12.22 それはわかっていますけど
街で嫌というほど目にする三ドアの大衆車、ポップスの歌詞に出てきそうなピカピカのスポーツカー、社用車と思しきくたびれたライトバン、目に鮮やかな黄色のタクシー、どこぞの若社長が美人秘書を連れて降りてきそうなリムジンに、大手運送会社のロゴが睨みをきかせた小型トラック、などなど。ホテル・オリエントに飛び込んできた自動車は、実にバラエティに冨んでいた。
これが平時であれば車好きのシドもご満悦なのだが、あいにくどれもこれも暴走した自動車爆弾である。放っておけば自分たちの命が危うい。
――ならば己の魔法をもって爆発を飲み込むまで。
そう決意したシドは、ホテル・オリエントを護るため、弟子に――適材適所とはいえ、情けない画なのは自覚している――抱えられながら駆け続けた。本館一階に、万屋ムナカタの三人が未踏破の場所はない。従業員すら恒常的に立ち入らない室もあるから、事態が小休止を迎えるよりもずっと早く、二人の一張羅と一匹の毛皮は埃まみれになっていた。
ローズマリーに導かれたさきで、シドと黒猫が【防壁】を発現し、突っ込んでくる自動車爆弾を受け止めて自壊に追い込む。ホテルに襲いかかる車両とそのドライバーを葬る繰り返しは、彼から体力だけでなく、逝く者への餞の言葉さえも奪ってゆく。衝撃で車体ごと押しつぶされたドライバーが、灼熱に断末魔を上げながら事切れる一部始終は、普段と違う黒い魔力のおかげで弟子から秘されている。それが不幸中の幸いだった。
[センセイ、センセイ! 無事か?]
ローズマリーにぐいとネクタイを引っぱられるまで、シドはしばし我を忘れていた。自らが振るう【防壁】と、弟子の【加速】による時間感覚への揺さぶりで、心身が予想以上に消耗していたらしい。
腰を曲げた彼の耳に降り掛かってきたのは、消防と警察と救急によるサイレンの三重奏に、行き場をなくしたクラクション、混乱に惑い叫ぶ人々の声と、危機を訴える音の集合体だ。一度に受け止めるには重すぎて、シドは反射的にこめかみをおさえる。それら出どころは、そばに寄り添ったままのローズマリーが押し付けてくるインカムだ。
[返事しろよ、センセイ!]
「……やかましい。生きてるよ。ローズマリーもクロも無事だ」
肩の上の相棒は、健在ながらも元気とはいい難い。憎まれ口の一つも叩かず、猫背をさらに丸めて船を漕いでいる。そんなクロを見てようやく、シドは【同調】が機能しなくなっていたことに思い至った。
[結構。館内は宿泊客も、会見の出席者も避難済み。監視部隊も、ベラーノ女史を殿に撤退完了の連絡があった。ずっとそっちに声かけてたけど、通信、切れちまってたかい?]
「インカム、落っことしたみたいだ。今はローズマリーのやつを借りてる。周りはどうだ?」
[現状、自動車爆弾とそれに類する反応なし。センセイたちも急ぎ撤退を始めてくれたまえ]
「そうしてーのはやまやまなんだけど、さ」
【同調】して高階梯の魔力【圧縮】を繰り返し、自動車爆弾による被害を力でねじ伏せたシドとクロ。
今できる精一杯の【加速】魔法で駆け、師を支え続けたローズマリー。
心身ともに疲労困憊の三人は、誰から言いだすわけでもなく、一歩、また一歩と、ホテル・オリエント自慢の庭園の隅を目指す。先程まで駆け回っていたのが嘘のように足取りが重く、腹を空かせたゾウガメにすら同情されそうだ。
少しでも空気の良いところへ――。
どうにか無事な芝生を探し当てた一同は、まるではじめから決めていたかのように、その場に倒れ込む。
仰向けに寝転んだローズマリーの肩にはシドの腕が回されたままだし、ピタリと寄り添う弟子を疎んじる師匠もいない。その様子をみたら真っ先にからかっていたであろう黒猫は、いよいよ気力が底をついたか、飼い主のそばで丸まってしまった。
[センセイ? ……おい、大丈夫か?]
「すいません、アンディ警部。シド先生はもう限界みたいで、代わりに私が」
[マジか? CCは動けるのか? 連れてこれるかい? あんまり長いことそこに残るのもまずいだろ?]
「それはわかっていますけど、私も、正直」
アンディの希望に答えたいローズマリーではあるが、さすがに今すぐは無理だ。細身で力のない彼女は、魔法なしには師を連れて帰れない。まずは一度切れた気持ちをつなぎ直すところからやり直す必要がある。
イヤホンを手の中に収めたまま、少女は師匠にならい、ビルに切り取られた空を見上げた。いつもと同じ冬の青を、サイレンがひっきりなしに行き交っている。ホテル・オリエントこそ、シドたちの活躍で被害を食い止められたが、ほかの地区はそうもいかない。同時多発的に自爆テロに見舞われ、黒煙と炎になぶられている市内各地を鎮圧するべく、軍が動き出すのも間近だろう。
シドの祖国に比べれば、イスパニア王都の治安は格段に悪い。それでも、平穏と称して差し支えない状態がどうにか保たれてきた。それは今や、予期せぬ一突きで崩壊の瀬戸際に立たされている。乱れた日常はいかほどの時間をかければ元に戻るか、そもそもそんな日がやってくるのか、年若いローズマリーにはまだ想像がつかなかった。




