4.8 今しばらく低い姿勢のままお待ちいただきたく存じます
犯人に向かって【加速】も使わずに駆け出したシド。一般人の全速力程度で迫る相手を、当然犯人も見落とすわけがない。シドの四歩目は地につくことなく、見えない力に動きを絡め取られてしまう。
身体を拘束する力は予想以上に強く、足はもちろんのこと、腰、肩、腕、指先に至るまで、彼の意志に反してぴくりとも動く気配を見せない。シドの額に一筋、汗が流れる。
「先生!」
彼の身に起こった異変に気づいたのか、ローズマリーの声にも悲痛さが混じる。
「伏せてろ、CC! 頭に風穴が開くぜ!」
幸いな事に声は出るから、合図を出すのに支障はない。背後の弟子とは対称的に、シドは余裕を取り戻す。予想以上の力で抑え込まれてはいるが、足止めは計算の内だ。
「こうなるのを待ってたんだ……。アンディ、やれ!」
シドの合図と共に、先程まで固く閉ざされていたはずの大扉が開き、警官たちが我先にとなだれ込む。
「総員射撃、撃ぇ! センセイのことはこの際気にするな!」
アンディの合図とともに警官たちの制式拳銃が一斉に火を噴き、硝煙の匂いが瞬く間にパーティ会場を満たす。
念動力使いの判断は素早かった。
即座に警官たちの方に向き直ると、豪奢なテーブルを苦もなく持ち上げて盾代わりにし、自らに襲いかかる銃弾を防いでみせたのだ。
そのかわりに彼が諦めたのは、シドの拘束。押さえつけていた見えない力から開放され、振り上げられたままになっていた右足が急に絨毯に接地するものだから、シドは思わずたたらを踏んでしまう。
流れ弾を【防壁】で受け流したシドは、一旦大きく飛び退いてローズマリーたちの元へ戻ってきた。犯人は相変わらず、巧みに念動力を振り回して一斉射撃に対抗している。
警察が仕留めてくれれば楽だったのに、とつい悪態をついてしまうシドだが、すぐに頭を切り替えた。こうなってしまった以上は手負いのローズマリーにもうひと頑張りしてもらうしかない。
「ずいぶん早いお帰りですね、先生」
その存在を確かめるかのように、ローズマリーが一歩寄り添い、そっとシドの背中に手を伸ばす。
「心配しましたよ、急に動きを止められてしまったものですから」
「あの力は危険すぎるぜ。冗談抜きで身動きがとれなかった」
それにしては妙な点も多い、と違和感を覚えたシドだったが、検証はひとまず後回し。今やらなければならないのは、目の前の無免許の魔導士――それもとびきりの貴重な魔法の使い手――の制圧だ。
先程から念動力使いの防御網をかいくぐった流れ弾が飛んできては、シドの【防壁】に衝突し、火花と耳障りな音を残してどこぞへと弾け飛んでゆく。
「大丈夫か、黒服君!? 弾が飛んできてるぞ!?」
「先生は一流の魔法使いですから、これくらいの銃弾はどうということはありませんよ、ダスター卿。大船に乗った気持ちで、今しばらく低い姿勢のままお待ちいただきたく存じます」
流れ弾が気になる様子のダスター卿を、小さく微笑ったローズマリーが有無を言わさず黙らせる。大変ありがたい弟子だ。
「身体の自由を奪われるのはさすがにまずいですね、シド先生」
「ああ。でも、アイツの能力の特性は見えつつある。今度こそ君の出番だ、CC。警察の射撃が止んだら、一気に飛びかかって勝負をつけてこい」
小さく頷いたローズマリーは、少し名残惜しそうにシドの背中から手を離すと、再び両手にトンファーを構え直す。傷がふさがったわけではないし、体を痛みが苛み続けているはずだが、何とか呼吸を整えて、一瞬のチャンスを伺う。
銃声が止み、盾代わりのテーブルが念動力の支えを失って床に落ち始めるその瞬間を、二人とも見逃してはいなかった。
「飛べ!」
シドが叫んだその瞬間には、彼女はもうその背後にはいなかった。
その場に残されたのは小さく短い気合の声と、塞がりきらない傷から流れた血の跡。
ローズマリーはドレスの裾を翻して、跳んだ。
直後、天井を力任せに蹴飛ばして反転し、高所から獲物を狙う猛禽類さながらに、犯人に肉薄して武器を振るう。
傷だらけの少女が今使いうる目一杯の【加速】、それに落下する勢いが加わった一撃の威力は申し分なし。風切り音と共に振るわれたトンファーは絨毯を裂き、大理石の床を砕いた。防御に長けたシドもおそらく受けるのが精一杯、並の魔導士なら昏倒間違いなしの一発だ。
だが、一撃を振るい、深い姿勢で着地したままのローズマリーを見て、シドは念動力使いが自分の予想を上回る動きを見せたことを悟ると同時に、自分の見込みの甘さを呪った。
ローズマリーが振るったトンファーの先に、念動力使いはいなかった。
未来でも予測したかのように、少女の必殺の一撃を大きく横に跳んでかわした犯人は、既に幾多もの刃を従えていた。
刃が狙うのは傷だらけの少女。跳んだ時に髪留めが外れたせいで髪が乱れており、その表情は伺いしれない。問題は、一撃を空振りし、しゃがみこんで項垂れたまま動く様子がないことだ。
――ここに及んで敵の実力を見誤るとは、なんてザマだ!
シドは自分の浅はかさに唇を噛む。
自分に相手を制圧する能力がないことは重々承知している。これまで依頼されてきた多くの任務でも、彼は盾役としての活躍を期待され、現にそのように振る舞ってきた。今回も、直接打撃を加える役を警察やローズマリーに任せつつ、魔導士としての経験を引っ張り出し、敵を制圧する策をひねり出す立場に回っていたのだ。
しかし、結果として、それら全てが裏目に出てしまっている。
犯人の意識を大扉から引き剥がし、警察をパーティ会場に突入させることはできたものの、彼らの射撃は全て防がれた。ローズマリーの決死の一撃も空を切った挙げ句に、逆に彼女の命が危険にさらされる始末だ。
状況は完全に、シドたちに不利だ。
今のシドは【防壁】を展開し、その背後に護衛対象二人を背負っている。依頼内容を一言一句厳密に解釈するなら、本来そこからは一歩も動けない。
だが、ローズマリーは彼の目の前で、犯人に狙われたまま動けないでいる。傷のせいか念動力のせいかはわからないが、どちらにせよ、身動きの取れない彼女はひっくり返されたカメよりも無力な状態だ。
かといって、警察の援護射撃もアテにできない。射撃をやめた直後の一瞬の攻防を見切った状況判断を、魔導士でない彼らに期待するのは酷というものだし、同士討ちを避けるため、状況が多少落ち着くまで発砲することもないはず。
敵の能力を見極めきれていない中で、タイムリミットだけが刻一刻と迫る。シドがいくら正しい選択をしようとも、それが間に合わなかったら、シド、ローズマリー、ダスター卿、ルルーナ嬢の誰か、もしくは複数が天に召されるのだ。
だったらもう、やることやるだけだ。後はどうにでもなれ――!




