11.7 間違いなく遅れていました
「先生、私からも、すこし質問があるのですが」
「おう、どうした?」
「今日の訓練のことなんですけど……シド先生、どこかお悪いところとかありませんよね?」
「なんだよ、藪から棒に」
師匠の承諾を追い風に、ローズマリーは相変わらず物腰穏やかに、しかし痛いところをピンポイントに突いてくる。実際のところ、心当たりはありすぎるくらいあるのだが、シドはあえてすっとぼけてみせることにした。
「そんなにおかしかったか、今日の俺?」
「動き自体は、いつもと同じように見えたんですけど」
師匠のことを多少なりとも心配しつつも、昼間の演習を頭の中で反芻するのに忙しいのだろう。少女は目をつむり、顎に手をやりながら、渋い顔で小首をかしげる。
「【加速】にしても【防壁】にしても、以前より発現が一拍遅く見えました。それを補おうと立ち回って少々ご苦労なさっていたように見えたものですから」
シドは上げかけたティーカップを元に戻す。
ローズマリーの分析と指摘は的確。「何言ってやがる」と一笑に付せる空気でもない。そもそもこんな時の彼女は、嘘や冗談とはまるで無縁だ。
「なんとなくそんな気がしたとかじゃないのかい、CC?」
「いいえ。間違いなく遅れていました」
同じことを考えたらしいクロが、主人に先んじて疑問を呈するが、少女の自信はこれっぽっちも揺らがない。
「【加速】し続けていくと、あるところから周りの風景とか、人の動きが少しゆっくりに見えてくるんです。さらに深度を上げて、それに体が慣れていけば、もしかしたら」
「もっと見え方が変わったかも、って言いたいのかい?」
それはどうなんだろうね、と訝しむクロの視線が、シドのそれと交錯する。
そもそも、【加速】を筆頭とする身体【強化】系の魔法は、使えば使うほど能力が向上する都合のよい代物ではない。いわゆる「重複使用障害」により、短時間で複数回発現させたとしても能力の向上は頭打ちになるのだ。ローズマリーはその限界が極端に高く、それゆえに速さを生かした撹乱と一撃離脱を軸とした立ち回りを得意としている。
シド自身も【加速】魔法の使い手ではあるが、ローズマリーのような領域――彼女の言葉を借りるなら「深度」――には到達できないし、速さでは到底敵わない。荒事の最中に相手や周りの景色がゆっくり流れるなんて不思議現象を体験したこともない。
でも、とシドは自問自答する。
速さはそれだけで強力な武器たりうるが、それだけでは近接格闘をこなせないのも事実だ。細身なローズマリーは膂力も体重も不足気味。おまけに魔力の【放出】が使えず、一撃の威力の底上げが望めないときている。身体的特徴と魔法の適性だけ切り抜けば、格闘にはおおよそ向いていない。
それにもかかわらず、彼女は万屋ムナカタの前衛として立派に機能している。その疑問の答えにたどり着くには、自分の固定観念の外にある彼女の感覚を受け入れなければならないことに、シドはようやく気づき始めていた。
【加速】魔法を使ったローズマリーには、世界がゆっくり流れて見える――。
今となってみれば、彼女がシドの元を訪れたときからその萌芽はあったのだ。気づけなかったのか、無意識の内に可能性を否定していたのかは、もはや詮索しても仕方がない。
早く動きながらなお、身体を正確に動かし、相手の急所に一撃を叩き込む。
それを支えるのは、ローズマリー自身の日々の努力と、【加速】の中でも機能する眼であることに、ようやくシドも思い当たった。彼女が訓練や実践の中で【加速】を緩めるのは、動きが単調になって先読みされるのを防ぐため。速さに眼がついて来ず、視界が歪むからではない。
そこまで思い至ると、今度は別の心配が湧いてくる。
――体のどこかに余計な負担がかかってやしないだろうか?
一度エマに診てもらうか、とシドは内心で次の策を描く。【加速】にこの上なく適合した体質の少女について、医者の見解をきちんときいておきたいと思ったのだ。彼のように、行き過ぎた能力で、自らを傷つけてしまう前に。
「……先生?」
急に黙られては心配になるのも無理はないだろう。考え込んでいた師匠の顔を、ローズマリーがじっと見つめてくる。
大丈夫、と手振りだけで返したシドは、まずは自分の話から始めることにした。少女の指摘通り、彼の魔法の発現には遅れが生じている。その理由を説明し、ちゃんと納得させてやるのも師匠の努めというものだろう。
何より先に伝えるべきは、不調ではないことだ。
「心配してくれるのはありがたいが、体調が悪いってわけじゃねーんだよ。本当だぜ?」
うなずいたローズマリーだが、表情は今ひとつ晴れない。悪いのが身体でないなら精神なのかと思っているのかもしれないが、シドに言わせればどちらも一律で体調不良だし、そもそも原因はそこではない。
「ちっと前まで、病院には通ってたけどさ」
「初耳ですね」
「順番に話すから、まずは最後まで話を聞いてくれ」
すう、と少女が目を細める。
季節は冬。寒がりなクロのために暖房を効かせているはずなのだが、彼女の周りの空気の温度だけ、外気温を下回ったような気がする。いつものように「言ってなかったからな」と軽口を叩くのもはばかられる空気だった。




