8.5 決して手を出しちゃいけない
シドが次に向かったのは、王都の中心部からはだいぶ外れたエリアである。最寄りの市電の駅からは少し歩かねばならないようだが、普段から訓練をしているローズマリーにとっては特段苦になる距離ではない。
一方、デイパックから可愛らしくちょこんと顔を出したクロは、どういうわけか再三、ローズマリーに引き返すよう促している。
「これ以上進むのはやめといたほうがいいと思うんだけどね、CC」
「どうして?」
「このあたりで暮らす連中はガラが悪いんだ。昼間でもあんまり足を踏み入れるべきじゃないぜ」
クロの忠告を、少女は短い謝罪の言葉と共に受け流す。
そんな不穏な地域にわざわざ足を運ぶからには、それだけの理由があるはず。シドがここに来た目的を最後まで見届けるという意思が、今のローズマリーを前に推し進めているのだ。
「特に君みたいな子供はなおさらだぜ」
「魔法を使えてもダメなの?」
「そういう問題じゃないんだよ」
いつもなら歯に衣なんて絶対に着せないクロだが、急に奥歯になにかはさまったかのように言葉選びに迷っているのは確かに気にかかるが、それが少女の足を止める決定打とはなりえない。
「妙に道が入り組んでるけど、旧市街だからかな?」
「それだけじゃないさ」
今ひとつピンときていない様子のローズマリーだが、足を止める気配は一切ない。半ば諦めたようにため息をついたクロは、えいやっと気合一発、デイパックの中から飛び出した。
「やめろ、と言っても行くんだね、CC?」
「そのつもりだよ」
「だったら、ボクはもう止めない。これも社会勉強だ、知らないよりは知っていたほうが、得することだってあるかもしれない。
でも、一つ約束してほしいんだ」
ローズマリーを見上げるクロの表情にも、静かに語りかける声の抑揚にも、いつものような皮肉や、ふざけて茶化すような気配は一切感じない。小さい体躯から醸し出される威圧感に、少女は思わず大きく頷いていた。
「なにかされても、決して手を出しちゃいけない。【加速】で相手の一発を避けてぶん殴るのは簡単だけど、相手の素性がわからない以上、不用意に魔法を見せるのは危険だ」
「変なことして、シド先生に迷惑かけられないものね」
わかればよろしい、と頷いたクロの表情は、ずっと引き締まったままだ。この様子だと、事と次第によっては相当面倒な事態に出くわすかもしれない。ローズマリーも気持ちを新たにし、再びデイパックの中に潜り込んだ黒猫と共にシドの後を追う。
「CC、君はさっき、なぜ道が入り組んでるか聞いたね?」
「うん。前に私が犯人を追いかけたあの地区よりも、ちょっと路地が複雑に思えたから気になって」
「別に、伊達や酔狂で、こういう構造になってるわけじゃないんだ」
ボクもよその知識の受け売りだけどね、と断った上で、クロの説明は続く。
「曲がりくねった街路は、当然ながら見通しが悪い。そんな道には本来、実用上のメリットはないんだ」
「事故も増えるし、渋滞の原因にもなるって、先生がよく言ってるものね」
チンクエチェントの助手席に座る機会が多いこともあって、ローズマリーはちょくちょく、シドから運転の心得を聞くことがある。もっとも、その大半は彼のボヤキのようなものなのだが。
「でもね、この類の街では、そんな厄介な道が好まれるれっきとした理由があるのさ。ざっくり言っちまえば、ここに来る連中ってのは、みんなどこかで後ろめたさとか、やましさを抱えてる。要するに、ここに来るのをできる限り見られたくないわけだ」
「だから見通しが悪い、ってこと? わざとそういう作りにしているの?」
「そういうこと。このあたりの右が曲がりくねってるのは地理的な問題じゃない。大人の下世話な心遣いだよ。あんまり気が進まないけど、何があるかは行けばわかる。鬼が出るか蛇が出るかは出たとこ勝負さ」
シドを追いかけているうちに、看板の色が街と調和せず、どんどんけばけばしくなってゆく。街の雰囲気が異質なものに変わりつつあることは、ローズマリーも勘付き始めてきた。
「最後に忠告しとく。引き返すなら今のうちだと思うけど、どうする?」
少女の視線の先を、シドは悠然と歩いている。
これから彼が向かい、それを追う少女が足を踏み入れるのは、おそらく王都の「影」に相当する部分。何でも屋が清濁併せ呑む稼業とはいっても、そんなところに何の用事があるのか。弟子に言えない行き先はとは何か。
好奇心は猫をも殺す――。
そんな言葉が頭をよぎるが、ローズマリーは歩みを止めず、師を追って原色のネオンに彩られる街へと足を踏み出した。
「クロちゃんの言うとおりだったね……」
「だから言ったろ、やめとけって」
デイパックからちょこんと耳だけのぞかせたクロの深い溜息をBGMに、ローズマリーは顔を強張らせる。
少女の眼前に広がるのは、原色と蛍光色で染め上げられた看板が林立する街。そんな派手な看板よりも目立つのが、外で着るにはいささか薄手で布の少ないドレスの裾を翻し、妖しくも艷やかな装いで男たちを誘惑する蝶たちだ。彼女たちが立ち上らせている濃厚な色気、大胆にカットされたドレスから除く背中や胸元、腰まで届かんとするスリットからチラリと除くおみ足に魅了され、欲望と期待に胸やあれこれを膨らませた男たちが、一人また一人と絡め取られ、店の暗がりへと消えてゆく。
華やかだけども、退廃的な街。ともすればタガが緩みっぱなしになりそうな空気に、陰りに似た緊張感ををもたらしているのが、あたりを伺いながら歩いて回っている男たちだ。スーツ姿ではあるが、サラリーマンと呼ぶには眼光も纏う雰囲気も鋭すぎる。時折店の中を覗いている彼らだが、手ぶらで引き返すこともあれば、狼藉を働いたと思しき客の首根っこを掴み、裏通りへと消えてゆくこともある。
彼女たちが足を踏み入れたのは――端的にいえば、色街である。
「どうすんのさ、CC?」
「ひとまずシド先生を追おう」
そんな中にあって、シドは蝶たちに軽く挨拶はするものの、招待に応じる様子はない。店がもう決まっているのか、それとも他の用事で出向いたのか。
「あら、可愛い子じゃない?」
「新人さん? それとも、どなたかにご用?」
少し離れたシドを追おうとしたローズマリーだったが、数メートル進んだところでお姉さんたちに捕まった。まさか人を尾行しているとも言えないので言い淀んでいると、蝶たちは勝手な想像をこねくり回し始める。
「新人だとしても、いくらなんでも恰好が地味じゃない? 男の子みたいよ?」
「そうねえ、もう少しちゃんと食べなさいな。細ければ客がつくってもんでもないのよ?」
「そもそも、どうしてここに来たのかしら?」
「用もないのにこんなとこにいると、絡まれていろいろ面倒よ?」
もう既に面倒なんですが、と皮肉の一つも口にしたくなるローズマリーだったが、こんなところで足止めを食らっているわけにも行かない。
「すいません、急いでるんで……」
笑顔と困惑と迷惑を足して三で割って薄めたような曖昧な表情で、蝶の集まりを抜けたローズマリーだったが、横から現れた人間に再度行く手を遮られ、さすがにムッとした顔をする。
「そんなに怖ェ顔すんなよ、お嬢ちゃん」
へっへっへ、と品のない笑いを浮かべるのは、グレーのスーツに黒いシャツ、ノーネクタイの首元から除く金のネックレスと、映画にだっていまどき出てこない、典型的な街のゴロツキ然とした装いの男である。
ローズマリーは一層、表情を固くする。
自分の嫌いなタイプの人間だから、という理由だけではない。笑っているのは口元だけで、目だけは鈍く光って隙らしいものが見当たらない。それだけならまだしも、前ボタンが開いたままのジャケットの内側からは黒光りする鉄塊がチラリと覗いているのだ。
「あんまり厄介事起こしなさんなよ、ボニー」
「あァン? うるせェよ、テメェらは黙って俺のいう事聞いてろ」
”ボニー”が連れている取り巻きは、揃いも揃って面倒そうな顔をしている。顔こそ厳ついが、まだ話のわかりそうな連中だ。もっとも、彼ら自身は積極的にローズマリーと関わろうとせず、蝶を追い払うのにご執心の様子だ。
「なァ、お嬢ちゃん。あんた、ここがどんな場所か知らずに来たってこたァねェよな?」
決して手を出しちゃいけない――。
黒猫の言いつけを守って、ローズマリーは律儀に口をつぐんだまま。でも、目だけ動かして周囲を観察するのは忘れない。
まず気になったのは、ボニーとやらに絡まれた途端、他の商売女や通行人が露骨に視線を反らしたことだ。あからさまに関わりを避けようとしている。ボニーの仲間も反応は似たようなもので、女たちを追っ払い終えたあとは二人を遠巻きに眺めている。
この男、どうも相当面倒なヤツらしい。
「小娘の来るところじゃねェぞ? もっとも、商売しに来たっつーんなら話は別だが、ここで稼ぐってんなら、ちゃんとしきたりは守ってもらわねェとな」
色街のルールに関心なんてはないローズマリーだが、一つ気になる事がある。
――私を女だと一目で見破ったのは、なぜ?
市電の車掌や喫茶店のマスターなど、顔を合わせる頻度が少ない人達をことごとく欺いてきたボーイッシュな装いは、色街を縄張りとする面々にはまるで通用しなかったことになる。
「なァんか言いてェことでもあるようなツラァしてんな、お嬢ちゃんよォ? まァおおかた、どうして女ってわかったとかそんなとこじゃねェのかあ?」
こいつ、とローズマリーはわずかに目を見開くが、それを見たボニーは例の下卑た笑いを浮かべる。
大抵の相手――たとえそれがシドでも――ならほとんど気にも止めないような変化だが、それを目ざとくすくい上げてくるあたり、ただのチンピラとかかるのは危険なのかもしれない。
「そんなにダボダボの服で隠したってよォ、ニオイでわかんだよ。こちとらガキの頃からこういう仕事してんだ、嫌でも鼻が利くってもんだ」
まぁンなこたァどうでもいい、と迫ってきたボニーから漂うのは、鼻をつく異様な臭気。人工香料の配合を間違えて葡萄の香りを再現し損ねたような匂いだ。そんなものを漂わせておいて鼻が利くも何もあったものじゃない、と少女は思わず顔をしかめる。
「ここがどこだかわかってんだろ? テメェのイチモツおっ勃てた男どもが、金で買った女どもに欲望をブチまけるための場所だ。そんなところに小娘一人で来て、無事ですむわきゃねぇだろ?」
どうせ表情が読まれているならと開き直り、ありったけの軽蔑を込めて睨みを利かすローズマリーだが、ボニーは全く意に介さず距離を詰めてくる。
「貧相でちんちくりんで、おまけに可愛げのない娘でも、顔がそれなりで男に股おっぴろげる覚悟決めてりゃ客は取れるかんな。おとなしくしてりゃ、俺が知ってる店で面倒見てやんよ」
下品な物言いに対する反発心半分、ボニーが詰め寄る度に強まる耐え難い臭気への対抗心半分で顔をしかめ、如何にして事を荒立てずにこの状況を打破すべきか思案していた少女は、感覚が敏感な相棒の存在を一時失念していた。
「へっくしゅん!」
緊張感の満ちた場に響き渡ったのは、やけにおっさん臭い、年季の入ったくしゃみ。
色街では当たり前の音でも、少女の背負うデイパックから聞こえてきたとなれば話は別だ。ボニーもその取り巻きも、怪訝そうに少女を――正確にはその手荷物を――睨んでいる。
ローズマリーは一同の視線の中心に立ったまま、渋面を崩さない。生理現象だから仕方ないとはいえ、こんな大事な場面でくしゃみを抑えきれなかったクロに、あとでどんな皮肉をプレゼントしようかと内心で頭を抱えるのだった。




