12.21 ゆっくり流れて見えるんです
少女は師の左半身にピタリと寄り添ったまま、腰に力強く右腕を回し、一人で行くことを許さない。それどころか、左肩に回されていたシドの手を、ダメ押しとばかりに掴む。
「先生とクロちゃんで【防壁】に集中してください。【加速】は私が担当します」
「本気かよ?」
「冗談でこんなコトしません」
銀髪碧眼の少女が黒髪の成人男性に肩を貸す、傍から見たら情けない絵面を想像したシドの抵抗などお構いなし。弟子はこれぞ妙案とばかりに小さく口角を上げ、返事を待たずに詠唱を始める。
「【右手に銃を、左手に花束を】」
[来るぞ! ムナカタ!]
ノイズ混じりの大人達の悲鳴を聞いたとて、少女は微塵も曇らない。
「【我が心に不屈の炎を、復讐するは我にあり】」
薄く、整った形をした、ローズマリーの唇。師のそれとよく似た詠唱は、本気で魔法を使う意思の表れだ。青い瞳も、一途に進むべき方角を見つめている。
――私があなたを信じるように、あなたも、自分の弟子を信じてください。
シドは確かに鈍い。
でも、ローズマリーの覚悟を汲み取れないほど愚かと言われれば、違う。
「……頼んだぜ」
「私の本気、お見せします。――【加速】」
自分の中で魔法の感覚が変わった。ローズマリーは以前、確かにそう言っている。
凡人と何が違うかお手並み拝見、とばかりに弟子に身を委ねたシドだが、できていたつもりの心の準備はあっけなく裏切られた。
浮遊感が彼の体を包んだ直後、視界が歪む。
シドの中で一番近い経験を挙げるなら、安酒を数本立て続けに煽ったときの酩酊感だろうか。ホテル・オリエントの廊下も、逃げ惑う人々も、目に映る全てが前衛的な飴細工のようにねじれたかと思えば、瞬く間もなく後ろへと押し流されてゆく。
脳の血流まで影響を受けているのか、弟子の【加速】に導かれた彼の回りの世界から、色すらも徐々に抜け落ち始めた。身に起きた異変に耐え忍ぶので精一杯、術者自身に何が起きているかまで気に留めてはいられない。食いしばった歯の隙間から苦悶が漏れる。
そんな【加速】とて、永遠ではない。
シドを苦しめた視界の乱れは、地に足がついた感触を合図に、突如終わりを迎える。
悪い白昼夢から冷めた彼が最初に見たのは、いかにも湿度が低そうな空だった。扉を失った正面玄関に切り取られた青は、冷たい空気も相まって、どこまでも突き抜けていきそうな爽やかだ。
だが、その足元に控える危機を前にして人心地ついたなんて思えるほど、彼もお気楽ではない。ホテル・オリエント周辺では、砕けたガラスがそこかしこに撒き散らされ、冬の陽光を跳ね返す。本館にしろ新館にしろ、残った窓を数えたほうが早そうだ。
ロビーから表に出て、ちらりと新館の方に眼をやれば、ワンボックスカーが盛大に火の手を上げている。先ほどの揺れの震源は新館前に間違いない。
「【加速】!」
「【圧縮・第五階梯】!」
師弟の間に目配せなど不要。少女はいつでも駆け出せるように備え、師と使い魔が硬い【防壁】で敵を迎え撃つ。
本館正面へ躍り出た万屋ムナカタを襲うのは、緑のクーペだ。スキール音と共にロータリーを突っ切り、不運にも場に居合わせた物言わぬタクシーを跳ね飛ばしながら、スロットル全開で迫りくる。
――これが、この娘のみている世界か?
ローズマリーの【加速】の只中にいるせいか、危機的状況に追い込まれているからか。シドの見ている風景には乱れこそないけれど、時間がやけにゆっくりと流れるように感じられる。
度重なる衝撃でボコボコにへこみながらも、あたりの木々一本一本を映し出すクーペのボンネット。石畳とホイールの間でねじれるタイヤ。外れかかったフロントバンパーが散らす色鮮やかな火花。そして、目をあらんばかりに見開いたまま、運転席で身動きを取れずにいる若いドライバー。それらをつぶさに眺めるというのは、シドも初めての経験だ。
この子供は、今際の際で、何を思う――?
引き伸ばされた時の中で沸き起こる慈悲と、同情と、憐憫は、一瞬にして漆黒に飲み込まれた。
箸使いと同じくらいに使い慣れた【圧縮】は、使い魔との連携でより冴える。クーペを包みこむ黒い棺桶の中では。炭化水素燃料が生む葬送の豪火が車体と若者の区別なく圧し砕き、鉄も骨もまとめて溶かし尽くすさまが、外界に漏れ出ることなく完結する。
「……これも仕事だ、悪く思うなよ」
使命を果たした球体は、やがて自ら収縮し、虚空へと消える。
連合王国製のクーペも、ステアリングを握っていた若者も、辿るのは同じ運命だ。後には消し炭一つ残らない。シドのつぶやきを聞けたのは、そばにいる弟子と、肩に乗った黒猫、ただ二人だけだった。
[ムナカタ、今度は新館の南側!]
「秘書殿はずいぶん人使いが荒いね」
差し迫った危機は、感傷に浸る暇すら与えてくれない。
自動車爆弾の情報が押し付けられたと思ったときにはもう、シドの腰を抱えたローズマリーが目一杯の【加速】で駆け出している。駆けている間は、やはり世界の色や形が釈然としない。寄り添ったまま駆ける少女と肩の上の黒猫から温もりだけは伝わるから、一人取り残されている感覚が薄いのは幸いだ。
「先生、目は大丈夫ですか?」
「ダメだ」
「そうですか。でもそのうち慣れますよ。私も、これくらいの【加速】だと慣れるまで少しかかります。手元が狂うまではいきませんけど、影響がないといったら嘘ですね」
にわかには信じがたいが、現に少女の足取りは力強い。今のシドに見る術はないけれど、真っ直ぐ前を見つめる横顔にはきっと陰りもないのだろう。ここはローズマリーを信じる。
「詠唱して深度を上げたときに、頭の中で歯車が噛み合うような音がすることがあるんです。それが聞こえた時の【加速】は違います」
「具体的には?」
「世界が、止まる一歩手前くらいの速さで、ゆっくり流れて見えるんです。ちょうど今みたいに」
シドが歪んだ世界に惑う一方で、ローズマリーは凍りついた時の中、高揚感を包み隠さず語る。普通と違うのは、話題の核がファッションやデザート、夢中になっている映画俳優ではなく、商売道具――魔法ということだけだろう。復讐のために魔法を学ぶ後ろ暗さは秘されている。
――ローズマリーは【加速】魔法を超えた領域に足を突っ込みかけているのではないか?
少女に何が起きているのか、師として把握しなければいけないのは山々だが、今はその時期ではない。まずは敵の攻勢を凌ぎきり、生きて帰るのが先決。そもそもシドは【加速】に視界を揺さぶられて余裕がないし、肩の上の相棒も踏ん張るので手一杯なのか、余計なおしゃべりが鳴りを潜めている。
「終わりが見えねーのは厄介だけど、持ちそうか?」
「どうにでもしてみせます」
「結構。君が走ってくれりゃ、後は俺がやる。頼んだぜ」
明確に芯のある返事とともに、魂ごとに置いていかれそうな推進力が生まれる。
シドを然るべき場所に導いてくれる、信じられないくらい細く小さいローズマリーの肩と背中が、今はこの上なく頼もしかった。




