12.19 迎撃に回る
[屋上監視班より一同へ、西方市街地より黒煙!]
魔導士のささやかな願いを台無しにしたのは、かすかに震えはじめた窓ガラス、次いで耳に飛び込む報告だった。
無機質な通信品質に弟子や淑女たちが会場内の警戒を強めるのと、シドがあくびを無理やり飲み込んだのはほぼ同時だった。当初の打ち合わせ通り、彼は中を皆に任せ、中庭から外の様子を伺う。
[二、いや四に増えた。距離推定二から三キロ。東側でも別の黒煙]
[司令本部より一同へ、テロ想定、各自警戒態勢へ]
「ちっと待て、なんかこっち来るぞ!?」
アンディが指示を出し切る前に、シドの視界の隅に黒い塊が飛び込んでくる。
年季の入った漆黒の高級セダン、というだけならまだいい。問題は黒煙と火柱を盛大に撒き散らしながら、ホテルと庭園を囲むレンガ塀を飛び越えてきたことだ。地を駆けるために生を受けたゆえ、自力で翔ぶための機構を備えていないはずの乗用車が、走り高跳びの選手さながらに、軽々と宙を舞う。
誰もが唖然と見つめる先で、セダンは腹を無様に晒しながら、ゆうゆうとホテル・オリエント本館を飛び越えていった。
爆発物を積んではいないか、そもそも燃料の残りはどうかなどと、考えを巡らせている暇はない。会見場は当座の危機を乗り越えたけれど、火の玉が飛んでいった先は虚空ではないのだ。このタイミングでは手の施しようがない。
そうわかっていながらも、シドは叫ばずにいられなかった。
「逃げろ!」
伝承の一節にある、高き塔を破壊したとされる雷。それを連想させる揺れを前にして、セダンとその行く先が迎えた最期に想いを巡らせられるものなどいなかった。
ホテル・オリエントが、本館と新館の区別なく、駆体の真芯から震えあがる。中で飽和するのは、壁と床と壁が仲良く軋む不協和音、何が起こったかわからず惑う老若男女の悲鳴だ。
[自動車爆弾? 自爆テロかよ!?]
「とっとと逃げりゃいいものを……!」
非常事態の最中にあっても、会見場に居合わせたマスコミ一同はたくましく、成果に対して貪欲だ。
重力の誘惑に今にも負けそうなシャンデリア、やかましく震え続ける窓ガラス、スピーカーから流れる緊急放送サイレンなんてどこ吹く風。スクープの一番槍は我のものとカメラマンがレンズを縦横無尽に振り回せば、新聞記者は椅子の上で踏ん張りながらペンを走らせる。ニュースキャスターたちも慌てて現況を伝え始めるが、原稿なしかつ身に危険が迫っているせいか、言っていることは支離滅裂の一歩手前だ。
「迎撃に回る! アンディ、バカどもの誘導は任せた!」
[よろしく、センセイ]
警備から一転、避難誘導へとその任を転じた警察と、不必要に仕事熱心な報道陣の間で、小競り合いすら起きはじめている。
そんな会見場を尻目に駆け出したシドは、扉を蹴飛ばして庭園に躍り出た。
守りに長けた魔導士ができること、やるべきことは、避難完了までの時間稼ぎ――。
そう割り切った彼にとって、報道関係者はもはや夾雑物以下の存在。表へ駆け出す道すがらに、三人ほど跳ね飛ばしても気にしない。セダンが果たせなかった本懐を継ぐように中庭に侵入し、噴水を叩き割ってかっ飛んでくるハッチバックと比べれば、それくらいは些事だ。
先達にならって炎上しているのも悪いが、低い軌道はなおまずい。放っておけば記者会見場に直接突き刺さり、地獄絵図の一丁上がり。シドに指せるのは魔法で不届き者を抑え込む一手なのは言うまでもない。
「【右手に銃を、左手に花束を】」
本音を言えば、使い魔と連携して盤石の構えで立ち向かいところだが、あいにく気配を感じない。ならば一人で受けきるまでと覚悟を決めるより早く、彼の体は勝手に詠唱を始めている。
「【その唇に誓いの詩を、去りゆく者に餞を――】」
その両手から放たれた可視光外の色に染まる魔力が、術者の意に呼応し、陽炎のように揺らぎながら一処にまとまったのもつかの間、
「【圧縮・第四階梯】」
明瞭な境界をもつ、透明な壁へと姿を変え、燃え盛るハッチバックに立ちはだかる。
低弾道で飛来した勢いをもってしても、シドが発現した【防壁】――高密度に【圧縮】された魔力の塊――は砕けない。火炎や黒煙に留まらず、果ては運動エネルギーに至るまで、魔力がまとめて包みこむ。
記者もアナウンサーが感嘆の声もなく見つめる、ホテル・オリエントの庭園。そこに漂うのは、火球を封じた直径数メートルの透き通った溶鉱炉だ。壊れた噴水からとめどなく放たれる水柱からこぼれ落ちた水滴が、魔力の球に触れた端から、蒸気へと転じて冬の空気へと散って消える。
だが、件のハッチバックもまた、可燃物をたっぷり呑んでいたらしい。ガラス細工を思わせる【防壁】の球体の中で、膨大な化学エネルギーが瞬時に熱と圧力へ変貌し、シドの抵抗を嘲笑う。
急激に膨張した火球に、彼の魔法は内側から喰われ、焼失した。
爆風の勢いを削ぐことはできても、被害を避けるには至らない。会見場と庭園を隔てていた窓ガラスは、無数のヒビで真っ白に染め上げられたのもつかの間、風圧で叩きつけられたシドのせいで砂上の楼閣のごとく崩れ、ただ光を跳ね返すだけの不定形の粒に堕ちた。




