4.5 最善の働きを
元気な音と振動を振りまくチンクエチェントとともに、万屋ムナカタ一行は順調に旅程を消化している。
国境近くの小さな街に入り、大きな橋を渡り、川沿いに少し上流に行くと、ほどなくパサート卿の別荘が見えてくる。川に面した崖の上に立つ、古風ながら実に立派な佇まいだ。
道中も時折抗議の声を上げていたクロは、到着してケージの口が開けられるやいなや、弾丸のように飛び出して穏やかな風に揺れる大木の上へ登っていってしまった。よほどチンクエチェントでの長距離ドライブがお気に召さなかったらしく、降りてくる気配がまるでない。
「あいつがクルマを嫌がるのはいつものことだし、使い魔なんだからどこぞへふらりと旅に出てゆく心配もないだろう」
やっぱり心配そうなローズマリーに、シドはお決まりの文句で応えてやる。黒猫が戻ってくるのをずっと待っているわけにもいかないので、二人はとりあえずそっとしておくことに決めた。
先に到着していたアンディに挨拶を済ませた二人は、警備部隊の待機部屋で仕事の準備を進める。
シドの役目は屋敷内全体の警備で、主に外部からの侵入者と対峙する。いつものラフでカジュアルな出で立ちとはかけ離れた、普段なら絶対に着ない黒のスーツとブラックタイに身を包めば護衛の黒服の一丁上がりだ。来客に素性がバレると面倒なので、伊達メガネと付け髭を身につけるのを忘れない。寝癖が治りきらないぼさぼさの頭は、整髪料で無理やり押さえつけ、絵に描いたようなオールバックにしてある。
普段の彼なら絶対にしないであろう格好。全く似合っていない自覚はあったシドだが、オールバックと髭を見た警察の面々に腹を抱えて笑われた挙句、いつもクールなローズマリーにまで吹き出されてしまっては、腹立たしげな表情を浮かべるのも無理もない。
一方のローズマリーはパーティ会場内の警護担当だ。普段はメイド服ばかりで、華やかな格好とは縁遠い彼女だが、パーティーの出席者に扮するとあってはそうも言っていられない。
婦警たちの手を借りて化粧をし、髪を飾り、華やかなドレスに身を包む。「せっかく可愛いんだから」「もっとおしゃれすればいいのに」と口々に言われるが、そのどれにも曖昧な返事しかしようがない。着せ替え人形扱いされるのにはいささか閉口したローズマリーだが、これも仕事、と言い聞かせて耐え忍んだ。
我慢のかいあって、地味なメイドの少女は輝きを放つレディへと華麗なる変貌を遂げた。
現にその姿を目にしたアンディは口をあんぐりと開けたまま言葉もなく立ち尽くし、シドに至っては割と大真面目に「おい、CCはどこへ言った?」と抜かす始末である。少女の育ちが悪かったらすかさず蹴っ飛ばし、あんたらの目は節穴かと小一時間罵っているところだ。
見る目のないシドとアンディは放っておいて、ローズマリーは準備を続ける。手荷物も最小限なのでトンファーの隠し場所には悩まされたが、結局は上着の内側に仕込むことで落ち着いた。違和感が拭えないのはしかたない、どうせ数時間の我慢である。
「似合いすぎててびっくりしちまったが……もう少し落ち着いた格好をしてほしいもんだなぁ」
「ふふっ……先生こそ、髪型もおヒゲもお似合いですよ」
照れ隠しに苦言を呈すシドに、いつものように言い返すローズマリー。もっとも、少女の反論は吹き出しながらなので勢いに欠ける。
「まあそういいなさんなよ、センセイ。花嫁より目立ってなけりゃ大丈夫だ。それに、今夜は上流階級の方々が集まるからね。地味過ぎてもかえって目立っちゃうよ」
シド自身の生活は一般市民とそう変わるものではない。そのあたりの機敏はよくわからないから、アンディ達の言うことを素直に聞く以外にはなかった。
しばらくの間オールバックとヒゲに腹筋を痛めつけられていたローズマリーも、いつの間にやらクールな表情を取り戻している。準備を手伝ってくれた婦警と「もう少し微笑ってみたら?」「無理です」と問答を繰り返している様はいつもの彼女だが、シドの首から上になるべく目線を向けないよう努めているのが何となく見て取れた。
シドが年甲斐もなくちょっとむくれるのも無理はない。
準備もいよいよ大詰め。
警察から渡された無線機等々を身につけると、担当者が全員集まり、アンディから訓示を言い渡される。警備任務にしては隊の規模もこぢんまりとしているが、政治家がねじ込んできた私事に割ける戦力などたかが知れている、とは指揮官の弁だ。
警察には話していないが、シドには隠し玉――使い魔がいる。さすがに屋敷の中に黒猫をウロウロさせておくわけにも行かないので、外を見張って異常があれば知らせるよう、前日に言い含めていた。いつもより車酔いがひどそうだったのは気にかかるが、彼女も百戦錬磨の使い魔、任務となればきっとちゃんと仕事は果たしてくれるはずだ。
打ち合わせ自体は事前に済んでいるので、ここで彼が話すのは最後の確認だけ。シドがぼーっと物思いにふけっているうちに終わったのだが、アンディが話し終えるタイミングを見計らったかのように、一人の男が婦警の制止を振り切って詰め所に入ってきた。
「困りますパサート卿、打ち合わせ中ですよ!」
こいつが依頼人か、とシドが向けた視線は不躾にも程があるストレートなものだったが、卿本人はそれを意に介す様子もなく、太り肉の体をのっしのっしと揺らして婦警を振り払い、アンディの元へ歩み寄ってゆく。
「必要なことはもう伝えてあるからいいけど……いかがなさいました、パサート卿?」
「これから護衛の任についてくれる諸君に励ましの言葉をかけたくてな!」
依頼人の手前、警察の面々が困ったような曖昧な笑みを浮かべることしかできない一方で、万屋ムナカタの面々は気を使うことなく不快感をあらわにしていた。オールバックの男はポケットに手を突っ込んで露骨に迷惑そうな顔をしているし、ドレスの少女の視線は氷点下という言葉が生ぬるく思えるくらいの冷たさだ。
だが、卿は良くも悪くも空気を読めないタイプの人間らしい。彼らの態度の変化なんてどこ吹く風、ムダに立派な体躯から必要以上の大音声を響かせて滔々と論じ始める。一同は決して報われない諦めの空気を漂わせつつ、長々と垂れ流される訓示に耐えなければならなかった。
さらに問題だったのは、その話がお世辞にも面白いとは言えないことだった。政治家なんだから人を引きつける話し方くらいできるのではという淡い期待が瞬く間に消えたことも相まって、シドはパサート卿の声すら苦痛に感じ始めていた。横目でローズマリーを見てみると珍しくあくびを噛み殺しているので、相当退屈なのだろう。
部下達と万屋ムナカタの面々が徐々にイラ立ち始め、キレそうになる気配を察知したのはアンディだ。「そろそろ作戦時刻です」と口を挟んでくれたおかげで、延々と話続けそうなパサート卿もようやく訓示を切り上げ退出していった。
やれやれ、とため息をついたシドは、隣のローズマリーが小さく「……無能」と吐き捨てたのは聞かないふりをした。普段は絶対そんなことを言わない彼女のこと、よほど腹に据えかねたのだろう。これくらいのワガママは大目に見てやらねばなるまい。第一、シドも少女と同意見である。
「後は締めるだけだったのに、余計な邪魔が入ったね。毒にも薬にもならない戯言は気にするな。僕らは淡々と仕事をするだけだ。何もなければそれで良し、何かあれば対応するまでだ。
では諸君、最善の働きを。解散」
場を締めたアンディは、仕事が始まる前だというのに少し疲れた表情だ。それもこれもあの日和見政治家のせいである。
それぞれが持ち場につく前に、シドはローズマリーに声を掛ける。
「大丈夫か、CC?」
「ええ。先生も、あまりご無理はなさらないでくださいね?」
「君こそ無茶だけはしてくれるなよ? なんかあったら俺を呼べ」
「私も子供じゃないんですから、一度言われればわかりますよ」
いつもどおりのお小言だが、少女の唇の端にはかすかに笑みが浮かんでいる。表情はクールだが、行きがけの車中で見せた固さはない。
「ん、じゃ、また後でな」
「はい、先生」
お供いたします、って言われなかったのはそういや初めてだなと思ったのは一瞬のこと。ローズマリーに背を向けたシドは、すぐに頭を切り替えて自分の持ち場へと歩きだした。




