12.23 絶対に、三人で、帰るんです
「先生……先生?」
漠然とした不安に駆られたローズマリーが、かたわらの師に声をかけても返事はない。ガス欠らしく、呑気にぐーすか寝息を立てている。脇腹をこっそり小突いても反応に乏しい。黒猫も似たようなもので、耳がピクリと動いたり、もさりと尻尾が踊ったりするけれど、それは返事ではなくただの反射だ。
少女が再び仰いだ空に、重い風切り音がごうとこだまする。黒猫なら優れた聴覚で正体を捉えられたかもしれないが、あいにくそれは叶わぬ望み。ローズマリーは重さの残る体を押してあたりをうかがおうとする。
途端、手の中のインカムで大人たちが絶叫しはじめた。
[おい、CC、センセイ!]
「ど、どうしました?」
[緊急事態だ! とっととそこから逃げろ!]
一切の緩みのないアンディの言葉に、少女は疲労など忘れたように立ち上がり、反射的に背筋をぴんと伸ばす。
[旅客機が制御を失って突っ込んできてる! ホテル近郊に墜落する可能性が大だ! 今すぐ離れろ!]
ぞくり、と少女を震わせたのは恐怖か、明らかに近づきつつある風切り音か。彼女の耳でも、音の出どころははっきりわかりつつあった。
真上だ――!
もう一度空をに目を転じれば、ねじ曲がった翼を末端から徐々に崩壊させつつ、限りなく鉛直に近い角度で堕ちてくる双発機を拝めただろう。
でも、今のローズマリーにはそんな余裕も勇気もない。警部の言う通り、今は一も二もなく逃げなければ、努力も未来も水の泡だ。
[そこのねぼすけを叩き起こせ! 魔法でなんとかしてみせろ!]
「先生、起きてください、先生!」
[飛行機が落ちてきてるってのに呑気に寝てんじゃないよ!]
アンディががなり立てるイヤホンを当てたところで、暖簾に腕押し、糠に釘。肩を揺さぶろうが頬を張ろうが、シドの反応は薄目を開けるか中途半端に声を上げるくらいで、覚醒とは程遠い。黒猫は文字通り精根尽き果てているらしく、人の気も知らないですやすや寝息を立てている。
動けるとしたら年若いローズマリーしかいないが、その手足は鉛よりも重い。まるで走る動きを思い出すことすら拒んでいるようだ。迫りくる危機は少女の心を折らんとのしかかり、事態を打開しうるのは自分だけという使命感だけがいたずらに空回る。
「俺はいい、逃げろ」
心身の空白から少女を引き上げたのは、師匠のうわ言めいたつぶやきと、それに対する反発だった。
「嫌です」
今のローズマリーに残された魔力は、乾いた雑巾に含まれた水分といい勝負。どんな魔法を使うにしても、爪に火を灯すような有り様だ。眠りの水底にたゆたうクロを抱え、逃げろと力なく繰り返すシドに肩を貸して何とか立ち上がるが、その足腰には生まれたての子鹿ほどの力もない。横からつつけば、しくじったジェンガのように崩れ落ちそうだ。
「絶対に、三人で、帰るんです!」
少女の震えはスーツに包まれた細い足にとどまらず、師と黒猫を支える腕にまで及ぶ。自分の【詠唱】が声の形を保てているかどうかすら、もう判断がつかない。
――待つんじゃない、鳴らすんだ、あの音を!
それでも、【加速】と高速機動は彼女の十八番。たとえ魔力が枯渇したとて足は止めない。
その覚悟で蘇ったローズマリーは、
――かちり。
頭の中を吹き抜ける、研ぎ澄まされた魔法へと至る福音を、確かに聞いた。
踏み出された少女の右足は、拍子抜けするほどにそっと接地する。蓄積した疲労の色も、気負った力感もない、穏やかな一歩だが、ここから距離を貪らんとする加速が始まる――はずだった。
少女の意図は予期せぬ形でくじかれる。
限界を迎えたのは体ではなく、おろしてそれほど経たないパンプスだった。
前に進むための力は明後日の方向に逸れ、ローズマリーを師匠や黒猫もろとも引きずり倒す。受け身も十全にとれず、強かに体を打ちつけた少女にはもう、力を絞り出すための力が残っていなかった。卓抜した【加速】魔法の使い手は、いまや一人で駆けることすら叶わない。
「……嫌だ」
火炎と黒煙を撒き散らしながら迫る旅客機を碧眼に映してなお、彼女は三人で帰る未来を諦めきれない。
「お願い、助けて、――」
瞳を濡らすことすら忘れたローズマリーは、ただただ懇願し、祈る。そうすれば一抹の奇跡と巡り会えるとでも信じているように。
そんな願いも、理不尽な暴力の前では風前の灯と同じ。シドやクロはおろか、当人の耳にすら、届くことはなかった。




