34 ユエリの困惑
どうやら天国には行きそこなったみたいだ。
見知らぬ部屋の天井を見上げて、かすかに痛みが残る腹部に手をあてる。ユエリはゆっくり起き上がって辺りを見回した。雰囲気からして、先日まで閉じ込められていたピクシスの城の別の部屋のようだ。
寝台は簡素だが清潔で、寝台の横の椅子には黒髪の青年が背もたれを抱き抱えるような格好で座って、うつらうつら船をこいでいた。
アサヒだ。
「……目が覚めたか?」
青年の、鮮やかな紅玉の瞳と目があう。
ユエリは彼を庇って死にかけたのだ。
「身体は大丈夫? 傷は治したんだけど」
「治した……貴方が?」
服には茶色く変色した血の跡が残っていたが、矢が刺さった箇所には傷ひとつない。自分の身体を見下ろして、どうやってこんなに綺麗に治したのだろうと疑問に思ったユエリだが、すぐに問題は別にあると思い直した。
アウリガの間者である自分は時期を見て処刑されるだろう。死を覚悟していたのに、また命を助けられてしまうとは。
「どうせ、死ぬのが遅くなっただけなのに」
「そんなことはない」
無駄なことをしたとアサヒに文句を言おうとする。
しかしアサヒは悪戯坊主のようにニヤニヤ笑っていた。
「ユエリは一度死んだから、今生きてるユエリは俺が拾った身元不明のお嬢様さ」
「何言ってるの? そんなことが通る訳が」
「通るよ。俺は炎竜王だから」
ユエリは一瞬、言われたことが理解できず、アサヒの言葉は右から左へ通り過ぎた。
「さっきヒズミに、学院の寮は老朽化のため取り壊すから俺とカズオミは出ていけって言われた。さすがに、ちゃんとした家に住めってうるさくてさ。ひどいよな。あの寮の古さは気に入ってたのに」
俺はネズミが出ても全然平気なのにな、とアサヒは溜め息をつく。
何を言われているかユエリにはさっぱり分からない。
「……」
「じゃあ学院の外に建物を借りて寮を作りたい、って話をしたら、自分でやれって言われてさ。仕方ないから明日、街に出て適当な物件を見に行く予定なんだ。あと、建物の管理や炊事洗濯に人手がいるから、ユエリにお願いしたいなと思って」
「……はい?」
「なあ、ユエリって料理作ったり掃除したりできるか」
当然のように進む話に付いていけず、ユエリは混乱した。
落ち着いて、話を噛み砕いて考えるとアサヒは自分に仕事を紹介してくれるつもりらしい。余計なお世話だ。
そうは思いながらも、混乱したユエリはポロリと素直に返事をしてしまう。
「できるけど」
もともとユエリは貴族の親戚でアウリガの王城に侍女として勤めていた。貧しい生活も金持ちの生活も両方を知っている。
返事をすると、アサヒの顔がパッと輝く。
「良かった! じゃあ新しい寮を作るのを手伝ってくれよ!」
期待を込めた目で見つめられてユエリは困惑する。
実際のところ、ピクシスの地下牢に捕まった時点で故郷アウリガとの縁は切れていた。特別才能があったり権力者の身内だったりすれば助けが来たかもしれないが、ユエリは一般人に近い。それに、敵に捕まった間抜けな間者をアウリガが再雇用してくれるとは思えなかった。
今のユエリは宙ぶらりんの状態だ。
「ちょっと考えさせて……」
「アサヒ様!」
その時、部屋に白い巫女服を着た女性が入ってくる。黒髪に薄紫の瞳の清楚な雰囲気の女性だ。彼女は腕にたたんだ衣服を抱えていた。
「女性用の服をお持ちしました」
「ありがとう、スミレ」
血の付いた囚人服を着ていたユエリに、その衣服が手渡される。ユエリはいよいよ反応に困る。
「ところでアサヒ様、先ほどのお話を私も伺っていたのですが、その新しい寮に私もお邪魔していいでしょうか」
「え? そりゃ人手が増えるなら別に良いけど、良いの?」
「はい、私も巫女見習いの頃は雑用をしていたので、是非お手伝いさせてください。お務めについては心配なさらず。私の仕事は竜王にお仕えすること、竜王のアサヒ様がいらっしゃるところ、そこ即ち王城です!」
スミレの言葉は突っ込みどころ満載だったが、幸か不幸か、突っ込める人間はその場にいなかった。
アサヒはスミレ本人が言ってるならまあいいかと流し気味である。ユエリは反応に困りすぎて、ちょっとの間、無我の境地に入ってしまっていた。
「竜王……?」
かろうじてユエリは会話の中で突っ込むことのできる言葉を見つける。
「誰が竜王ですって……?」
「俺オレ」
アサヒが自分を指差す。
その肩の上では、何故かヤモリが二本足で立ち上がって偉そうに胸を張って腕組みしていた。
ユエリはめまいがして寝台につっぷした。
「ああっ、大丈夫ですかユエリさん!」
「……何かの聞き違いか、アサヒが冗談で言ってるだけよね。ピクシスの炎竜王といえば竜王の中でも光竜王と並んで最強だという話なのに、アサヒの訳ないじゃない。何かの間違いよ……」
アウリガの竜騎士部隊を追い払った、情け容赦ないアサヒの魔術を見ていれば納得したかもしれないが、ユエリは残念ながらその時気絶していた。
彼女は色々混乱しすぎていて、うやむやのうちにアサヒのペースに乗せられてピクシスに留まることになったと気付いたのは、後日のことだった。
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