12.24 余計な希望を持たずに済んだのに
ホテル・オリエントで迎える、冬の午後。
シドは寒風に身を震わせていた。自分はなぜここに、と戸惑ったのはほんの一時。窓ガラスがことごとく砕け散ったエントランスホールを目にして、そういえば護衛任務中だった、と思い出す。
今、この場にいるのは彼一人だけだ。
ローズマリー、クロとともに行動していたはずだが、いつの間にかはぐれてしまったらしい。慌ててインカムに手をやっても触れるのは冷え切った耳だし、その先につながっていたはずの受信機は影も形もない。指揮担当のお小言も、警戒にあたっている魔導士からの情報も途絶えたままだ。気持ち悪いくらい静かなのには合点がいったが、自動車爆弾を相手にしている今、情報伝達と初動の遅れは致命的だ。
そういうときに限って、望まぬ来訪者は姿を見せる。
爆発の余波で濁った空気の向こうから、小型車が縁石を飛び越えてすっ飛んできた。風景や自分の動きがいやにゆっくり流れて見えるのは、命の危機が迫っているからだろう。弟子の【加速】魔法に触れてみたそれとは質が違う。
頼れるものは己の魔法のみと腹をくくったシドは、慣れた所作で【防壁】を発現させた。黒猫との【同調】がないから、魔力は当然透明だ。自身が生涯を通じて磨き上げ、絶対的な信頼を置く魔法のはずなのに、ことここに及んで急に頼りなく思えてしまう。全力疾走で向かってくるのが愛車と同型同色というのも、彼の神経をいっそう滅入らせていた。
しかし、心はどうあっても、繰り出す魔法に淀みはない。
【鉄壁】の魔導士という術者の二つ名に答えるように、【防壁】は真っ向からチンクエチェントを受け止めた。逃げ場を失った慣性力が、フロントバンパーとボンネットとラゲッジスペースをまとめてくしゃりと潰す。
シドとドライバーの目が合ったのは、その瞬間だった。
運転席に収まった銀髪の少女は、免許を取得できる年齢ではなかろう。青筋の浮かんだか細い両手でステアリングを握り、どうにか制御を取り戻そうとしているが果たせないらしい。まぶたは目尻も目頭も裂けんばかりに見開かれ、軽く衝撃を加えただけで眼球が転がり落ちそうだ。
助けて、死にたくない、なんとかして――!
紙のように白い顔でなされる訴えに、シドは応えることができなかった。
車すら潰す外力と、急激に体内で膨れあがった何かの板挟みにあった少女が、内臓も筋肉も骨も皮も区別できない破片へと変わる。チンクエチェントの内装や窓ガラスはもちろん、透明な【防壁】まで、熱でどす黒く焦げた血で染まった。
その惨事を目の当たりにしたシドの膝が、がくりと折れる。
酸鼻を極める現場に居合わせたのは初めてではないから、こみ上げる吐き気はどうにかやり過ごせた。彼の意思をくじいたのは、【防壁】すら突き抜けて襲いかかってくる呪詛だ。
どうして助けてくれないんだ、お前の力はなんのためにあるんだ、所詮お前ごときに人を救うことなんてできやしない、あのとき魔法を失って死んでいれば、あたし達は余計な希望を持たずに済んだのに――。
シドの心のどこかに思い当たる節があるせいか、怨み言への抵抗は鈍くなる。それを察知して図に乗った怨念は、足から順番に這い上がり、彼の身体から温度と自由を奪いはじめた。目指す先は、男性らしい相応の太さをした首だ。
気道と動脈を真綿で締め付ける息苦しさと、悪意のこもった外力による頚椎の悲鳴は、死ぬまでシドを苛み続ける。どこまでも、どこまでも、いつまでも――。
シドが目覚めたのは、首を折られる一歩手前だった。
脳の内側から針を刺されたように跳ね起きたまではよかったが、魔力【圧縮】の反動が遅れて牙を剥き、体のあちこちに痛みが走る。反射的に体を丸め、深い呼吸を繰り返して不快な疼きを収めてしばらく経ってからでないと、考えを巡らせる余裕が生まれなかった。
顔だけ動かしてぐるりと周りを見渡すと、壁も天井もカーテンも、はてはベッドサイドのテーブルに至るまで、気味が悪いくらいに白く清潔だ。油断すると方向感覚を失いそうになる。体を包むシーツも同じ色合いだが、こちらは肌に触れているぶん現実味がある。鼻を突くかすかな臭気、いつの間にか着替えさせられていたわからない検診衣、あちこちに巻かれた包帯とガーゼと目をやる過程で、なるほどここは病室か、と思い至った。もっとも、シドに担ぎ込まれた時の記憶はない。
――ローズマリーは無事か? クロは?
疑問が一つ明らかになれば、連鎖的に知りたいことが浮かび上がる。
折よく病室に誰か来たところだし、そいつにまずは事情をきこう。そう思い立ったシドは、入ってきたのっぽのメイドと目があい、言葉に詰まってしまう。別に彼が重度の人見知りとか、ましてや無闇矢鱈に惚れっぽいというわけではない。そこにいたのは知り合い――シドたちの主治医であるエマの右腕、アリーその人である。
主人に付き従い、特別な用事のない限り医療都市から出てこないはずの彼女が、なぜここにいるのか?




