12.7 自分でできることは、力を尽くしたい
シドの我慢の時間は、想像よりも早く、終わりを迎える。
高々と皿を積み上げて戦果を誇示し、浴びるようにコーヒーと紅茶を飲んでいたエマが、突如弾かれたように立ち上がった。時を同じくして、丸まっていたはずのクロが顔を上げ、鋭く鳴く。
車が近づいているようだ。
締め切った窓ガラスごしに伝わるのは、排気量にも車室にも余裕をたっぷり持たせた高級車特有の鼓動。聞き覚えのあるエンジン音が、万屋ムナカタの前に鎮座する。
「まずい!」
直後、エマはアタッシュケースに荷物を詰め直す。行きがけの駄賃とばかりに、ガトーショコラ数切れを熱々のコーヒーもろとも流し込むのを忘れない。
「ど、どうなさったんです、エマ様?」
「アリーが迎えに来おった! 予定より相当早い……!」
風雲急を告げる、そんな空気を醸し出すエマだが、なんのことはない。彼女の専属メイドがやってきた、というだけの話である。
だが、アリーは単に付き従うだけの存在にあらず、理に外れた行動に出た主人を諌めることもしばしばだ。高飛車な言動が目立つエマも、説教モードの彼女を前にするとなぜか手も足も出なくなるのだ。
「それなら、ご一緒にお茶でも……」
「たわけ! こんなにお菓子を食うたのがバレてみろ、何をされるかわからんわ!」
「自分で届けさせて自分で食ってんだから自業自得じゃねーか」
今のエマは魔導士たちの想像以上に余裕がない。玄関に続く扉を開けたところで理不尽な一喝を食らったローズマリーは、目を丸くしたまま固まってしまう。その横を、ダッフルコートとアタッシュケースを小脇に抱えた幼女が器用にすり抜ける。
「では諸君、さらばじゃ!」
にこやかに見送りを断ったエマが客間を辞したのも束の間、玄関の方から絞め殺されるニワトリのような声が響く。見えないところで繰り広げられる阿鼻叫喚の詳細はさておき、このあと客間に何が飛び込んでくるか、三人とも思い描く絵は同じだ。
「エマ様が大変失礼を……っ!」
大方の予想通り、真っ白な顔をしたのっぽのメイドが、主人の首根っこを掴んで姿を表した。ひたすら恐縮しながら主人共々詫びる姿を見ていると、彼女の日頃の苦労が忍ばれ、怒りよりも同情が先に立つ。
アリーをなだめるのにしばしの時間をかけたシドたちは、ひとまずの落とし所として片付けの手伝いを頼み、それが済んだら早々にお帰りいただくことにした。得るべき情報は得られたのだから、まずは嵐をやり過ごして一息つきたい、というのが本音だった。
「あんだけ甘い匂いさせて、バレねーほうがむしろ不思議だろうに……カレン、ローズマリー、ご苦労さん」
「私も、この一杯をいただいたらお暇します」
「残りの片付けを済ませます。必要なものがありましたらお声がけくださいね」
ローズマリーが台所に引き返すのを確かめたカレンは、どういうわけか少し低めの声で話しかけてくる。シドが少し身を寄せないと、うっかり聞き逃してしまいそうだ。
「魔法使いもどき捕縛の件、本当にご苦労さまでした」
「なんだよ、改まって」
「一番嫌な魔法相手に、大立ち回りなさったんでしょう? アンディ警部からも伺っています」
カレンの言う通り、ボニーの繰り出した【熱線】は、シドにとって面倒この上ない魔法だった。シドの魔力波長は可視光外、すなわち透明で、【熱線】のような光学系射撃魔法は透過してしまう。屈折させてその場を凌ぐのが精一杯だ。ビアンコ率いるマフィアがおらず、万屋ムナカタだけでボニーの相手をしていたら、さらなる苦戦を強いられていたことだろう。
「【鉄壁】の魔導士の名は伊達ではありませんわね」
「よせやい」
カレンにしてみれば、三人が困難を乗り越え、欠けることなく帰ってきたことが重要なのだろう。裏表のない賛辞を贈るばかりだが、シドの顔に浮かぶ苦さは拭いきれない。
ボニーの蛮行は、人的にも、物的に多大な被害をもたらしている。旧市街で起こした爆発は無辜の市民の命をいたずらに奪っただけでなく、歴史の重みごと街並みを吹き飛ばした。街がいつかもとの姿に戻ったとしても、過去と未来の間には明確な断絶が残る。黄泉の国へ旅立った者たちもまた然り、だ。
「アンディに泣きつかれたとはいえ、首突っ込んじまった以上はなんとか目処つけたいとは思ってるんだけどな。ままならねーもんだよ」
今のシドの関心事は二つ。魔法使いもどき事件の行く先もそうだが、ローズマリーをこれからどう導いていくかも重要だ。
彼女が万屋にやってきて、次の春で丸一年。成長著しい若人をさらに飛躍させるために、訓練の方針を見直すべき頃合いではある。できれば少女を鍛えつつ、復讐から遠ざけたいところだが、それは高望みし過ぎか。
「大丈夫ですわ、ムナカタ君。あなたは決して一人じゃありません」
考え込むときの癖で顎に当てようとしたシドの手は、身を乗り出したカレンの手のひらで優しく包まれる。彼に向けられた視線は、下手な受け止め方をしては飲み込まれると戸惑ってしまう程度に熱がこもっていた。
「困ったことがあったら、遠慮なく私を頼りなさい」
その言葉を聞いたシドは、不意にカレンの手と自分の手の違いに気づく。
温めた部屋とは裏腹にひんやりした淑女の手は、イスパニアの女性にしては珍しく竹刀ダコで覆われている。硬さでいえばシドより少し柔らかい程度ではあるが、昔よりも鍛錬を積み重ねた跡がそこにはある。自身の指に残る、ずいぶん薄くなった拳ダコとは対象的だ。過去の資産が頼みのシドと違い、彼女は今なお技を研ぎ澄まし、いろいろなものを守ろうとしている。
俺がこのままでいいわけは、ないよな――。
「魔法使いもどきのことでも、CCさんのことでも、少しくらいは力になってみせますわ」
「助かる。でも、これは俺が受けた仕事だからな。自分でできることは、力を尽くしたい」
「そういうところ、昔と変わってませんのね」
「本当にどうしようもないときはちゃんと頼る。そのときはよろしく頼む」
シドが何に心を砕こうとしているか、詳しく問わずとも感じ取れるのは、腐れ縁ゆえか女性特有の鋭さか。すべてを語らずとも察してくれるのはありがたいけれど、時々洞察が深すぎて怖くなる瞬間がある。
「CCさん、紅茶、ごちそうさまでした」
「あら、もうお帰りですか?」
「残念です。先生とどんなお話をなさっていたか、お聞きしたかったんですけど」
「ごめんあそばせ、統括機構に寄らなければいけない用事もありますので」
客間に戻ってきたローズマリーと入れ替わりに、カレンはそそくさと、でもどこか楽しそうに席を立つ。シドの左手に、確かなぬくもりを残して。
「ムナカタ君、市電で帰りますのでお気遣いなく、今からだと道も混むでしょうし」
「了解、気をつけて帰れよ」
「CCさん。色々大変でしょうけど、ムナカタ君を信じていれば大丈夫ですわ」
「は、はい」
来たときと同様に折り目正しく一礼すると、淑女は振り返ることなく万屋ムナカタを後にする。振り袖と袴が残した、決して強くないはずの香の気配が、わずかに残った宴の痕跡さえもかき消してゆく。
「先生。……先生?」
残り香に囚われたか、それとも心奪われたか。しばし呆けていた魔導士の師は、弟子に脇腹をつつかれてようやく我に返る。
「お、おう、なんだよ?」
「カレンさん、先生と大変、仲がおよろしいですよね」
「長い付き合いだからな」
「それだけ、ですか」
「そんだけだ」
「本当に?」
「日本に残してきた神様でよけりゃ、誓ってみせてもいいけど」
極めて淡白な師の答えが、ローズマリーの腑にきちんと落ちたかは、少々怪しい。でも、この方面での掘り下げは無意味と感づいてはいるようだ。シドの振る舞いを訝しむ眼差しは、いつしか訴えかけるようなものへと変わる。やましいことはなにもなくとも、このままうっちゃっておくのは忍びなくなるくらいには切羽詰まった顔だ。それを見て突き放すほど、彼も人の悪い師匠のつもりはない。
「君を一人前の魔導士にするってところはかわってねーよ」
「それは、信じてますけど」
「これからどうするか、いろいろ思うところはあるんだけど、形にするにはもうちょっと時間がほしい。その時になったら伝える。だからちゃんとついてこい」
「……はい、先生。お供いたします」
少なくとも、弟子の指導に熱意を失っているわけではない。その意志が伝わったか、ローズマリーは先程よりはやや晴れやかな表情で、師匠に微笑みかけた。




