11.11 ちょっとだけ、実戦に飢えているもので
女同士の他愛ないおしゃべりが続き、ポットの紅茶も残り半分を切ったくらいの頃合いだろうか。
ふああ、と大口を開けてあくびをかましていたクロが、ふと弾かれたようにバックパックから飛び出した。寒い寒いとぼやいていたのが嘘のような機敏な動きに、丸まった背中にみなぎる緊張感。それをみたローズマリーも、静かにカップを置きながら周囲を警戒する。
ただならぬクロの気配とは対象的に、街の様子は、一見何も変わらない。
休日ほどではないとはいえ、王都でも屈指の繁華街は活気にあふれている。手をつないで歩道を行く恋人たちに、店先で談笑する人々、急ブレーキのスキール音に続いて響く誰かのクラクション。そこだけ切り取れば、ありふれた街の風景でしかない。
だが、空気を伝わって窓ガラスを揺らす微振動と、それに一拍遅れて風と共に流れてくる何かが焦げる匂い、さらに秒単位の遅れをもって遠くから聞こえる甲高い悲鳴が、徐々に平穏を侵食し、人々を戸惑いと動揺で塗りつぶしてゆく。
そんな彼らを尻目に、クロは敏感な耳と鼻を駆使し、ローズマリーは周囲を見渡して、それぞれ警戒する。先程まで座っていた椅子はもう、そのあたりに転がされたままだ。
「クロちゃん、あれ」
少女の細い指が示す先では、黒煙が盛大に上がっている。
事故か、それとも事件かは、この際些末な話。いずれにしても異常事態に変わりはない。
「行くよ、クロちゃん」
「ここを離れよう、CC」
同じ異変を目撃しながらも意見が見事に食い違い、二人は思わず顔を見合わせる。クロも、ローズマリーも、互いに冗談を言うような表情ではない。
面倒なこと言い出さなきゃいいけど、と心配しながら、黒猫は少女の意図を伺う。
「聞こえなかったのかい? 逃げるよ、CC」
「そうもいかないよ、クロちゃん」
「バカをお言いでないよ。三十六計逃げるに如かずって言葉、知らないのかい?」
「日本の格言かしら? でもお生憎様、私はイスパニア人です」
珍しく屁理屈を持ち出して抵抗する聞き分けのない妹分に対しては、クロも苦言を呈さざるをえない。主人共々、少女を護る使命を帯びている身である以上、危ない橋を渡るのなんてまっぴらごめんだ。
「何でも屋は受けた依頼をこなすのがお仕事だ、揉め事に自分から首突っ込むことなんかないんだよ」
「シド先生も、きっと同じこと言うんだろうね」
クロの説教を馬耳東風とばかりに受け流したローズマリーは、白手袋の代わりにハーフフィンガーグローブを身につける。その視線は事件の匂いのする方へ定まっており、ブレる気配もない。
「もう一つおまけにお生憎様。私は何でも屋であると同時に、一人の警官です。たとえ非番でも、目の前で起きている事件から逃げてはいけないし、必要に応じて状況を関係各所に伝えなければいけません。それに」
そう言って両の拳を打ちつけたローズマリーの笑みは、微笑から不敵なものに代わる。
「ちょっとだけ、実戦に飢えているもので」
やる気をみなぎらせる少女と対象的に、黒猫はなで肩をさらに落とし、露骨に面倒臭さを全面に押し出す。荒事を引き受けることが多い主人の使い魔である彼女だが、その本質は猫であり、平和に暮らせればそれが一番、厄介事に巻き込まれるのは勘弁だ、と常日頃から思っている。
そうは思うものの、クールで大人びた顔をしてるくせに、時々無鉄砲で子供じみた熱さを見せるローズマリーを放っておくわけにもいかない。彼女を護るのが、クロの仕事でもあるからだ。
――どうしてこう、ボクらの周りの女は血の気が多いかね。
どこぞの不良魔導士がつぶやきそうな諦観を飲み込んだクロは、意を決してローズマリーの肩に飛び乗った。ここで少女に先走られて見失いでもしたら、それこそ面倒なことにしかならない。小さい肩の上に上手いこと身体を収めると、主の言いつけを最大限守る方向に目標を切り替える。
「まったくしょうがない妹分だぜ。ま、多少の無理なら付き合うよ」
「ありがとう」
「た・だ・し、独断専行と無理な深追いはなしだぜ」
「わかってます。どうにか先生と合流する手立てを考えないと」
余計な荷物を預け、シドへの言付けと警察への連絡を店員に頼んだローズマリーは、踵を返すやいなや、現場へ向かって一目散に駆け出していた。




