12.12 あんたもちっとは手伝えよ
「やれやれ、正月から騒がしいったらないね」
ローズマリーが一旦席を外した間に、黒猫はソファの下からのっそり這い出すと、大義そうに伸びをする。
部外者がいるときは万屋ムナカタの看板猫として振る舞う彼女は、いざとなれば使い魔としてシドとローズマリーを支える。最も、主人に対して軽口を叩く点は普通と言えないのだが。
「こないだはちびっこ姫様、今日はアンディ君か。ずいぶん人気物じゃないか」
「もっと平和に暮らしたいんだけどな」
アンディの持ち込んだ依頼をいったん棚上げにしたシドは、代わりにキャビネットからバインダーを引っ張り出す。つい数日前、エマが置いていったものだ。
「ずいぶん勉強熱心じゃないか」
「医学とか薬学とかは専門外だからな、知ってんだろ?」
「どれ、ひとつ、ボクにも見せてごらんよ」
ひらりと主人の肩に飛び乗り、書類をひとしきり覗き見たクロは、ちょっと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「シド君、これくらいさくっと理解できないでどうする?」
「うるせーな、あんたはわかってんのかよ」
「さっぱり。君たちだけが頼りなんだよ」
魔法に関しては深い経験を持つクロも、科学が絡むとお手上げらしい。理解を諦めて開き直ると、シドの肩にうまいこと座り、なぜか偉そうに胸を張る。
「それはそうとシド君」
「あんだよ」
「お嬢さんについて、どんな心配してるか、ちょっと聞かせてみなよ」
さっきまでじっとしていたのが嘘のように、黒猫の動きは忙しない。今度は主人を踏み台にし、テーブルへ音もなく飛び乗った。ローズマリーが去った先に向けられた金色の瞳は、すべてを見通しているかのようだ。
さてどう話そうか、シドは少し考える。彼女は百戦錬磨の使い魔。飽きっぽいところが玉に瑕だが、借りる猫の手としては最良のものだろう。
「ローズマリーのやつ、炎を見て固まっちまったって言ってたよな?」
旧市街でボニーを相手取る直前、爆発事故の現場に赴いた少女に起きた異変のことは、シドも報告を受けている。
物言わぬ人々を舐める炎、立ち昇る煙に何かの爆ぜる音に、空気を侵食する血生臭さと焦げ臭さ。それらを前にして、ローズマリーは完全に足をすくませ、自分を見失ったのだ。年若く修羅場の経験が浅いから無理もないが、逃げることすら忘れてしまうのでは命に関わる。
「むごたらしい現場で足止めちまったのか、そうでなけりゃ……」
「エプサノの件が尾を引いてる、とでも言いたいのかい、シド君?」
万屋ムナカタ誕生の遠因となった事件で、少女は両親とともに火災に巻き込まれている。炎に対して心的外傷を抱えている可能性は大いにあった。彼女が警察の、そして万屋ムナカタの一員である限り、荒事と惨劇の現場から逃れられない。体の自由が効かなくなるほどの心の傷は急所だ。
でも、クロはそれほど深刻そうにみえない。猫ゆえもともと楽天的な性分ではあるけれど、本能に引きずられて本質を見誤ってしまうことはない。
「CCが火に対して苦手意識を持ってる、ってのはそのとおりだと思う。でも心的外傷とまでいくとどうかな……? ボクも姫様じゃないから断言はできないけど、君ほどは心配してないつもりさ。気にはなっている、ってくらいかな」
「その心は?」
「まず、活を入れたらちゃんと立ち直った。ボクが荒療治したのは確かだけど、CCは自分を取り戻して、現場に残ると決めた。【熱線】ぶん回すあのチンピラ相手に、君が来るまでの時間を稼いだ。自分の【加速】より速い光、それも初見の魔法だけど、臆することなく堂々と渡りあってる」
茶化すこともなく、淡々と、クロは忌憚のない意見を口にする。周囲の気配にはもともと敏い彼女は、シドたちが真剣な態度であればそれに応じ、時に緊張が行き過ぎれば圧抜きに回りと、陰日向に二人の魔導士をを支える。そんな使い魔の性格を知り抜いている主人は、余計な口を挟まずに先を促す。
「そして、あの娘のおかげで、ボクらは冷めたメシを食わずに済んでる。日常生活に支障が出てないってことは、まだ十分引き返せる余地があるって思っていいんじゃないかな?」
クロの猫らしい能天気さが、時にシドを支えているのも事実。自分より長きを生きる黒猫に、魔導士は素直に従うことにした。
「……そうだな。今回はあんたの言うことに分がありそうだ」
「やだなぁシド君。今回も、さ」
不服そうに口を尖らせるクロをなだめながら、シドはこれから先、ローズマリーとどう向き合うか考える。
多少なりとも炎に苦手意識をもつなら、それを克服する手伝いをしなければならない。主治医と相談してから決めることではあるが、少女の人生の転機となった事件――エプサノの惨劇に再び向き合う可能性は高そうだ。シドにとっても人生を大きく狂わせた一件であり、知らず知らずのうちに避けていたのだが、いよいよそうはいってられない時が来たらしい。
今のところ、あの事件の真相は明らかになっていないが、惨劇の犯人がローズマリーの仇敵とだけはわかっている。もし、彼女がそこにつながる道を嗅ぎつけたら一も二もなく飛びつき、シドたちを振り切って後ろ暗い道へと邁進するのは間違いないだろう。やるなら慎重に、計算高く、弟子に悟られぬよう、コトを進める必要がある。
「上手いことやんな。いい結果になることを祈るよ」
「あんたもちっとは手伝えよ」
|捕まえられるもんならやってみな《Catch me, if you can》、とばかりにシドの手をすり抜けたクロは、ふたたび彼の肩を踏み台にして大跳躍を見せる。降り立った先はキャビネットの上。難しい顔で黙り込むシドをよそに大あくびをした黒猫は、香箱を組んでウインクして見せる。なるようにしかならないよ、とでも言いたげに。




