もうひとつのおもいで
「お前の母ちゃん、どれだよ」
「あそこ」
「ウッソ、めっちゃ美人じゃん!」
男の子たちは元気にはしゃいでいる。教室の後ろまでしっかり声が聞こえていることにも気付いていないらしい。可愛いものだ。
左右には若々しい黒髪の親たち。不安そうにソワソワしていたり、期待を膨らませた目をしていたり、まるで子どものようだ。
それに引き換え、私の髪は真っ白。若いというのは羨ましい。私ももう少し若ければ、今の状況は避けられただろう。
そうこうしているうちに授業は始まった。あの子は本当に指名されるだろうか。何せ夜中まで勉強していたんだ。その成果が出なければ可哀相としか言いようがない。
しかし、どうやらそんな私の心配は杞憂だった。あの子は早速指名された。起立するのも黒板に文字を書くのもおっかなびっくりだ。私はつい吹き出してしまった。家の中とは大違い。
それでも、書いた答えはピタリ正解だった。先生と生徒から送られる拍手の雨にどうやら照れているらしい。こういう時は堂々と胸を張ればいいのだ。今夜言ってやろうと考えたものの、それは出来ないことにすぐ気付いた。
ふと、あの子は席につく直前、こちらの方を見て一瞬だけ表情を曇らせた。
その意味するところは直感で察することが出来た。きっと私がこの場にいないことを寂しがっているんだ。ごめんよ。こんな形じゃなくてちゃんと参加したかった。
でも私は嬉しい。この調子ならこれからもきっと大丈夫だろう。そう想うのに、それなのに、やっぱり不安だ。私がずっと見ていなきゃあの子がどうなってしまうか分からない。信じてやりたいけど不安の心はいつまでも拭えない。こんな時、カマドならおせっかいだと笑うのだろう。でも性分なら仕方ない。あの世行きの直前でもこんなことを思っているのだから、私はきっといつまでもこうなのだろう。
ああ、出来れば再会の時が来るまで、いや、その時が終わった後も、平穏無事にあの子が過ごせますように――
ぼくの脳に急に流れだした映像は、そこで止まった。
この映像はなんだろう。力がぼくの体に入り込んだ影響だろうか。
でも、そんな仕組みのこと、今はどうでも良い。この映像のことを、ぼくはハッキリと覚えている。ぼくにとっていつまでも残るであろうあの日。
あの日は、おばあちゃんが亡くなった日。
元から病気がちだったおばあちゃん。本当は授業参観に来てくれるはずだったけど、その直前、病気が急に悪化してとうとう亡くなった。
ぼくはどんな問題がやって来ても良いように、前日はおばあちゃんに内緒で夜中まで準備した。おばあちゃんに良いところを見せたかった。
でもおばあちゃんは結局授業参観に来られなかった。その理由を放課後に聞かされて、あの日はずっと泣いていた。
文句ばっかりの生活。でもおばあちゃんがいたから寂しくなかった生活。それはあの日、唐突に失われた。
今、流れた記憶は完全にその時のものだと分かる。
気が付けば、ぼくの目からは涙が溢れていた。
おばあちゃんは、見てくれていたんだ。
おばあちゃんに言われないと何も出来ないぼくを、ずっと見守っていた。体だけじゃなく心もこの世からいなくなる最後の時まで、ずっと。
本当の思いを知れば、嫌な気持ちはすっと消える。おばあちゃんのことをうざったいとばかり叫んでいたぼくの中の闇が、心から失せていって跡形もなくなった。
ありがとう、おばあちゃん。
「さあ。早くやるんだ……皆を、守るんだ」
目の前のおばあちゃんはもう一度声を掛けてくる。とても弱々しい姿。でも、その声はより大きく脳に響いた。
おばあちゃんの声の導くまま、無意識に左腕をゆっくりと掲げる。
――でも、このままじゃ、ダメだ。
ぼくの腕はそれ以上動かなかった。動かさなかった。動かしちゃいけない気がした。
――おばあちゃんに言われた通りじゃ、いけないんだ。