7.5 そのお顔をみれば一目瞭然ですわね
ハンディアの麓、出張で使うには少々豪華にも思える宿の一人部屋で、シドは読みかけの本を投げ出して天井を見上げた。
ナイトテーブルの時計は二十三時を指そうかというところ、陽の長いイスパニアもすっかり宵闇に包まれている。
「ちょっと疲れたな……」
間接照明にぼんやり照らされながら、シドは誰に言うわけでもなく呟く。慣れ親しんだ王都で仕事をするのと、出先で人に会うのでは、疲労の種類が若干違う気がする。
明日からいよいよ本格的な調査が始まるのだから、いっその事寝てしまったほうがいいのだろうが、いろいろ考えているとどうしても寝付きが悪くなる、というのもまた事実だ。
ハンディアで彼らが行おうとしている「調査」は、大きく分けて二つ。
一つは専門家からのヒアリングで、研究機関の見学も含まれる。ハンディアの設備は、医学については素人同然のシドたちがわかるくらいの充実ぶりなので、さすがに隅から隅まで全部調べるというわけにもいかない。「魔法使いもどき」の事件に関連しそうところを厳選して、話を聞きに行くことになる。
それと並行して、文献調査を進めなければいけない。ハンディアには「蔵書庫」と称される、研究成果を収めた大規模な資料室がある。資料があるのは結構だが、調査に赴いた面子は――何度も言うように――医学に関してはドのつく素人。そもそもすべての資料を精査する時間もないから、司書を一人か二人とっ捕まえて手伝ってもらう必要がある。
――ウルスラを連れてきても良かったんじゃないか?
シドの脳裏に浮かぶのは、フレームレスのメガネがよく似合う、どうにも自分と反りが合わないあの女性の顔だ。カレンお嬢様のこととなるとやや暴走気味のきらいは欠点はあるけれど、彼女は秘書としても魔導士としても優秀で、戦力として十分計算が立つ。事と次第によってはシドより適任かもしれない。
だが、この調査の責任者はカレンである。彼女が万屋ムナカタの面々だけを連れて行くと決めたのなら、彼としては方針に従うほかない。それに、ウルスラはガーファンクル卿の右腕として仕事をしていることも多く、それなりに多忙である。どこぞの何でも屋のように昼行灯というわけにはいかないのだろう。
思考の海に揺蕩うシドを現実に引き戻したのは、何者かがドアをノックする音だった。来客にはあまりにも遅い時間である。
「こんばんは、ムナカタ君」
細く開けた扉の向こうにいるのは、市松模様の浴衣を纏ったカレン。現在では、日本本国でも風呂上がりに浴衣を着る人間はごく少数なので、逆に新鮮に映る。
彼女は確か、ローズマリーと二人部屋で泊まっていたはずだ。
「なんだよ、こんな晩に。作戦会議か?」
「ええ、それもあるのですけど……」
ちょっと申し訳なさそうにはにかみ、奥歯にものの挟まったような口ぶりで話すカレンも珍しい。こんな時はだいたい、言いづらい事があるときだ。
「なんだよ、あんた、まだ枕が変わると寝付けないのか? もういい歳だろ?」
「あなたと同い年ですわ!」
長い付き合いである、シドも大体の事情はお見通しだ。
まったくしょうがねぇな、とカレンを部屋に招き入れた、すれ違いざまの一瞬。しっとりと濡れた黒髪と浴衣のうなじから妙に濃い色香が立ち上るように見えたが、気のせい気のせい、とシドは頭を振る。
「CCはもう寝てるのか?」
「ええ、ぐっすりと。クロスケさんを抱き枕にしてましたわ」
不慣れな乗り物に散々苦しめられた挙げ句、夜はぬいぐるみ代わりの扱いとあっては、使い魔・長く生きすぎた猫の威厳もどこへやら、である。
一人がけのチェアに座ったカレンは、シドの淹れた紅茶を飲みながら話をしはじめた。
「ムナカタ君、ハンディアという街をどう思います?」
率直に言ってしまえば、違和感だらけだ。街として本来備わっているはずの雰囲気――雑然さが微塵も感じられない。
率直にそう伝えると、カレンは唇を引き結んで小さく頷いた。
「街と捉えてしまうから、そう感じてしまうのかもしれませんわね」
「どういうことだよ?」
「あの雰囲気は病院そのものですわ。違いといえば、広くて屋根がないくらいのものです。
理路整然とした街区の配置に、規模に似合わない清潔すぎる街並み。自家用車の使用は禁じられ、住民の移動手段は路面電車か自転車に制限されているから、喧騒とはまるで無縁。
そもそも人口の三~四割が入院患者なのですから、これを病院と呼ばずしてなんとお呼びになりますの?」
そう言われれば、シドにも合点がいく。
彼女の言う通り、ハンディア自体を「病院」と捉えれば、違和感はさほどない。人体は宇宙に匹敵する謎に満ちている。それを研究の俎上に乗せる場所ならば、理路整然とし、そして清潔であることが大前提だ。
「確かに、療養向きの場所でもあるしな……」
それに加えて、ハンディアは風光明媚な場所だ。
イスパニアの他の地域と同様に日差しは強いけれど、高地に位置するために気温が少し低く、爽やかな風が吹いている。黒い煙を吐き出す工場も、街中を走る自動車もないせいか、心なしか都会よりも空気が澄んでいる気もする。
病院あるいは療養施設を立てるにはもってこいの場所だが、その規模はいささか度を超えている、という印象を受けたのも事実だ。
「僻地の高原の病院にしちゃデカすぎるし、設備も充実しすぎてる気はするけどな。ガワだけみたら王立大学の医学部よりも立派だぜ?」
「本丸は研究機関と考えるべきかもしれませんわね? 外部の救急患者を受け入れている様子も、それができる設備も見当たりませんし」
ハンディアに向かう交通手段は二つ。シド達が使ったケーブルカーか、クロの車酔い回避のために使わなかったトロリー・バスだ。
街の中央の広場であればヘリも着陸可能だが、ヘリポートらしきサインは見当たらなかった。そもそも、王都を始めとする各都市からはだいぶ離れているから、どんな救急搬送手段でも相応に時間がかかって、急場には間に合うまい。
「そうなると、緊急性の高い患者は俺達が思ってるほど多くない、って考えてもいいのかもな」
病院は副次的要素で、ハンディアの本質は研究機関。医療行為を隠れ蓑に、人目に晒したくないなにかを行っているということだろうか?
ふと浮かんだ余計な考えを、シドは頭を振って追い払う。下手な先入観は思考の邪魔になりかねない。そもそも彼らがここへ来た目的は「魔法使いもどき」の調査であって、ハンディア自体を調べるわけではないのである。
「エマさんも、とらえどころがない人ですわね」
「まあ、調査に協力的ってだけでも、良しとしなきゃだな」
尊大な態度の幼女だったが、調査に協力的なのはありがたかった。
医者として、そして研究者として、ハンディアの医療研究機関群を統治する彼女の号令はまさしく鶴の一声。安息日にもかかわらず、調査に必要な書類手続きとスケジュール調整が大方済んでしまった。
「とはいっても、ハンディアの全権を掌握してるわけだからな。万が一にでもあの子供の機嫌を損ねようものなら調査もへったくれもなくなる」
「それこそ、ムナカタ君が一番怪しいのではなくて?」
そう言われてしまうと立つ瀬がない。
シドとカレンとローズマリーとクロ、一番失言が多そうなのは、間違いなくシドだ。クロもズケズケと物を言う方だが、普通の飼い猫のふりに徹し、うっかり人前でしゃべるなんて下手を打たなければ問題ない……はずだ。
「クロスケさん、エマ様に警戒の目を光らせてましたわね? なんか理由がおありですの?」
「さあな。昔から、子供はそんなに好きじゃないとは言ってたぜ。扱いが乱暴だとかなんとか」
「でも、あそこまで過敏な反応というのも珍しいですわね? そこまで人見知りしない猫だと思ってましたけど……」
昼間に初めてエマに会ってからというもの、クロは終始神経を張り詰めっぱなし。ハンディアを出て麓に降りるまで、彼女はシドのそばから離れようとしなかったのだ。
その様子は確かに覚えてはいるが、シドに心当たりがあるわけではない。クロは彼の使い魔だが、分身ではないのだ。
「カレンは、あのちびっ子が信用に足る人物だと思うか?」
「今日あったばかりで全てを信じるのは、さすがに愚策だと思います。ですが、協力すると申し出ていただけた以上は、こちらも最大限そのご厚意に甘えるべきかと。
ムナカタ君は……いえ、そのお顔をみれば一目瞭然ですわね」
今ひとつ信用ならん、と表情に出ていたのだろう。そんなにわかりやすかったかな、と顔を撫でるシドを見て、カレンが上品に微笑う。
「考えてみろよ、あの見た目のくせに医療の専門家、おまけにこの街の代表として結構な権力を手にしてるんだぜ? 年齢に似合わないにも程があるだろ? 裏がないって思うほうがおかしい」
「もう少し信用なさってもよろしいのではなくて? それにムナカタ君、今回の調査の目的は、彼女の調査でもありませんわよ?」
わかってるよ、とぶっきらぼうに答えると、シドはソファに深く腰掛けて黙り込んでしまう。カレンの問いかけについても短く「うん」とか「ああ」とか言うばかり。一見会話をしているふうだが、心と頭は事件の謎に囚われているのだろう。
彼との付き合いの長い彼女は、こんな時どうすべきかもよく承知している。
特につつかず、放っておく。そうすればそのうち戻ってくる――
優雅にティーカップを傾けた淑女は、ぼんやりした様子で顎に手を当てて考え込んでしまったシドを飽きることなく見つめている。




