9.12 ちっとは師匠らしいところ見せられたか?
「シド君!」
「先生!」
強がりにしてはあまりにも苦しげな表情に、両腕の制御帯に滲む血。それに加え、食いしばる歯から漏れ出る息が荒いとなれば、心配するなという方が無理な話だ。師匠の異変に気づいたローズマリーがそばに寄り添うが、差し伸べられた手は乱暴に振り払われる。
こんな時に痛むなんて、と歯噛みしながらも、「やっぱりな」と諦めてかけている自分がいることに、シドは薄々感づいていた。
エプサノの惨劇で、彼は魔導回路の損壊という大怪我を負い、あわや魔導士廃業の瀬戸際に立たされた。そこから立ち直り、過酷なリハビリの日々を乗り越えたシドにつきまとったのは、体が自身の魔法の負荷に耐えられないという懸念だ。
魔力の生成と運用に細心の注意を払うだけでは追いつかない彼にできる防衛策といえば、両腕に制御帯を巻いて魔力の流量を制御し、回路を保護することだけだった。以降、彼は常に自らに枷をはめ、なかばだましだまし、魔導士としての活動を続けていたことになる。
そんな状態で、体への負担が大きいクロとの【同調】を使えば、体に異常をきたしてもなんら不思議ではない。
「このまま座して死を待つなんてボクはゴメンだよ! 立て、立つんだ、シド君!」
肩から飛び降り、苦悶するシドを覗き込むクロの向こうでは、魔力供給が途絶えた漆黒の球体に、再び亀裂が入る。そこから亀裂から漏れ出るのは、見ただけで危険とわかる熱と光だ。
それを目の当たりにしてしまえば、クロといえども焦燥感を隠してなんかいられない。シドとの連携なくして、怪物の無力化はありえないのだ。
だが、悲痛なクロの言葉は、シドにはどこか遠いものに聞こえる。
魔導回路から生じた痛みがそのまま神経を逆撫でし、容赦なく集中をかき乱すのだ。今の彼は、魔法が使えるような精神状態とは程遠い。
「先生、防壁が………!」
「弟子の手ぇ振り払ったってことは、自分の足で立ち上がるってことだろ! 立ってみせろよ、男だろ!」
――やかましい相棒だ。
猫の声はただでさえよく通る上に、耳元で叫ばれてしまっては、気を失おうにも失えない。腕の痛みに加えて頭痛までしてくるから困ったものだ。
「シド先生!」
球体の綻びは更に拡大し、そこから吹き出る熱風が当たり一面に吹き荒れる。このまま放っておけば、シド達の【防壁】ごとあたりを吹き飛ばすだろう。後にはおそらくペンペン草も生えまい。
「あんな木偶の坊の自爆を抑え込めなかったなんてなってみろ、ウルスラ嬢は末代まで君のことを笑うだろうし、お嬢様は仕事のパートナーを失って事件は見事に迷宮入りだ。アンディ君もきっと失望するだろう」
あいつら――特にカレンは関係ないだろ、とシドは内心毒づく。
とはいえ、望む望まざるに関わらず、彼が王都の魔法使いもどき事件において重要な立ち位置にいることは間違いない。ここで彼が倒れてしまえば捜査の停滞は必至。それくらいは言われなくてもわかっている。
「弟子の一人も守れずに、何が『鉄壁』だ! そんな情けない奴を相棒に持った覚えはない!」
「お願い、先生、立ち上がって!」
自分の判断で下がれと言ったのに、あの弟子は目尻に涙を溜めたまま、自分のそばを離れようとしない。シドが逃げろと言わない限り、彼女はこの場にいるつもりなのだろう。魔力の異常な消耗というリスクを負ってまで、トンファーの性能を開放して怪物の足止めに動いておきながら、いざ爆発に巻き込まれそうになったら梃子でも動かないのはあまり褒められたものではない。後で説教が必要だ。
腕の痛み、頭痛、心配、抱えている仕事。
長年の相棒は言葉で、年若い相棒は感情で、それぞれシドを揺さぶってくる。集中させたいのかさせたくないのか、よくわからない。
だが、彼にはまだやらなければならないことが残っているのは、どうも確からしい。こんなところで諦めるのは、彼が許しても他の皆が許してくれないようだ。
「まったく面倒なことになっちまったな」
シドは低い声で呟くと、しかめっ面を取り繕うことなく立ち上がる。痛む腕は、どこぞの防御を捨てた拳闘士さながら、まだだらりと下げたままだ。
「クロスケ、ちょっとだけ時間を稼いでくれ。ローズマリーはもうちっと下がってろ」
「何秒頑張ればいい?」
「なるべく長く。俺も早く済ませるから。ローズマリー、予備の制御帯、持ってるな? 出してくれ」
心配そうなローズマリーの心労をこれ以上増やすまいと、重箱の隅をつついて集めたカラ元気を振り絞ってみせたシド。その肩にひらりと飛び乗ったクロは、自らの魔力を黒色の【防壁】にありったけつぎ込んだ。もってけドロボー、と言わんばかりの大盤振る舞いだ。
クロが作ってくれた貴重な数十秒で、シドは弟子から受け取った新品の制御帯を乱雑に巻く。魔導回路が耐えられないというなら、もう一層制御帯を上から巻いて、更に量を絞る以外、打つ手はない。
――ハンディア行きは確定だな。
流す魔力量の調整を誤れば、しばらく魔法が使えなくなる体になる。シドにとっては重大な損害だ。いざとなった時に、自分の身はおろかローズマリーを守ることさえ叶わなくなる。
シドは天を仰ぎ、余計な考えを頭から振り払った。魔法が発現するか否かは、術者の精神状態に大きく依存する。弱気な心を抱えては魔導士などやっていられないし、守りたいものも守れない。それに、こんなところで爆発ごときに屈するようでは、師匠として弟子に合わせる顔もない。
「【圧縮・第六階梯】!」
だから、弱い自分を振り切るように、声高らかに宣言するのだ。
内圧に負けて膨れ上がり、ことさら大きく震えようとしていた黒色の球体だったが、シドの叫びに気圧されたかのように亀裂が埋まり、ピタリと動きを止める。その中では圧力も温度も上昇し、さしずめ地獄の釜の中身とでも呼ぶべき状態になっているはず。恐るべき力を誇り、機関砲を振り回して暴れまわったあの怪物も、もはや無事ではあるまい。
それに打ち勝つ【防壁】の維持に魔力を食われ続けているせいで、シドとクロの息は完全に上がっている。心臓の鼓動も、全力疾走もかくやとばかりの速さだ。
「抑え込むのはいいけど、この後はどうする、シド君? まさか【防壁】の中が落ち着くまで待つ気じゃないだろうね?」
「そんなわけねーだろうが」
工学と魔法、二つの技術の融合の象徴たる怪物を失うのが惜しいという気持ちは、シドにも少なからずある。だが、少女に花一輪を手渡した心優しい巨人は、誰の制止も聞かずに暴れまわる、本物の怪物に堕ちてしまった。人外の力を持つ人智の結晶は、常識の枠を超えた力――魔法でねじ伏せる以外に、もはや止める術がない。
「出番を終えた役者にはご退場願おうぜ、クロスケ?」
「うん。とっとと仕事を終えて、お嬢ちゃんと一緒に愛すべきボクらの家に帰ろうじゃないか?」
シドとクロは力を合わせ、手を取り合って、再度【圧縮】を試みる。ただし、これから圧縮するのは彼らの魔力ではなく、黒色の球体そのもの。
「魔法なんて、結局は使い方だよな」
だれに言い聞かせるわけでもない独り言。
聞いているのは、肩の上の相棒と背後の弟子だけだろうが、シドはもう、そんな事を気にしてはいなかった。
「魔法の力が貶められるとしたら、それは正しく使われなかったときだ。誰かの意に沿わない進化をしたとしても、それ自体が咎められるなんてこと、あってはいけない」
「……先生?」
シドの様子を訝しんだローズマリーから声をかけられて、シドは静かに首を振る。今は、自分の意識があるうちに、この状況を何とかするのが先決だ。
「やるぞ、『ナインライブス』」
「あいよ、『鉄壁』の魔導士」
シドとクロ、二人は互いを横目でちらりと伺うと、
「ここからいなくなれ!」
大きく息を吸い、声を合わせ、高らかに終幕を宣言する。
直後、師匠の背中越しに見える光景に、ローズマリーは目を見開いて息を呑んだ。
怪物を包み込んだ巨大な球体――黒い【防壁】が、少しづつ収縮し始める。ゆっくりと、しかし目で追える程度だが、直径が小さくなっているのだ。
内部で爆発が起きて圧力が上がるせいか、時折何かに引っかかったように収縮が止まる。だが、数秒も経たないうちに、球体はどんどん小さく圧縮され、やがて手のひらに乗りそうな大きさとなり、雲散霧消する。
あとに残されたのは、静けさを取り戻した演習場と、そこに佇む二人の魔導士、そして使い魔の黒猫。陽は何事もなかったかのようにさんさんと降り注ぎ、穏やかな風があたりを吹き抜ける。
ガーファンクル卿はその宣言通り、狙い過たず怪物に一撃を叩き込み足を止めた。魔導炉が暴走し爆発の危機に瀕していた怪物は、シドとクロの連携でこの世界から消え去った。
その一部始終を目の当たりにしていたローズマリーは、嵐のように始まって流行病のように去っていった一連の事態に固まったままだ。
「消えた……? そんなまさか」
「ちっとは師匠らしいところ見せられたか」
「……先生?」
肩に相棒を載せたまま、シドは弟子の方へ振り返って微笑ってみせる。
笑みにも動きにも、もはや力なんて残っていない。目一杯魔法を使い、その惰性でどうにか強がっているのが見え見えだ。
「大技を使えば、体に反動がくるのは当然のことだ。どんなに経験を積んでも、その基本原則からは逃げられない。大技を使っていいのは、相手を仕留める覚悟ができたときだけだ。
とりあえず、状況終了。……【解除】」
小さく呟いたシドの瞳が、金色から黒へと戻ってゆく。
そう少女が気づいたときには、既に彼の体は大きく傾ぎ、そのまま大地へと倒れ伏すところだった。




