11.4 訓練に付き合ってください。今すぐに
「ところでローズマリー、研修はどうだった?」
「どうだった、と申されましても」
師匠が弟子に投げかける、あまりにもありきたりな質問。適当に流してしまうことだってできるはずなのに、この少女は顎に手をあて、薄目を開けてじっと考えこんでしまう。
「もうちょっと軽く考えていいよ、CC」
「どうせ後で詳しい話をするし、そのうちレポートも届くんだ。いまはざっくりした感想でかまわねーよ」
先輩二人の助け舟があってなお、彼女はしばらく言葉を探していたようだったが、
「……受けてよかった、って思います」
「それが聞けりゃ、師匠としては満足だ」
ようやく、と称して差し支えない時間を経て、シンプルの極致といっていい答えが出てきたところで、ちょうどチンクエチェントが信号にひっかかる。シドの減速はベルベットのように柔らかい。警察署を出るときに見せた加速とは大違いだ。
「ま、一ヶ月ちゃんと頑張ったんだ。ご褒美も……多少なら、欲しがったっていいんだぜ?」
「シド君、回りくどい……もっと素直に聞けよ、男だろ」
「やかましい」
ありふれた売り言葉に、おなじみの買い言葉の応酬。返事もしなければ小言もつかない弟子は、少し呆けたように、二人のやり取りをどこかぼんやりと見ている。
「なんだよ、鳩が豆鉄砲食ったような顔しやがって」
「シド君が珍しく優しいからだよ、きっと」
「そんなに厳しい師匠だった覚えもないぜ?」
「厳しいってよりは、ちょっと他人行儀、っていったらいいのかな?」
「師匠と弟子なら線引きは必要だろうよ」
信号待ち、エンジンの低い振動で揺れる車内で、クロはローズマリーの膝に飛び乗ってニヤリと笑う。
「ご覧の通り、研修をこなして帰ってきた弟子をねぎらうくらいの思いやりは、シド君にもあるってことだよ。この際だ、頼みたいもん頼んじゃえ! 何がご所望だい、お嬢様? 豪華なディナーかい? それとも素敵なドレスかな?」
「……本当によろしいのですか、シド先生?」
「あんまり高いのは、さすがにダメだぜ?」
「それでしたら」
シドはステアリング・ホイールをコツコツ指で叩きながら、クロは少女の膝の上でちんまりと丸くなりながら、形の整った少女の唇から次に飛び出す言葉を待っている。
「訓練に付き合ってください。今すぐに」
彼女らしい、真面目にもほどがあるおねだり。でも、眼に灯る光はちょっと物騒だ。
「訓練? 他には?」
「それだけで十分です」
「どうしても、今すぐか?」
「はい」
「……わかった。そんじゃ行くか」
師の返答がよほど以外だったのか、ローズマリーの眼が見開かれる。普段のものぐさな生活態度からあっさり要求が通るとは予想していなかったのか、即断即決の理由を問おうと口を開きかけるが、質問が結実することはなかった。
目の前の信号が青に変わると同時に、シドは見事にスピンターンを決め、もと来た道を引き返し始めたのだ。
アクセルの急操作に答えようとするエンジンに、突然駆動力を伝えられたタイヤ、縦横のGに揺さぶられた少女と黒猫が、四者四様の悲鳴をあげる。
「ぶっ壊れてんのはこのクルマか、それとも君のアタマか? どっちだい、答えろよ、シド君!」
「先生、私が警察官ってこと、絶対忘れてますよね?」
「なんだよ、すぐに訓練したいって言い出したの、君だろ?」
「そうですけど!」
「だったら、ちょっとばっかし、大目に見てくれよ」
「無茶言わないで……うわぁっ!?」
弟子と使い魔のクレームにも聞く耳を持たず、柳に風とばかりに受け流したシドは、シフトを一段上に叩き込む。その乱暴な手付きへ抗議したのか、はたまた運転手の無駄な気合に応えたのかは定かではないが、チンクエチェントはいちど大きくぶるりと震えると、石畳を蹴って加速する。
「実を言うとさ、俺も試したいことがあるんだ。一丁よろしく頼むぜ」
「はい、先生、お供いたしま……ひゃあっ!」
鼻歌混じりにシドが繰り出すのは、市街地ではまるで必要のないハードブレーキングに、サイドブレーキを使った強引なスライド。いつもと人が変わったような運転に、助手席にすっぽり収まったローズマリーは悲鳴を上げるだけで済んだが、かわいそうなクロはそれだけではすまなかった。目的地まで決して遠くない道のりとはいえ、その間は絶望を顔一面に貼り付け、後部座席を縦横無尽に転がされっぱなしになる、散々な道中を過ごす羽目になったのである。




