焦燥
「大変――ねえ、大変なの!!」
悲鳴に似た大きな声と玄関を乱暴に叩く音が、同時にぼくの耳を侵略する。
恐る恐る頭から被っていた布団を払う。いつの間にかもうすっかり日が出ていて、今は何もかも明るくハッキリ見える。ついさっきまで一生懸命目を凝らしていたのがウソみたいだった。
あれから結局一睡もしていない。寝てしまうとあの記憶が襲ってきそうだったから。姿を見るだけで心が抉られるような、あの怪物。闇からまっすぐ放たれた眼光を思い出すだけでぼくの体はまた大きく震えた。
「ねえ、いる!?」
強まるばかりの玄関を叩く音。思案することを許さない切迫感がそこにはあった。
それはカマドの声だ、ということはすぐに分かった。だけどその様子は普段ぼくを世話しに来るものとは全く違っていた。何かを怖がっているような、焦っているような空気がドア越しにも伝わってくる。
でも今はぼくだって怖い。あんな怪物に出くわしたんだ。外に出てもしカマドが怪物の変装だったらどうする。そうじゃなくても、またあのカオで立っていたら。シーツを意識的に強く握り締めた。
「ねえ、おねがい――出てきてよ――!」
ドア越しに聞こえるカマドの声は今にも泣きそうになっていた。怯えるような声。
ふと、いくつかのシーンが脳裏をよぎった。それはカマドとの思い出。ぼくのために色んなことをしてくれたカマド。いつも明るかったカマド。なのに今、その声は消え入りそうなくらいに弱々しい。
怖い。でも、怖がっちゃダメだ。この様子じゃきっと何かある――重い体をどうにか起こしてぼくは玄関を開けた。
「大変……ドームが……!!」
瞬間目に飛び込んできたのは、声の通りに泣きそうになっていたカマドの顔だった。
あの時見た能面ではなかったことにはホッとしたけど、同時にそれはただごとではない状況を示していた。
「いいから、早くついてきて!!」
叫びながら、カマドはぼくの手を強引に掴んでそのままどこかへ走り出す。その力は凄まじく強く、振り払うことはとても出来ない。足がもつれてしまわないよう頑張ってついて行くしかない。
決死の走りで辿り着いた先は公園だった。ついさっき逃げ帰ってきたばかりの、この公園。カマドは疲れ果てたようにぼくの手を離し、真正面からこちらを見据えた。
「ここだよ……ここで、君のおばあちゃんは、ドームを、作ったんだよ……」
カマドは途切れ途切れな呼吸で声を絞り出す。
「あたし、には、分かる。今、ドームの寿命が、来ているんだ」
疲労を必死に堪えてメッセージを伝えようとしているのは分かる。けれど、その内容は全くもって意味不明だった。
ドームの寿命が来ている。なんでそんなことをカマドが分かるのか。
でも今、『なんで』を突き止めるよりも恐ろしい寒気が背筋を凍らせた。
カマドの言葉の意味。それは、ドームが消えるということだろうか。それはつまり、あの怪物と同じ世界にいなきゃいけないということ――?
嫌だ。ぼくは体が痙攣するのを感じた。立っていることさえ奇跡と思える震え。嫌だ。外に出るのは、嫌だ。
「でもね、ここからが大切、なんだ」
カマドはにわかに声のトーンを変える。まるで別人のような雰囲気。外の世界へ向けられていたぼくの意識はまたカマドへと引き戻された。
「ドームの力が弱まるのは、前から、予測されていた。あたしは……この時のために、今までここを守ってきた」
カマドは、両腕を辛そうに大きく振り上げた。その瞬間、カマドの体は光に包まれ、やがてそれは天まで届く柱になった。
次の瞬間、ぼくは悲鳴を上げてしまうのをすんでのところで堪えた。
光の中のカマドの姿が、一瞬で老人になったのだ。
「最後の希望よ……今こそ、使命を果たす時、だ。ちゃんと、話を聞いて、頑張るんだよ」
ヨボヨボの体になったカマドを包む光は煌々と輝く。それはこれから何かが起きることを暗示しているような、眩くも不穏な光。
「君が、ワシらの世界を、救うんだ……なあに、大丈夫。きっと出来るさ」
光の色は次第に薄くなり、やがて煙で見えなくなる。カマドの声は脳にまでハッキリ届き、しかしそれもかき消えた。
何がなんだか分からない。光の放出源となった目の前のカマドの姿。煙の中から少しずつ現れるそれは、しかしカマドではなくなっていた。その姿は、ぼくが知っている誰かに似ていた。
「――!」
有り得ない。その姿が誰なのか、ぼくは唐突に分かった。最後に見てから何年も経っているけど、それは明らかだった。
今、ぼくの目の前に立っているのは、間違いなくおばあちゃんだった。