11.1 迎えに来たぜ
ローズマリーの研修を締めくくったのは、自分の言葉に酔いしれていたのか、妙に長ったらしい警察署長の訓示だった。彼女も話が三巡したところまでは覚えているけれど、そこから先、どのように幕が下りたのかはあまり覚えていない。いくら勤勉で鳴らしたローズマリーといえども、同じ話を繰り返されれば聞く気も薄れるというもの。訓示の途中からは愛用の手帳にペンを走らせ、メモをとるふりをしながら研修後の予定に思いを巡らせていた。
マイクのスイッチが切られた音で顔を上げたローズマリーが眼にしたのは、おしゃべりに興じ、昼食をとろうと連れ立って食堂へ足を運ぼうとしている受講者たちだった。彼らに軽く挨拶した彼女は、一人トランクを抱えて、静かに講義室を後にする。
参加者の中でただ一人出向中の身である少女にとって、戻る場所はようやく体に馴染んできた自分のデスクではなく、出向先の万屋ムナカタだ。ここ二、三週間でやっと板についてきたスーツを一旦クローゼットにしまい込み、その代わりにメイド服――色素の薄い銀髪と肌に映える黒のワンピースに、やや飾りっ気に乏しいカチューシャとエプロンドレス一式――をまとい、魔導士としての仕事に戻る時が来たのである。
荷物が多いせいで足取りの重い少女が、ポニーテールを揺らしながら薄暗い玄関を抜け、柔らかい冬の日差しに照らされた表階段を降りてゆく。
昼時の街は慌ただしく、多くの人が行き交っている。近くの停留所では、路面電車を待つ多くの市民が列をなしていた。まともな判断力のある人間なら、荷物を抱えて乗り込むのは厄介とみなす程度には混んでいる。勤勉・真面目・倹約家と三拍子揃ったローズマリーすら、即座に踵を返し、タクシーを拾おうとするくらいだ。
少し人がまばらになるくらいまで通りを歩こうとした少女の耳に、誰かが鳴らしたクラクションの音が届く。
少し軽い、すっとぼけたような、耳馴染みのある音色。
彼女の頭にぱっと思い浮かんだのは、師匠であるあの男の顔だ。
魔導士としては超一流、いざ仕事となればベテランらしい魔法の運用技術や判断力を見せる、万屋ムナカタの主にして頭脳。金につながらない仕事はしないといいきり、時に吝いと評される事もあるけれど、それは内に秘めたプロ意識の高さの裏返しでもある。その反動か、かつて外国人部隊に所属し軍務に携わっていたとはにわかに信じがたいほど、普段の生活態度はだらしない。危機感までは感じないが安心できない程度に目付きが悪く、冷たくはないがいささかぶっきらぼう。
彼女の師匠、シド・ムナカタとはそういう男だ。研修を終えた弟子をわざわざ迎えに来る姿はちょっと想像し難い。
だが、先ほど聞こえたクラクションの音は、間違いなく彼の愛車のそれだ。
「……先生?」
まさかね、と思いながら訝しげな顔で少女が振り向いた先にいたのは、散歩に出かける直前の子犬さながらに、小気味好いエンジン音を振りまきながら車体をぶるぶる震わせるチンクエチェント。その窓からは、師匠が顔を出して手を振っている。
「何ぼやっとしてんだ? 迎えに来たぜ!」
ローズマリーはトランクを落っことすことこそなかったが、驚きに目を丸くし、返事も返せないでいた。歩道で立ち尽くした彼女を急かすように、シドはもう一度、クラクションを叩く。
「早く乗ってくれよ! 警察官迎えに来て駐禁取られるなんて笑えねーからな!」
「は、はい!」
我に返った少女の返事は、いつもの真面目でしっかりした彼女からは想像し難い、ちょっと間抜けな声色。慌てぶりは荷物の扱いにも現れていて、ラゲッジスペースにトランクをしまう所作も、普段の三割増しくらいで乱暴だ。
「お待たせしてすいません」
「別に謝ることなんかないさ。ボクらは好きで迎えに来てるんだから」
助手席に収まったローズマリーの膝にぽんと飛び乗った黒い塊が、運転手の代わりに答えてくれる。きれいな三角形をした両耳と金色の丸い瞳、闇夜に溶けて消えそうな毛並みがご自慢の彼女こそ、少女の出向先の看板娘にしてシドの使い魔、黒猫のクロである。
「クロちゃんも迎えに来てくれたのね。ありがとう、車苦手なのに」
「いいってことさ」
鋭敏な感覚を持つからか、クロはとにかく乗り物に弱い。振動の大きい直列二気筒エンジンを抱えたチンクエチェントは不倶戴天の敵といっていい存在のはずだ。それでも迎えに来てくれた黒猫に感謝するように、ローズマリーは優しい手付きで撫でてやる。
「ボクは行かなくてもいいかなって思ったんだけど、シド君がどうしてもついてきてくれ、っていうからさ」
「そうなのですか?」
「可愛い弟子と久しぶりに会うから、どんな面していいかわかんなかったんじゃない?」
「んなわきゃねーだろ」
シドなりの照れ隠しか、それともからかわれたことへの意趣返しか。
いつもよりアクセルを乱暴に踏み込んだ挙げ句、クラッチを雑に繋がれたとあっては、同乗者としてはたまったものではない。しばらく路面を掴みきれずに絶叫していたタイヤが突如路面に食いつき、中にいた面々が加速Gにさらされる。ローズマリーは可愛い悲鳴を上げた程度で済んだが、黒猫は踏ん張りきれずに後部座席へと転がってしまい、間抜けなうめき声をあげる羽目になった。
「シド君のアホ! アクセルは丁寧に踏め! 何年運転やってんだ!」
「言わんでいいこと口走った自分を恨むんだね」
「鬼! 悪魔! ムナカタ!」
「なんだよそれ」
警察官の肩書をもつ少女のそばで乱暴な運転をしても平気な顔の師匠に、聞くに堪えない罵詈雑言を主人に投げつける黒猫。弟子という立場ではあるけれど、本当は師匠を諌めるのが正しい反応だ、とローズマリーもわかってはいる。だが、一月ぶりに目にした二人の丁々発止のやり取りがどうにも懐かしく、考えとは裏腹につい相好を崩してしまうのだった。




