5.3 私はどこまでもお供します
シドが警察署を後にしてから一〇分もせずに、暗い雲から落ちてきた雨粒が王都を濡らす。
イスパニアの内陸部にあるために晴れの日が多く、乾燥した気候の王都だが、時折こうして激しい夕立に見舞われるのだ。
だが、それは往々にして長くは続かず、後にはまるで名画のような風景を残して去ってゆく。
露に輝く石畳、雲の切れ間から街を照らす陽光、河にかかる虹。
雨上がり特有の、綺麗に洗われて澄んだ空気とともに垣間見える街の風景は、シドの密かなお気に入りだ。
更に嬉しいことに、イスパニアは時差の関係で夜でもずいぶん明るいから、雨上がりの街を長い時間楽しむことができる。一九時頃にようやく日が傾き始め、二二時頃になって日が沈む、といった具合だ。王都の人々はめいめい、家族と過ごしたり気の合う仲間と酒場に繰り出したりして、夕暮れ時を長く楽しむ。
だが、今のシドには、安酒を引っ掛けてくだを巻いている暇はない。雨漏りさえ疑わせるほどの古ぼけた外見をした愛車のアクセルペダルを蹴っ飛ばして街道をひた走る。
訓練を終えた弟子と、そのお供につけた黒猫が、街外れのオンボロ教会で彼の迎えを待っているのだ。
オンボロ教会に愛車を乗り付けたシドが見たのは、軒下で仲良く曇天を見上げて雨宿りしているメイド姿のローズマリー、そして黒猫。
チンクエチェントのバタバタしたエンジン音に気づいたのか、少女は手荷物とクロを抱え、降りしきる雨の中、濡れるのも構わずに外へと飛び出した。
少女は長いスカートを翻し、右へ左へひらひらと跳んで水たまりを飛び越す。揺れる銀髪に弾かれ、細かく散った雨粒が夕日をキラキラと跳ね返す。
降りしきる雨のカーテンも、昼間よりは強くなった風も、挙句の果てには重力さえも感じさせないその舞姿は、まるで自由な蝶々。
その姿に心奪われていたシドは、ローズマリーが助手席に滑り込んでなお、しばし呆けたままだった。
「どうしたんですか? いつにもまして、ぼーっとなさって」
その言葉にようやく我に返ったシドだが、どうにかこうにか、おかえり、と絞り出すのが精一杯だった。
「ええ、ただいま戻りました」
その表情は相変わらずクールだが、よく見ると少し嬉しそうだ。その理由を聞いてみると、
「先生からおかえりって言葉をかけていただけるとは、正直、予想してなかったもので」
なんて言うものだから、シドもついつい面映ゆくなり、彼女から目をそらしてしまう。踏み込むアクセルも、いつもより少し乱暴になりがちだ。
「……おかえりって言える相手がいるのも、いいもんだな」
「どうしたんですか、珍しく感傷的ですね」
「こう見えても詩人なんだよ」
シドの戯言を、ローズマリーは静かに受け流す。
ちらりと横目で見た彼女の表情ははにかんでいるようにも見えたが、彼が数回瞬きした後には、もういつもの涼し気な横顔に逆戻りだ。
いつもと様子が違うシドを訝しんだのか、ローズマリーが小首をかしげ、少しだけ心配そうに尋ねてくる。
「どこか調子がお悪いのですか?」
「そんなことないぞ、気のせいだろ」
前を向いたままごまかすシドだが、果たしてごまかしきれているかどうか。
「なあ、CC」
「はい?」
「何でも屋ってのは難儀な仕事だ。こういう仕事をしている限り、いつ命を落とすとも限らねーし、いつかは君も警察に戻って、俺とは別の道をゆくことになる」
「……そうですね」
俯き加減で頷くローズマリーの声のトーンは、少し低い。
「だから……君が万屋にいて、俺が君の師匠でいる間は、お互いに『ただいま』とか『おかえり』って言えるように、せいぜい長生きしようじゃないか」
シドの言葉が意外だったのか、驚いた表情を浮かべたローズマリーだったが、それは一瞬だけのこと。すぐに口元に優しい笑みが浮かぶ。
「ええ、先生。私はどこまでもお供します」
どこか歌うような調子のローズマリーを横目に見ながら、シドは照れくささを振り切るように目一杯アクセルを踏み込んだ。




