06 心に火を灯せ
地下の牢屋は真っ暗で前が見えない。
だが貧しい生活をしてきたアサヒ達は夜闇に慣れている。
わずかな明かりを頼りに階段を登って地下から脱出する。
そこはまだ屋敷の中だった。左右に大きな木の樽が並んでいる。中央が膨らんだ円筒形の木製の樽は、子供の背より高さがあった。
かすかに匂うアルコール臭。どうやらここは酒の貯蔵庫らしい。
「!」
突然、前方に光が現れた。
アサヒはハナビの手を引っ張って樽の影に隠れた。
背の高い男がジョッキを持って現れる。男は酒樽の前にかがみこんで手にもったジョッキに酒をそそいだ。
男の肩には蜥蜴のような生き物が乗っている。蜥蜴にはコウモリ型の翼があり、長い尻尾の先には火が燃えていた。尻尾の火が懐中電灯代わりになっている。
「かあー、好きなだけ酒が飲めるなんて、ここは天国だなおい」
ひとり言を言って男は酒樽の前でジョッキをあおる。
息を殺しているアサヒの後ろで、ハナビが身動ぎする。
カタリ。
音が鳴った。
「……誰だ?」
気付かれた。
アサヒは酒樽の影から出る。ハナビには後ろ手に出てくるなと合図をして。男は見知らぬ子供の姿に目を細め、ジョッキを手近な樽の上に置いた。
「牢屋から出てきたのか。今ならサービスで見逃してやるから、牢に戻れ。俺の手をわずらわせんじゃねえぞ」
男にそう言われて、アサヒは怖がっているふりをして、後ずさって大人しく牢屋に戻ろうとした。
「待て」
男が制止する。
大股で近寄ってきた男は、よける間もなく、アサヒの肩をつかんで振り向かせ、顔をのぞきこんだ。
「小娘かと思ったら、坊主じゃねえか。なんで女装してる? ん?」
つかまれた肩が痛い。
男の剣呑な眼差しを見上げて、アサヒは少女のふりを諦めた。
「女装が趣味なんだよっ」
「んな訳あるか」
もっともな突っ込みを入れて、男はアサヒの胸ぐらをつかみ、壁に叩きつけた。背中を強く打ったアサヒは痛みに顔をしかめる。
「男なら多少怪我をさせても問題ねえなあ」
続いて蹴りを入れられてアサヒは壁際に転がる。
痛みに身体をくの字に折って咳き込む。男は冷ややかな目でそれを見下ろした。
「……止めて! アサヒ兄を殺さないで!」
ハナビ、出てきちゃ駄目だ。
だがもう遅い。アサヒが守りたかった少女は樽の影から姿を現して、男に向かって叫んでいる。影に隠れていてくれれば良かったのに。
一瞬、炎の中で逃げ出した思い出が脳裏をよぎった。
あの時、アサヒはミツキに守られた。だが、物陰から出てハナビのように叫んでいたら、どうなっていただろう。
アサヒは怖くて震えていた。
幼い頃の自分よりも、ハナビはずっと勇敢だ。
「はあ、兄? そういうことか。美しい兄妹愛だな。全く、役に立たない兄妹愛だけどな!」
男は吐き捨てて、アサヒを片足で踏みつけた。
「仲良しごっこなんて犬に食わせろ! 小娘、お前は女装好きな兄貴なんぞ見捨てて一人で逃げりゃ良かったんだ。それが正しい生き方ってもんだ」
男の言う通りだと、アサヒは思った。
かつてアサヒが物陰に隠れて生き延びたように、ハナビだって隠れてじっとしていれば良かったのだ。
この世界では、どんな卑怯なことをしても生き延びる方が正しい。
だから生き延びたアサヒは正しいのだ。
あの時、姉と慕うミツキにかばわれた時、物陰に隠れている他に自分にできることは無かった。出ていっても足手まといで、結局役に立たなかったろう。仕方がないことだったのだ。
なのに……。
「やだよっ、私はアサヒ兄と一緒にいる!」
少女は胸を張って訴える。
「私は逃げない! 苦しくても、つらくても、アサヒ兄と一緒にいたいの!」
アサヒはその言葉に頬を張られたような衝撃を受けた。
心のどこかで、アサヒは逃げた過去を正当化しようとしていたから。
「……子供は気楽でいいよなあ。反吐が出るぜ」
男は嫌なものを見るようにハナビを見た。
その表情を見上げながら、アサヒは自分の身体を踏みつけている男の足をつかむ。
「正しいのは、ハナビの方だ」
「あ?」
渾身の力を込めて身体の上から男の足をずらし、その足にしがみつく。
「俺やあんたは卑怯で弱くて、正しいことを貫けないだけだ! 本当はハナビの方が正しいんだ!」
男がハナビの元へ向かわないように邪魔をしながら、アサヒは怒鳴った。
「ハナビ、逃げろ!」
足元にまとわりつく子供に、男は舌打ちする。
「うっとうしい! アーガス」
『心得た』
男の肩に乗っていた、翼の生えた大きな蜥蜴が口を開ける。
蜥蜴ではない、竜だ。
小型化している竜はアサヒに向かって火を吐き出す。火はアサヒの肩を焼いた。
「うわああっ!」
アサヒは悲鳴を上げて男から手を離した。
炎の中で逃げ出した記憶は一種のトラウマになっている。あの時からアサヒは火に対して過剰に反応するようになっていた。
「手間取らせやがって。さあ、嬢ちゃんは牢に戻るんだ」
「いやっ、離して! アサヒ兄っ」
男はハナビに歩み寄って乱暴に腕を引き、地下へ降りる階段に向かって歩き出す。遠ざかるその姿を、アサヒは血の気がひく思いで見つめた。
『……汝に問う。情熱が伴わない正義に意味はあるか』
その時、低い男性の声が、幻のように響いた。
『死は終わりではない。それを知っていて、それでもなお生に執着するか? 我が盟友、我が半身よ』
誰だろう。
知らないのに、知っている。
どこか懐かしさを感じる声。
「……失敗するかもしれない。痛いのは嫌だ。傷付くのは嫌だ。死んだらまた生まれ変わるのかもしれないけど、この人生は一度きりだ」
弱いアサヒは動けない理由を思い付く限り列挙する。
どれもこれも恐れを抱くには十分な理由のはずだ。だが、言葉にする度に心のどこかが痛む。火傷の跡のようにじくじくと熱を持って。
『確かに。だが死は遅かれ早かれ、必ずやってくる』
声にアサヒの弱さを否定する響きは無かった。
静かな声には親しみと情がこもっている。
『痛みを恐れるな。傷付くことに怯えるな、我が半身。汝は独りではない、我がいる。さあ……心に火を灯せ!』
心に火を灯せ。
その言葉と共に、竜の火で焼かれた肩がチリチリと痛んだ。肩に手を伸ばすと身体の熱が手のひらに伝わる。熱い。
握った手の中に光が生まれて揺らめく。
生まれたばかりの金色の炎が、拳からあふれでて、肩を伝って酒樽に乗り移る。木製の樽は静かに燃え始めた。
炎は次々と周囲の可燃物を取り込んで広がり始める。
「この炎は竜のものか?! まさか坊主、貴様……!」
男は金色の炎を背負って立ち上がるアサヒを見て驚愕する。
「……正義って、正しいって何なんだよ! それが正しいと言われることでも、悲しい気持ちになったり、後で後悔することは、きっと正しくない!」
アサヒは炎が宿った拳を握りしめると、男に向かって駆け出した。
「アーガス、炎を止めろ!」
『駄目だ、私よりも力のある竜の炎は止められない!』
「うおおおおっ」
慌てる男に向かってアサヒは飛びかかる。金色の炎に動転した男は無防備になっていた。炎が宿った拳は男の顔を殴り飛ばした。