7.12 おいたはダメですわよ
「幸せそうに食ってるとこ悪いが、もう一つ聞きたい。うちの猫が元気ねーんだが、どうすりゃいい?」
目をキラキラさせながら口をもぐもぐさせている幼女を大の大人が質問攻めにするのは滑稽な絵面だが、本人たちは至って真面目だ。
「あの黒猫がかえ?」
「わがまま言うから連れてきたんだけど、慣れない環境がストレスになっちまったみたいでな」
チョコレート・ドーナツを平らげた幼女は呆れた様子で一息ついた。事件絡みの質問をされるとでも思っていたが拍子抜け、と言ったところだろう。
仕方ないのう、とベタベタになった指を拭い、シドから万年筆をひったくったエマは、真新しい紙ナプキンになにか書き付けはじめた。
「一応、我輩オススメの栄養剤があるぞ。本来の用途とはちと外れるが、まあ、用法用量をしっかり守れば大丈夫じゃ」
エマがシドに押し付けたのは、端々にインクが滲むサイン付きの処方箋。耳慣れない薬剤の名前が書かれている。
「あれくらいの猫じゃったら、始めの三日は三〇倍、元気が出てきたなら二〇倍希釈で四日間で様子を見るんじゃな。それでおおかたなんとかなるだろう」
「薄めて使うもんなのか?」
「本来の使い方とは違うと言うとろうが。そもそも人間と猫じゃ体重が違いすぎるから、希釈せなんだら話にならん」
「そうか、勉強になったよ」
処方箋を手帳を手錠に挟み込んだシドは、改めてテーブルの上の惨状を目の当たりにしてため息をつく。彼のスペースは実質、手帳を広げた分とコーヒー・カップの分くらいしかない。残った空間に累々と積まれているのは、見事に平らげられたデザートの数々。この様子を見れば、パティシエ冥利に尽きるというものだろうが、いかんせん食い過ぎである。
「こっちが嫌になるくらい、よく食うな」
「何度でも言うてやろう、甘いものは別腹じゃ」
「あんまり食いすぎると、夕飯が食えなくなるぜ?」
「お主、アリーのような小言をつくのう? 若い頃からそんな調子じゃ白髪が増えるぞ?」
「ムナカタ様の言うとおりですわね」
背後から響き渡る、長身メイドのよく通る声に、エマは思わず顔をひきつらせる。
シドはしてやったり、と口角を上げる。幼女は甘いものに夢中で気づいていなかったようだが、処方箋を書き終えて再びドーナツに手を付けたあたりから、アリーがつかつかとこちらに歩み寄るのを、彼はちゃんと認識していたのだ。
「いや、アリー、これはの」
「申し開きはございますか、エマ様?」
「坊主がごちそうしてくれるって言うから」
「甘い言葉とお菓子につられてはいけない、と常々申し上げておりますが、お耳に届かなかったのでしょうか? だいたい、執務を放りだして殿方と優雅にティータイムとは一体どのようなご了見なのですか?」
あう、と言葉につまる幼女に、アリーは残酷にも追い打ちを食らわす。
「罰として、明日の夜まで、お食事もお茶菓子も抜きです」
「そんな、殺生じゃぞアリー!」
「それだけデザートを召し上がったのなら、二十四時間程度、糖分抜きでも十分平気でしょう」
「許してたもれ、アリー。それ以外の罰だったら甘んじて受けようぞ」
「効かない罰など、罰とは呼びません。今日という今日は私も許しませんよ」
きっ、と眉を吊り上げたアリーは、がっくりと項垂れたエマを小脇に抱え、シドに一礼して詫びた。いくら小柄な幼女とはいえ、人一人抱えて姿勢を崩す気配がないあたり、彼女も十分只者ではない。
「エマ様がご迷惑をおかけしました」
「いえ、こっちも貴重な話を聞けましたので。その代償がこれくらいなら、むしろ安いもんです」
「そう言っていただけますと、わずかながらも救われます。エマ様には私からよく言っておきますので、平にご容赦を」
経費で落ちるといいけど、と余計な事を考えていたシドは、二人の背中が見えなくなったところで手帳を懐にしまい、安堵のため息をついた。
「……どんな液体を勧められたのやら」
ハンディアで流通している薬を手に入れるためにぶち上げたとっさの方便だったが、ここまでうまくいくとは思ってなかった。
甘いものに舌鼓を打ち、真剣に処方箋を書いていたエマの顔。
その代償に彼が支払う、決して安くはないデザートの勘定。
それらがもたらす気の重さをふっとばすだけの成果を、あの怪しげな処方箋がもたらしてくれることを願ってやまない。
「利用できるものは、なんでも利用させてもらいます、ってね」
誰にも聞こえない声でつぶやいたシドは、悪い大人特有の裏のある笑みを浮かべたると、目の前の皿を片付けてもらおうとベルを鳴らした。
「お疲れさまです、先生」
先程までエマと話をしていた、コーヒー・ショップのオープンテラス。そこで書物をしていたシドは、ローズマリーの呼びかけに軽く手を上げて応えた。当然ながら、エマがたらふく食べたデザートの痕跡は全て綺麗に片付けられている。
「CC、この仕事が終わって王都に帰ったら、好きなデザートをごちそうしてやるから、そのつもりで」
「どうしたんですか、藪から棒に?」
「今回の件に限らず、いつも頑張ってくれてるからな。遠慮なく、好きなものを好きなだけ頼むといい」
「好きなだけとおっしゃられても、そんなには食べられませんよ……」
シドの突然の申し出に困惑したローズマリーは、こっちの話だ、と強引に丸め込まれて少々腑に落ちない顔をしている。
「カレンはどうした?」
「今後の見学について、上層部の方と打ち合わせをするから少し遅れると」
「そうか。訓練はどうだった?」
「正直、よくわかりません。体を動かせたのはよかったですけど、この短期間で魔力放出を体得できるかは疑問ですね」
「まあ、そんなに簡単に使えるようになりゃ、こんなに苦労はしてないもんな」
ローズマリーに座るよう促すと、シドは頭の後ろで両手を組んで天を仰ぐ。
「俺と君とカレンとクロ、共通して使える魔法もあるし、それぞれしか使えない魔法もある」
「ウルスラさんみたいになんでもできる人もいるわけですよね? 本当、人間って不思議です。
先生の方は、何か収穫、ありましたか?」
シドは黙って机の上の紙袋を指差した。
ローズマリーが中を改めると、そこに入っていたのは瓶二本。淡青色の透明な液体で満たされている。
「ちびっ子の紹介で買った。栄養剤だとさ。薄めりゃ猫でも飲めるらしいぜ?」
きれいな色ですね、とローズマリーは瓶をとって日に透かし、興味深げに眺めている。
「青、ってのが飲む気を削ぐよなぁ。どうしてそんな色にしたんだか」
「美味しそうだったら、飲んじゃうからじゃないですか?」
「……それもそうか。確かに、こんな色の飲み物があっても、積極的に飲もうとはならねーよなぁ」
幼い日の縁日に「ブルー・ハワイ」と名乗る味のかき氷が登場した時の衝撃を、シドはふと思い出していた。
確か、母と二番目の姉が買ってきたものだったはず。二人とも新しいもの好きだったから、新商品とか目新しいものがでると必ずと行っていいほど飛びつくのだ。一方、家族の中で保守的だった父、一番目の姉、そしてシドの三人は、そんな青い色の氷なんて食えるか、とそろって不気味がっていたのだ。
今、二人の前に鎮座している謎の栄養剤がかもし出すのは、あの奇っ怪な青いかき氷に似た異質な雰囲気だ。
「どうしたんですか、ぼーっとして」
「……なんでもねーよ。少し昔を思い出しただけだ」
「お疲れなら、これを召し上がってはいかがです?」
「勘弁してくれよ、そういうために買ったんじゃないんだ」
思い出に浸っていたシドを慮ったローズマリーの提案を、シドは苦笑交じりに否定する。彼女も冗談のつもりで言ったのか、それ以上はこの奇っ怪な液体を勧めてこない。シドの表情をみて、何かしら腹案があると察してくれているのだろう。こういうところが、つくづくイスパニア人らしくない娘だ。
「ま、こいつをどう使うかは、あとでまた話すよ。それよか、うちの大将がご帰還のようだぜ」
シドの視線の先には、小袖と袴の裾を翻し、小走りにやってくる淑女の姿。
あいつにゃ必要のない代物だな、とシドは小瓶を紙袋にしまい込む。
「お待たせしました」
「ん、ご苦労さん。電車がくるまで少し時間があるから、少し話でもしてくか」
カレンとローズマリーに席につくよう促したシドは、周囲に人がまばらなのを確認してから話しだした。
「カレンから見て、リハビリ施設のメニューはどうだった?」
「……正直、あれで失われた魔法を取り戻せるかは疑問ですわ。本当に魔法を使えるようになるかわからないまま訓練を続けるっていうのは、体よりもむしろ心が折れそうになりますわね」
「症例の説明に出てきた患者さんはあれを一年あまり受けているわけですよね? よほど精神が強いのでしょうか?」
「……そんだけ精神が強くて五体満足の人間が、魔法を失うってのもおかしなもんだよな」
病は気から、という言葉があるように、体と心は強くリンクしている。よって、魔法の強さも術者の精神の影響を強く受ける――というのが定説だ。その論にしたがえば、自分の魔法に絶対の自信を持つ者、あるいは根っからの楽天家は強力な魔法を使うことができるし、現にその傾向は強い。
だが、根拠なき自信、理由なき前向き思考しか持たない魔法使いほど、案外脆くて立て直しが効かない。拠って立つ基盤を持たない魔法使いが自らの魔法に対する信頼を一度手放してしまったら最後、それはもう、永遠に闇に葬り去られてしまう。
その典型的な例が、思春期前後に突然魔法を使えなくなる、というケースが挙げられる。幼少期特有の万能感は魔法を使う大いなる助けとなるが、それは成長に伴い薄れてゆく性質のものだ。どこかで理論や理屈を身につけなければ、魔法は万能感とともに永遠に失われてしまうのである。
「むしろ……折れた心を繕って、もういちど魔法を使うに足る精神を取り戻すための訓練なのかもしれませんわね? だとすれば、時間がかかるというのも納得がいきますわ」
そう言う考え方もあるのか、とシドは顎に手を当てて考え込む。
「それよりムナカタ君、明日もCCさんは訓練を受けるということで話をしてありますけど、それでいいですわね?」
「うん、そうしてくれ。俺は一旦王都に戻って、警察と王立図書館に寄ってくる」
「図書館ですか、先生?」
「知り合いがあそこで司書長補佐をやっててな。CCのリストのコピーを送って、調べてもらってるんだ」
「司書長補佐って、もしかしてバングルスさんのことですか?」
「知ってんのか?」
畳み掛けてくるシドに少々気圧されたのか、ローズマリーはためらいがちに頷いた。
「私が図書館で本を探すのをよく手伝ってくれるんです」
「あの野郎……」
「ムナカタ君、あまりおいたはダメですわよ?」
「わかってる。ちょっと脅かすだけだ」
口ではそう言うものの、目は完全に微笑っていないシドを見て、ローズマリーはちょっと引き気味。
そして、カレンはどういうわけか、そんな二人の様子を微笑みながら見つめている。クロがこの場にいたら、「おっかない女だね」とつぶやいていたことだろう。
「そんなわけで、明日は君たちを送り届けたら、すぐに王都に向かうのでそのつもりで」
「こっちの方は心配ご無用ですわ。帰りはタクシーでも呼ぶことにします」
「そうしてくれると助かる。急ぎの用があったら、警察か図書館あてに電話してくれ、取り次いでもらうことにするよ」
そろそろ帰ろうか、と立ち上がると、ケーブルカーの発車案内が街に響く。夕刻と呼ぶべき時刻だが、日は煌々と照っており、まだ沈む気配を見せない。
談笑しながら帰路につく三人だったが、捜査の進展が滞っている状況を憂いたか、一抹の不安と拭いきれない焦りが表情と足取りににじみ出ていた。




