4.13 あんまりからかってやるなよ
今宵の楽しい酒の席、事件の話も一段落して当たり障りのない会話が続くさなかに、アンディがしみじみと呟いた。
「センセイもちょっと変わったよね」
「なんだよ、藪から棒に?」
「CCが来る前って、仕事は受けてくれてたけど、そんなにやる気が見られなかった気がするんだけどね」
「今以上にやる気がなかったってどういうことですか、先生……」
信じられません、とばかりに少女が嘆息するが、師匠は全く気にする様子がない。当人は前と何も変わっていない、と至って涼しい顔だ。最も、本人にまるで自覚がなくても、他人から見れば大いなる変貌を遂げている、というのは珍しい話ではない。男子三日会わざれば刮目して見よとはよく言ったものである。
「銀行の事件の後に、センセイが御自ら署に出向いてきてね。『あいつを鍛えなきゃいけないから仕事を回してくれ』と来たもんだ! 魔導士が関わる案件は手に余ることが多いから、こっちとしては大助かりってわけだけど、まさかセンセイ自ら頭を下げに来るとは思ってなかった」
「あら、そんなことがあったんですか?」
シドは首を傾げている。アンディが話を盛っているのだから、心当たりがないのも当然。尾ひれどころか、放っておくと翼まで生やされそうな勢いである。
「こっちとしては嬉しい誤算さ。実力はあるけど今ひとつやる気のなかったセンセイが、重い腰を上げて僕らに協力するって言ってくれたんだからね! それもこれも、CCがセンセイのところに出向いてくれたおかげだ。感謝しているよ」
「あ、ありがとうございます……?」
急に礼を言われたローズマリーはわかりやすく当惑している。警察に入庁して数日、右も左もわからない彼女に万屋ムナカタに出向しろと辞令を出したのは上司で、ローズマリーには選択の余地はほとんどなかったはずだから無理もない。
「やっぱあれだね、魔法使いは弟子を持つと変わるんだね」
「アンディ、俺以外に魔導士と仕事したことあんのか?」
「ほとんどない!」
あまりにも堂々と胸を張って言われてしまっては、シドももう突っ込む気にすらなれない。
「センセイはCCと一緒に仕事するようになってから、明らかに良い方に変わってる。それだけは間違いないね」
「……まあ、それなら、私からは何も言うことはありませんが」
一見すると無表情のローズマリーだが、目だけは雄弁に「もう少ししっかりしてくれないと困ります」と語っている。
「『新人が一人前になるまではちゃんと守ってやらねーとな』なんて言って柄にもなくやる気をだすセンセイの姿は……いや、実にいいものを見せてもらったよ」
「そんなこと言った記憶がねーんだが……」
「お言葉ですがシド先生。先生にそんなセリフは似合いませんよ。『守ってやる』だなんて」
突然言葉を切ったローズマリー、その顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。
そんな彼女を訝しみ、声をかけようとしたシドだったが、赤面の理由に思い当たって思わず口をつぐんだ。
あの時――パサート卿の別荘での事件でローズマリーを抱きしめたり膝枕をしたりしたのは状況が状況だったからである。あくまでも結果論であって、シドにしてみれば、決してやましいところがあったからではない!
「どうした? 言いたいことがあったら言って構わないよ、CC」
「いいえなんでもありません」
「そうは言うけど、顔が真っ赤だぜ? 本当に大丈夫かい?」
ローズマリーを問い詰めるアンディの表情は実に楽しそうだ。振り返ってみると、パーティ会場で念動力使いの攻撃から身を挺して彼女を守ったシドの姿も、怪我の手当の後で膝を貸していた様子もバッチリ目撃されているのだ。全部わかってて聞くのだから、実にタチが悪い。
「まあ、これでも飲んで落ち着きなよ」
「お気遣い、痛み入ります」
アンディから手渡されたグラスを両手で受け取ると、ローズマリーはそれをためらうことなく呷った。
「え、それ酒じゃねーのか?」
あっ、とアンディが気づいた時には、彼女はすでに中身を口にしていた。いつも飲んでいるものとは明らかに異なる風味に、少女は困惑の表情を浮かべる。
「あー、不幸な事故だ。そう、事故だよ。大丈夫、見なかったことにするからさ」
「しっかりしてくれよ警部殿、相手は未成年だぜ……」
「だから見なかったことにするって。それにいくらCCでも、一口で酔っ払うなんてことは……」
ローズマリーの真っ赤な顔は先程と変わらず、照れなのか酔いなのかは区別がつかない。だが、普段の彼女なら絶対に見せない、俯き加減で右へ左へと体を揺らす仕草が、男二人に一抹の不安をもたらす。
「CC、大丈夫か?」
さすがに心配になって呼びかけると、フラフラと揺れていたローズマリーの動きがピタリと止まる。
ああ、たぶん大丈夫だろう、とシドが安堵の息を漏らした途端、
「大丈夫、ですっ!」
少女は大虎と化していた。
時々毒のある言葉でシドを困らせる、真面目で淑やかな少女は、もう、そこにはいない。
「大丈夫と言ったら、大丈夫です!」
あっけに取られて何を言っていいのやらわからず戸惑ったままのシドとは対称的に、アンディは面白いことになるんじゃないかとニヤニヤし通しだ。先程までローズマリーの膝にいたクロもただならぬ気配を感じたのか、脇目も振らずに弾丸のごとく部屋の隅にすっ飛んでいき、小さくなってじっと様子を伺っている。
「私は心配ありませんよ、大丈夫です、シド先生!
次こそ必ず、この私があの念動力使いをブッ飛ばして見せます! 今回はすこーし目測を誤っちゃいましたけど、次はやってやりますよ! 打ちてし止まん!」
「ぶ、ブッ飛ばす?」
固く握りしめた拳をぶんぶん振るうローズマリーから、彼女らしからぬ物騒な言葉がポンポン飛び出してくるものだから、シドは思わず引きつった顔になる。
「そうです! シド先生に教わった【加速】と、教会仕込みの格闘戦技でバシッと仕留めてみせますよ! 乞うご期待!」
「最近の教会では格闘技を教えるんだね、センセイ?」
「企業秘密だ。つーかそこ突っ込むところじゃねーだろ?」
「何弱気になってるんですか、シド先生! あの人を止められるのは私たち以外にいないんですよぉ!」
物静かでクールな、いつものローズマリーは宇宙の彼方に出張中。風切り音を立てながら華奢な腕を振るい、語尾にいちいちエクスクラメーション・マークが付きそうな強い口調でまくし立てるこの娘は、顔がおんなじ別人。
そうとでも思わんとやってられねー、とばかりに、シドはグラスの中身を飲み干して嘆息した。
必要以上に力がこめられたローズマリーの言葉に、シドは加速度的に食傷気味になりつつある。彼は元来ハイテンションとは程遠い人間で、力の入った話はさほど得意ではない。その相手が酔っ払いならなおさらだ。
「でもね、CC。この件は被疑者死亡ということでもうカタがついちゃってるんだね」
アンディの言葉に、ローズマリーは可愛らしく小首を傾げる。素面なら目で語るタイプの彼女だが、このときばかりは顔全面に内心が溢れ出てしまっていた。下がった眉にキラキラした双眸、そして綺麗に結ばれながらもへの字に曲がった口が、「こいつは何を言っているのか」と言外に語るどころか、叫んでしまっている。
「そういうわけで、残念ながら次はないんだね」
「………次がない、ですって!?」
真っ赤な顔に、完全に据わった眼、トリッキーな言動。マンガのようなローズマリーの酔態に、シドのほろ酔い気分は完全にすっ飛んでしまった。彼の相棒・クロは完全に逃げを決め込み、ローズマリーの死角で息を潜めている始末だ。
「私のこのやり場のない思いは、いったい何にぶつければいいんですかっ!?」
「センセイのところの猫じゃない?」
アンディの不用意な発言に身の危険を察知したクロが金色の眼を見開いて立ち上がるのと、ニタリと不敵に微笑んだローズマリーの体に魔力が満ちたのはほぼ同時だった。
「……クロちゃーん♪」
猫が一度本気を出してしまえば、人間に捕まることなど普通はない。だが、【加速】を使った少女は、その一般論をあっさりとひっくり返す。クロは一歩も動けないままに捕らえられ、グイグイと頬ずりをされる目にあった。人の気配に敏いクロに気取られず、逆に動きを見切っていとも簡単に捕らえたローズマリーに、シドは動揺を隠せない。
クロも人馴れした猫ではあるが、過度なスキンシップはお気に召さないようだ。「可愛いねぇ」と連呼しながらご満悦のローズマリーとは対称的に、クロの表情は「ご勘弁くだせぇお代官様」と嘆願する農民のそれにどことなく似ていた。
「センセイ、君の弟子だろう、なんとかしてくれよ」
「あんたの部下でもあるだろ……。だいたい、あんたが不注意で酒を渡したのがいけない」
「それに比べてあなたのご主人ときたら」
さんざっぱらクロを愛でて満足したのか、ローズマリーの関心はシドに向く。
クロを開放した彼女は腰に手を当ててシドに顔を寄せた。普段ならその可愛らしさに心中穏やかではないのだろうが、顔は真っ赤、大きい目は完全に据わっており、可憐な吐息も酒臭く、完全に酔っぱらっているので何もかも台無しだ。
「朝は自分で起きないし、買い物をお願いしたら余計なものを買ってくるし、コーヒー中毒だし、何度言っても夜更かしをやめてくれないし、経理の帳簿の数字はごまかすし……よく今まで事務所が回ってたなと、私はあきれているのですよぉ」
なんだよ今度はこっちに矛先かよ、と目線で助けを求めたシドだったが、肝心のアンディは面白そうな話のニオイを嗅ぎ付けたとばかりにうんうんと頷いている。クロは完全に疲弊して部屋の隅で小さく震えており、シドに加勢するだけの元気はなさそうだ。
「そもそも先生は、仕事の時と普段で落差がありすぎなんです! 夜はいつ寝てるのかわからないし、朝は寝ぼけっぱなしだし、眠そうな顔のままクルマを運転するし、寝癖はひどいし……」
「なかなかの強者じゃないか、センセイ。ま、いくつかヤバそうな話については、目をつむっておくよ」
人のよさそうな顔をしながらシドをダシにして楽しむアンディの相槌に、ローズマリーは大きく頷いて話し続ける。
「でも、現場では本当にに頼りになる人なんですよ! 魔法に関する知識はもちろんですが、それ以外にもいろいろ教えてくださるんです! 時々どこで手に入れたか全く見当がつかない知識まで披露してくださいます」
「ああ、たしかに彼、そういうところはあるよね」
「それなのに……聞いてるんですか、シド先生!?」
「あ、はい」
シドは膝を揃えて座り、借りてきた猫のようにおとなしくなっている。本物の猫は部屋の隅にいたまま、若干おびえた様子で遠巻きに二人のやり取りを眺めていた。
「実際に現場に行ったら頭もまわるし、あれだけの腕前をお持ちだというのに、どうして普段はあんななんですか!」
「なんででしょうかねぇ……?」
アンディはニヤニヤしながら、楽しそうにワイングラスを揺らしている。その余裕たっぷりな様子がシドの気に障るのだが、当人はお構いなしだ。
「いやあ、いい話が聞けたよ。僕も現場に出てるセンセイしか知らないからさ、実に新鮮だよ。こっちもCCを出向させた甲斐があるってもんだ。
でもさ、個人の事情にあまり口を出す気はないけど、間違いだけは起こしてくれるなよ?」
「誰が起こすか!」
「間違い?」
大人たちの会話に一歩取り残されたローズマリーは例によって小首を傾げ、顎に手を当てて考え込んでいる。
「センセイは精神的に老けたところがあるけど、それでも若い男だからなあ。自宅に他所の女を連れ込んで同居人に刺されるとか、年端もいかない同居人に手を出して書類送検なんてことになったら、もう目も当てられないよ」
「そんな心配するくらいなら、最初から同居前提の出向なんかさせなきゃいいだろ!?」
「手を……出す?」
シリアスなトーンからは一転、ニヤニヤしながら少女の教育によろしくない話をしだすアンディ。シドの反論は至極真っ当だが、相手はそれなりの酔っぱらい、伝わっているかは怪しいものである。
最初は意味がよくわかっていない様子のローズマリーだったが、思い当たる事があったのか、酒で赤くなった顔が一層赤くなる。薬缶のように蒸気が噴き出すさまが見えるようだ。
「はは破廉恥ですよシド先生! ままま間違いだなんてそんな!」
さすがのローズマリーも相当動揺しているのか、それとも酒の回りが深くなったせいか、呂律が怪しくなりつつある。
「間違いなんて起こさないぞ! 安心しろ! 俺は君の指導役だぞ?」
「まだけけけ結婚どころかつつつ付き合ってもないのに!」
「え、付き合ってるならいいのか?」
「お前も混ぜっ返すなアンディ! 思春期の中学生か!」
「わわわ私とせせせ先生がけけけ結婚だなんて……!!!」
きゅう。
慣れない酒に酔い、オトナの会話に思考回路をオーバーヒートさせた純情な少女は、健康な人間ならまず発しないであろう声を挙げた直後、糸の切れた操り人形のように、その場に膝から崩れ落ちた。シドが抱き止めなければテーブルをひっくり返して大惨事になっていたところだ。
腕の中から聞こえる、先程の騒々しさが嘘のように静かな寝息を聞いて、シドはほっと胸をなでおろす。
「お、静かになったね」
なんてこと言ってくれやがる、と睨みつけるシドだが、アンディは全く動じる様子はない。「おお怖い怖い」と言ってはいるが、表情は実に愉快そうだ。
「純で難しい年頃だ、あんまりからかってやるなよ。撚った針金みたいに図太い神経をしたお宅の婦警連中とは違うんだ」
「それ聞いたら怒るよ、あいつら。それにしたっていくら何でもウブすぎるだろ……。その辺の教育はどうなってんのさ?」
「出向先の人間の仕事じゃないだろ、それ……」
「ま、意図せず酔っぱらいが静かになったわけだけどさ。この後どうする?」
自分も酔っ払ってるくせになんて言い草だ、と呆れるシドだが、もう反論する気力もロクに残っていない。改めてローズマリーを背負い直し、帰宅の途につくことにする。
「お嬢ちゃんが何も覚えてないことを祈ろうか。今夜の勘定は全額こっちで持ってあげるよ、センセイ。いいものも見れたしその礼だ」
シドの視線を意に介する事なく煙草をくわえたアンディは、とっとと行け、と手を振った。勘定を持ってくれる申し出への感謝半分、厄介な相手に面倒くさいのものを見られたという悲嘆半分という、苦い心持ちのまま、シドは個室を後にした。
どこぞへと消えたクロを探してみると、出口の脇で行儀よく座って待っていた。異常事態が終わるとみるや、最初からいたかのように得意げな顔をするあたりはやっぱり猫である。終わったようだね、と足元にすり寄ってきたクロの先導で、シド達は店を後にした。
市電の停留所までは少し歩く。星が瞬く夜空の元、すこし肌寒ささえ感じさせる夜風に吹かれるのは悪い気分ではない。だが、酔っぱらいを背負って歩くという、何とも風情がない己の身を振り返ったシドの口からは、とめどなくため息がこぼれるばかりだった。




