8.2 仕事が早いのはいいことだよ
行き先も告げずにふらりと出かけるシドを尾行する。
大いなる決意を固めたローズマリー・クリーデンス・クリアウォーターとクロであったが、えてして気合を入れているときほど好機は巡ってこないものだ。
そもそも、ローズマリー自身、そこまで暇な人間ではない。
オンボロ教会での訓練、警察や養成機関、管理機構で行われる打ち合わせへの同行、報告書の作成に事務処理と、文字通りの東奔西走っぷりである。シドがふらりと出ていくタイミングと、彼女の手が空くタイミングがなかなか合致しないのだ。
チャンスがないなら、作らなければ――。
来るべき時に動けるように、少女は静かに、仕事を片付けるペースを上げる。
別に【加速】魔法を使ったわけではない。試してはみたのだが、ローズマリーの魔法の制御はまだまだ甘く、用箋にペンを走らせた途端、摩擦熱であっさり煙が上がって肝を冷やした。荒事の場でうまく立ち回れるなら、指先の作業でもどうにかなるかというと、そうは問屋が卸さないようである。以降、事務処理に魔法を応用するのは諦め、先回りして仕事を片付けることを徹底した。
努力の甲斐あって、現状、急ぎで処理しなければならない案件は手元にない。シドから「仕事が早くて助かる」と褒められたローズマリーだったが、まさか「あなたを尾行する時間を作るためです」とも言えず、いつもよりもちょっと曖昧な笑みを浮かべるほかなかった。
暇なのは、外部との折衝も事務仕事もできない猫ばかりである。そのかわりという意識はないのだろうが、日の当たる窓辺でのんきにあくびをしながら、双眸を光らせて機を伺うローズマリーをなだめすかし、時にからかい、ねぎらい、励ますという重要な任務を人知れずこなしていたのである。
少女の密かな頑張りは、やがてきちんと実を結ぶ。
どんなに忙しい日々も永遠には続かない。ローズマリーにとっては一日千秋、クロからすればまあこんなもんかという頃合いで、チャンスはしっかり転がり込んできた。
ある日のこと。出かけてくる、と言い残したシドを見送った少女と黒猫は、仲良く玄関に佇んで耳を澄ます。
ガレージのシャッターを開ける音、チンクエチェントの不揃いなエンジン音、どちらも二人の耳には届かない。
頃合いだ――。
クロが出発の提案をしようとしたときにはもう、ローズマリーはそこにはいない客間に通じる扉が開け放たれたままになっているのが、少女の行動を如実に物語る。
高揚感をどうにか押し隠して戻ってきた少女は、いつものメイド服姿ではない。極力地味な格好で、というクロの助言に彼女が出した答えが、グレーの薄手のパーカーに、黒の太めのジーンズだった。きれいな銀髪を、明らかにオーバーサイズのキャップに押し込んで隠せば、ぱっと見は小柄な少年だ。来ているもの全てが大きめのサイズなので、彼女の華奢で清楚な体のラインもばっちり隠れている。
「ボク、まだ何も言ってないんだけど……仕事が早いのはいいことだよ」
「恐縮です、クロちゃん」
「ところで、ボクが隠れるスペースは」
どこだい? と言い終わる前に、ローズマリーは空っぽのデイバッグを下ろす。
その行動だけですべてを察したクロは、半ば諦めたようにその中へ潜り込んだ。暗がりの中で金色の瞳だけが爛々と輝く様子は、事情を知らないものから見ればいささか不気味だ。
「しばらく我慢しててね」
「まあ、暗いのも狭いのもかまわないけど……どこぞの映画に出てきた騎士の師匠みたいな絵面は、ちょっとねぇ」
「ごめん、クロちゃん。ちょっとなんのことかわからないかな…」
クロが漏らした呟きの意味を今ひとつ理解していないのか、ローズマリーはただ首を傾げるばかり。そんな少女の気持ちを察したか、黒猫は空咳をついてごまかす。
「いや、いいんだよCC、こっちの話だ。
早速、シド君を追おう。いくらボクが尾行の技術に長けていても目標を見失っちまったら話にならない」
クロに追い立てられるように外へ飛び出したローズマリーは、少し遠くを行く師匠に気取られぬよう、影のように歩を進めるのだった。
「ちょっと近すぎるかな、もう少しゆっくりでいいよ、CC」
ローズマリーは慌てて歩幅を緩める。
通りを行く人をすり抜けつつ、気取られない程度に距離を詰めながら、少女は目標を追いかけていた。クロが時折飛ばす指示に小さく頷く彼女だが、デイバックの中でお籠り状態のはずの黒猫が見てきたように周囲の状況を把握しているのが不思議で仕方ない。とはいえ、今はシドを追うことが先決。後回しでも構わない質問はとりあえず棚上げだ。
「クロちゃん、身を隠したりはしなくていいの?」
「そんなことしてたら、目標には気づかれないかもしれないけど、それ以外の連中に怪しまれるだろ」
通勤ラッシュの峠を超えてはいるが、人通りはそれなりに多い。とにかくぶつからないように、何よりもシドに感づかれないように、少女は慎重に足を踏み出す。
「変に接近しすぎないように気をつけるくらいでいい。目的は相手を追っかけることで、行動の分析じゃないからね。見失いさえしなければ、多少距離をおいたって関係ない」
ローズマリーは頷くばかりで返事らしい返事をしないが、デイパックの中のクロは特に気にしていない様子だ。そもそも猫なので細かいことを気にするタチでもないというのもあるし、見目麗しい少女が一人で何やらブツブツつぶやきながら歩いているのはいささか世間体が悪い、という配慮くらいはしているのである。
だが、こと尾行に関しては、クロが飛ばす指示は非常に繊細だ。
「人混みに紛れられるのなら話は早いけど、目標と背格好が似た人を取り違えたりすることもあるから、十分気をつけるように」
「……難しい事を言うね、クロちゃん」
「こればっかりは経験を積んで、体で覚えていくしかないのかもね。とにかく、堂々と振る舞うことだ。対象に顔を見られても、うっかり目があっても、素知らぬ顔をするんだね。ビビって顔なんか背けた日にゃ、向こうは一気に警戒するから、難易度が跳ね上がるぜ」
いつもだったら如才なくメモを取っているであろうローズマリーだが、今はシドを追っかけるのが最優先、とにかく先を急ぐ。彼はどうも、市電で移動するらしい。
「市電に乗る。クロちゃん、どの車両に乗ればいい?」
「シド君と同じ車両に。少し距離を開けて、同じ側に陣取るんだ」
「同じ側って?」
「シド君が右寄りに席をとったなら、右に。逆もまたしかり、だよ」
クロの指示に頷いたローズマリーは、シドと同じ車両に飛び乗り、ドア一枚分の距離を開けて座る。
「相手の観察がしやすいからって、対角側にポジションを取るのは愚の骨頂だぜ、CC。こちらが見やすいってことは、相手の目にも付きやすいってことだからね。観察は横目でやるとか、窓の反射を上手く使うとか、工夫するんだ」
デイパックの中から矢継ぎ早に指示を飛ばすのが、いつもは日の当たる窓辺やふかふかのベッドの上で丸くなり、惰眠を貪っているようにしか見えないあの黒猫とは、正直信じがたい。ただでさえ慣れない尾行で気を張っているので、ローズマリーの神経は知らず知らずのうちに張り詰め、早くも疲弊しつつあるのだった。




