12.32 やっぱり彼女は特別だ
「【加速】の話ですか?」
「大人の男抱えてあの速さで走るのは大したもんだけど、そのうちどっか痛めねーか心配だ。本当に大丈夫か?」
「エマ様にも同じこと聞かれましたけど、今のところ、本当になんともないんですよ」
目線をそらす、言い淀む、その他不審な振る舞いはない。最終的な診断を下すのは主治医だが、シドが見た限り、ローズマリーの言葉を疑う理由に乏しかった。
「ホテル・オリエントで俺を抱えて【加速】したときさ、あんたには世界がどう見えてた?」
「あの日は本当に、調子が良くて。普段なら風景がゆっくり流れてるくらいにしか感じないんですけど、こう、時が止まったというか、停滞したというか……」
やっぱり彼女は特別だ――。
【加速】で時間感覚を狂わされる。そんな経験、ローズマリーに出会うまで見聞きしたことはなかった。
彼女の手引きで駆けている間、シドは歪む一方の視界にただ怯え、耐え忍ぶばかり。時の遅滞めいた体験をできたのは、少女が足を止めた直後、ほんの刹那だけだ。彼の魔法のレパートリーにも【加速】魔法は並んでいるが、使い手としては弟子に遠く及ばない。
「動けなくなった俺とクロをハンディアまで連れてきてくれたのは、あんたなのか?」
「……さすがに違うと思います。お二人を連れて逃げようとはしましたけど、結局うまくいきませんでしたし……。その場にたまたま誰かが居合わせて助けてくれた、ってほうがまだ信じられます」
混乱と疲労の極みの最中、万屋ムナカタに降り掛かった、ハンディアへの空間転移。師をもってしても解釈に苦しむ現象は、ローズマリーをも当惑させる。年齢に似合わぬ言葉は、自信による裏打ちを欠いていた。
「もし仮に、あんたが万全の状態だったとしたら、俺たちを抱えてハンディアまで走れるか?」
「さすが無理です。この身一つだったとしても遠すぎます」
否定の言葉は、師の問いかけの終わりを待たずに飛んできた。【加速】魔法を鍛え研ぎ澄ましたローズマリーすら説明に困るのなら、シドに出る幕はもはやない。
それでも、彼女はにエプサノの惨劇の際、たった一人だけ遠く五〇〇キロメートル離れた地で見つかった実績がある。ホテル・オリエントに最後まで残った二人と一匹のうち、何かを起こせるなら彼女のはずだ、とシドも踏んでいるのだが、断じるには根拠が弱すぎる。術者当人もまだ気づいていない【加速】魔法の真髄が、彼らの知る理屈を超えた現象をもたらしているのかもしれないが、真相は未だ神のみぞ知るといったところだ。
「いずれにしても、ホテル・オリエントはもっと早く潰れても不思議じゃなかった。最後の飛行機の件は不可抗力だ。俺たちが持ちこたえられたのは、あんたが最後までしっかり走ってくれたおかげだ」
「シド・ムナカタの弟子として、当然のことをしたまでです」
万屋ムナカタ一同は、今後も荒事と無縁でいられないどころか、むしろより深いお付き合いになることが決まっている。人の生き死にを左右する場に立ち会うどころか、その当事者にだってなりうる立場だ。誰のいかなる死に様に出会うかはもちろん、誰かに最期を看取ってもらえるのかすらわからない。
これまでと違うのは、シドは弟子を育て、守る立場となった、という一点だ。自分だけなら野垂れ死んでもそれきりだと割り切れようが、今は違う。背負える面倒ごとの量も質も無制限とはいえない。そうなると、まずは降りかかる火の粉を最小限にしたいのだが、果たしてうまくいくかどうか。
「先生、引き続きのご指導、よろしくお願いいたします」
師の思いを知ってか知らずか、ローズマリーは碧眼の奥で、静かに情熱の火を灯す。
最終目標のために乗り越えるべき試練がくるかもしれない、とでも思っているのか、やる気のみなぎり方が病み上がりとは思えない。目標とやらが健全であればシドも全面的に応援できるのだが、彼女が魔導士資格を得て警察の一員となった動機は両親の仇への復讐心である。それを知っている師は余計なことを言わず、ただ短く頷くだけにとどめた。
「私たちはこれから、どう動くべきなんでしょうか?」
「それは今考えてる。あんたにもちゃんと頑張ってもらうから、あんまり無茶してくれるなよ」
そんな悩み多き彼を射抜く、金色の視線。
出どころは言わずもがな、先程まで狸寝入りに勤しんでいたはずのクロだ。少女に気づかれないように主の方をみると、実に楽しそうに笑う。
――弟子を心配して頭を抱えるなんて、ずいぶん立派な師匠じゃないか。
内心を見抜いたうえでからかっているのは承知しているが、事実なだけに反論できない。今のシドにできるのはせいぜい、腕を組んで渋い顔をし、ない威厳に無理やり下駄をはかせつつ、次の一手を思案するくらいだ。
彼の知る限り、魔法絡みの非常事態に対応しうる組織がもう一つあるはずだった。今のところ、そこが動き出したという噂は聞かない。あえて懐に飛び込んで胸の内を探ってみるのもアリか、とふと考える。
昔取った杵柄に頼るときが来たのかもしれない。