敵を圧倒してなお、そのスーツは返り血はおろか、汚れ一つつかないという。
贔屓目に見ても嘘のような伝説を持つ彼は、誰が呼んだか知らないが、その装いと相まって「白」と称されている。
「どうした、元気ねぇな?」
そんな彼に対して、元気ねぇのはあんたに捕まったせいだ、とはシドもさすがに言えない。できることはせいぜい、あんたにゃかなわないよ、とばかりに肩をすくめるくらいである。
「ここのところ、少し寝不足でね。それよりビアンコ、なにか事件でも?」
「ああ、まあ、大したことじゃねぇよ」
人の輪から少し離れたところにシドを手招きしたビアンコは、よほど言いにくいことらしく、そこからさらに声のトーンを落とす。
「ウチの新入りが、素人さんに絡んでな。無視されたのが癪に障ったってつまらねぇ理由でブチ切れやがって、拳銃ブッ放しやがった」
「そいつは穏やかじゃねーな。怪我人は?」
「ブチ切れた当人と、そいつを止めようとした若いヤツだ」
ビアンコの所属する組織は昔気質で、一般人への手出しをご法度としており、普通に暮らしている市民とは基本的に交わることがない。
「素人さんに銃向けたもんだから、周りの連中が止めに入ったんだと。そしたらあの野郎、さらにアタマに血ぃ上らせやがって、よりによって仲間の肩にトンネルこさえやがった。残ったのがそいつを取り押さえて、ボスのところに連れて行ってる」
組織のルールを破った構成員がどういう末路をたどるかはシドも薄々感づいているし、人のお家騒動に無理やりくちばしを突っ込む必要もない。例の「ブチ切れた野郎」の話は一旦棚上げにする。
「その素人さんとやらも災難だったな」
「本当だぜ。ここがどんなとこか、よくわかんねぇままに足を踏み入れちまったのが、あのお嬢さんの不運だな」
「よりによって女か?」
「ああ。それも年端の行かねえ、な。ご丁寧に男みてぇな格好してたらしいが、銀髪に整ったお顔、おまけに黒い猫を連れて歩いてたってなれば、よくも悪くも目立つってもんだろ。……どうしたムナカタ、少し顔色が悪いぜ?」
「ああ、少し血の匂いがしたものだから」
シドは思わず目線をそらす。銀髪の小娘ならまだごまかしは効くだろうが、黒猫を連れていたとなれば心当たりがありすぎると言うものだ。
相変わらず神経が細いなぁ、と豪快に笑いながら、ビアンコはシドの肩をバシバシ叩く。痛いことは痛いが、動揺をとっさの言い訳でごまかせたのは上々。このまま強引に話題をすり替えることにする。
「ビアンコ、ちょっと小耳に挟んだ噂があるんだけど」
「あん? なんだよ藪から棒に」
「……妙な薬の話を聞いてね」
ビアンコが露骨に嫌な顔をする。
彼の所属する組織は鉄の掟で知られており、背いた者に苛烈な制裁を課すことで知られている。中でも強く禁じられているのが違法薬物の取扱と使用だ。
そんな組織の幹部を務める彼に薬の話を聞いてどうする、というのはシド自身も重々承知している。だが、イスパニアの裏社会に通じた知己がビアンコくらいしかいないので仕方ない。
「お前、ウチの組織の掟のこと知ってんだろ?」
「それはそうだけど、俺の知り合いで心当たりがありそうなのがあんたくらいしかいないんでね」
しょうがねえな、とため息をつくビアンコの顔は、気の弱い人間なら泣き出しかねないのではないかと思うほどに険しい。
「しょうがねぇ、言ってみな」
「魔法を使えるようになる薬なんだが、聞いたことないか?」
「何だ、そのふわっとした説明は。その魔法ってのは魔導士が使う本式のやつか、それとも何かの例えか?」
「本式の方だけど……その調子だと、心当たりがなさそうだね」
まあな、と答えるビアンコの渋面は崩れない。組織の幹部としてボスの意向を汲み、構成員を動かす立場である以上、悩みは尽きないのだろう。一般人であってもなくても、中間管理職であればずっとついて回る問題だ。ましてや、自分の管轄で部下が揉め事を起こしたとなっては、その苦労も推して知るべしだ。
「ウチもクスリから手ぇ引いて長いからな」
「先代が方針を変えたんだっけ?」
「組織を身綺麗にしたい、ってな。頭から爪先まで血と泥に染まった俺たちが今さら身綺麗もあったもんじゃねぇと思わないでもないが、それはいい。クスリを扱わないって方針は俺も賛成だ。あれが原因で何もかも台無しにした人間を嫌ってほど見てきたしな。まさかお前さんはやっちゃいねぇよなぁ?」
強面をフル活用したビアンコに変に凄まれると、実にやりづらい。シドは勘弁してくれよ、と首を振る。
「ウチの組織がクスリから手ぇ引いて、もう十年だ。そんだけ長いこと流通網からも情報網からも閉め出されちまってるから、そっち方面の流行から完全に取り残されちまってるんだよ。ほら、お前さんの国でいうところの、アレだよ」
「……浦島太郎、でいいのかな?」
それだそれだ、と煙草に手ずから火をつけるビアンコの表情には、うっすらと焦りが滲んで見えた。手を引いた事業とはいえ、他のマフィアに遅れを取っている点があるというのは心配の種なのかもしれない。
組織の健全性と繁栄の両立に苦慮する上層部の顔をちらりと垣間見せたビアンコは、内心を悟られるのを嫌がったか、そっぽを向いてぶっきらぼうに言い放った。
「そういうわけだから、悪いな、ムナカタ。お前の期待にゃ答えられそうにない」
「いや、こっちこそ変なこと聞いて悪かった。俺の用向きはもう終わったから失礼するよ」
「ん、気をつけて帰れよ。月のない暗い夜道ばかりじゃないからな」
あんたが言うとシャレに聞こえねーよ、と内心ビクビクしたシドは、まだ落ち着く様子のない現場に背を向けて家路を急ぐのであった。




