第三話 誕生
「おぎゃあ」
オレンジ色に染まりかけた、晴れた空に雲無く雨が降っている。人口80人ほどの村の中心付近にある、明るいオレンジや赤っぽい色のスレート(粘板岩の薄板)が葺かれた家から、甲高い産声があげられる。
「おめでとう!男の子ですよ!」
誕生した赤子が助産婦の手によって取り上げられる。
「良かったね……」
「本当に……よく頑張ったね」
助産に関わった産婦たちが安堵を含めた声で次々と労う。
「あ……ありがとう……」
同じ頃、隣の部屋では待機していた父親が歓喜の声をあげる。
「男の子だぞ!」
「やったな。おめでとう」
「ありがとう!」
佳純が元の世界の地球から異世界に、誕生してきた瞬間であった。
しかしながら、佳純の意識は眠ったままだ。
本人には知る由もないが、転生の儀式を行った女神イルマタルの配慮だったのである。
この時既に自我があったのなら、心身共に耐えがたい苦痛を伴っていただろう。
無事生まれてきた佳純は新たに「男性」としての第二の人生をスタートさせる。
程なくして、産まれてきた男の子は「カシュー」と名付けられた。
カシューと名付けられた佳純は比較的治安の良い、人口80人ほどの小さな村の家に生まれた。この村はほどんどが藁葺に、木造とレンガを組み合わせた造りの家になっている。村長などの立派なところになると、明るいオレンジや赤っぽい色のスレートが葺かれた屋根に、塀や壁の一部など所々漆喰で綺麗に装飾されている。
そこそこ有力な力を持つ両親の子に産まれたので、スレートが葺かれた家に住んでいる。木の屋根だったら雨漏りが酷かったかもしれない。
カシューは両親の愛に育まれながら、すくすくと育っていく。
ハイハイが出来るようになった頃には、うっすらと自我が芽生えていく。
(あれ?ここはどこだろう?)
まず最初に天井に目をやると、炭で黒ずんでいる木目の節が見えてきた。どこかの木造の家なのだろうか?
視線を倒してきょろきょろと辺りを見回す。
木製の柵状の囲いに囲まれているベッドの上で寝かされている事に気が付く。
(なんか思ったより体の自由が利かない……体が凄く重い……しかも首がほとんど動かせない!)
首を傾ける事すら困難であったので、頑張って首と眼球を連動させて出来る限りの視野を稼ぐ。
その様子を誰かが見ていたとしたら「気味が悪い」と驚いたことだろう。
佳純はきょろきょろするのに疲れて、だるそうに自分の手を見つめてみる。
「⁉」
ふんわり丸くて小さい!
自由に指を動かせない!
そういえば、転生した事をすっかり忘れていた。随分と長いこと、夢を見ていた気がする。
佳純は体の各箇所を可能な範囲で少しずつ確認していく。頭が大きくて筋力も、体の大きさに比較して断然と不足している。重いものを抱えるようにふらふらしたりする。
(世間の赤ちゃんって頑張ってるんだなぁ)
実際になってみて、痛感したよ。
思いついたように、言語を口にしようと発声を試みてみる。
「……」
(あれ?)
どこかフワフワしたように、発声のイメージは出来ても手応えを感じない。
自分で発声しているつもりなのに、手応えがまるで無いのだ。これはすごくヤバいと、
必死に何か話そうと試みる。どうも、声帯の感じが掴めない。恐らくは新しい体になった事で、馴染んでいないのかもしれない。
今更ではあるが、他にも重要な事に気が付いた。出てくる音が耳に少しも入ってきていない。
(あっ!私耳が聞こえなくなったんだ……)
忘れていたよ。私にとって聞くのは当り前過ぎる事で、自然に入ってくると思っていた。それがこうして一切入らなくなっている。
「……」
「……」
(怖い……)
何なのこれ。これが聞こえないという事?
ちょっとばかり耳が遠くなる程度とばかり想像していて、落差にがっくりきている。
ちょっと聞こえにくくなった人。
耳が遠くなったっていう人。
完全に聞こえなくなってしまった人。
言葉でいうのは簡単だ。この「聞こえ」の具合について、深く考えた事が無かったので想像がつかない。
(甘く見ていたよ私……聞こえないのはマシとか、楽だとか思ってしまってごめんなさい……)
佳純は転生してから「音」という物を一度も聞いたことが無い。
ベビーベッドで過ごしている時、ずっと「静かだなぁ……」としか思いつけなかったのだ。
この部屋の外はどんな世界になっているんだろう?大変興味あるけど、耳を澄ませることは出来なくなってしまっている。
そういえば私自身の名前は、何になったんだろう?名前を知るまで、佳純で通すつもり。現在は何も聞けないんだし。あと何かないかな?
思い立ったように寝返りを打って体を起こしては、周囲を見回す。
光のある所に目をやると、少々濁ったガラスの窓が見える。
黒っぽい木枠に四枚の四角いガラスが嵌められている。どうやらガラスが存在する文明のようだ。
柱には各方向には、ランタンらしい物が取り付けられている。
他には、周囲の家具で変わったものは見出せなかった。
(本棚とか無いのかな?例え読めなくても、どういう文字が使われているのか気になるよね)
佳純は本棚らしいもの、文字の形跡のある物を探してみる。
残念な事に、この部屋には「文字」になりそうなもの何一つ見つけられなかった。
(ひょっとして識字率低いのかな?やばいよこれ……)
耳が聞こえなくなって、人の会話を聞いて理解する事ができない。この世界で日本語が通じるかどうかもわからない。あたりには、文字らしいものが何ひとつ見つからない。
佳純はどうにも出来ない不安で、押しつぶされそうになる。
(どうしよう……)
不安な気持ちが増していくにつれて涙腺が緩みだす。
うっすらと、つぶらな瞳から涙が浮かんでくる。
(ふぇ…………)
その時、私の知らない女性が抱きあげてくる。
佳純の不安そうな顔を見て感じ取ったのか、優しく暖かな手に抱えあげられたのだ。
うっすらと浮かべた涙のせいもあるのか、顔がぼやけてよく見えない。長い黒髪なのは、かろうじて把握できる。包むように抱えてくる人肌から甘いミルクの香りが漂ってきて、鼻腔をくすぐる。
抱きかかえた女性こそ、佳純ことカシューを産んだ母である。佳純が母である事を理解出来るようになるには、さらに数年後の事である。
(ふわぁ…………)
佳純は包まれるような母なる愛を受けて、暖かな心地をおぼえたのだった。
(すごく暖かい……色々とびっくりして疲れたから休もう……)
佳純は安心して、意識を手放すのであった……