湯治に行こう! 後編
ハナビは温泉に入るのは初めてだった。
おっかなびっくり爪先をお湯に浸けるのを、周囲の年上の女性達は微笑ましそうに見守る。
アサヒの知り合いということで、火山の麓の街フォーシスに住む少女ハナビは特別にミツキ達に同行して温泉に入ることになった。素直で明るい性格のハナビはお姉さま方に好評である。
それほど時間をかけずに打ち解けた女性達は、世の中の女性が集まれば大体始まる話題、すなわち恋話に興じ始めた。
「ハナビちゃんは、気になってる男の子はいるの?」
「私はアサヒ兄が好きです!」
「まあ! とても素敵だわ!」
てらいなく答えるハナビに、ミツキは笑顔で手を打った。
「やっぱりアサヒは大人気ね。ふふふ」
ミツキにとってアサヒは、可愛くて自慢の竜王陛下だ。
弟のように大切な彼が多くの人に好かれているのを実際に耳にすると、嬉しく誇らしい気持ちになる。
お湯に濡れたミツキの銀色の髪は、水と同化するように滑らかな白い裸体に流れた。その美しさに、同じ女性ながらハナビや侍女たちは密かに羨望の溜息を付く。
髪に触りたいとウズウズしながら、ハナビは会話の続きで今度は逆に聞き返した。
「ミツキさんは、誰か好きな人がいるんですか?」
少女の疑問を聞いて、ミツキの周囲で控えている侍女達は顔を見合わせた。
侍女のひとりが口を開く。
「ハナビちゃん。ミツキ様は特別な竜の巫女なの。巫女姫は竜王に嫁ぐことに決まってるのよ」
「? 竜王様って本当にいるの?」
これが一般人の認識である。
竜王は伝説の中の人物。現実に出くわすことのない幻の生き物。
女王は竜王に仕える巫女であり、竜王の嫁ということになっているが、神様に仕える修道女よろしく実際は独身だというのが一般人の理解であった。
ハナビはアサヒが妹扱いしている少女なので、本当のことを言ってもいいかもしれないが、そこはそれ、竜王の正体は秘密と決まっている。
ミツキは曖昧にほほ笑んだ。
「……好きな人と結婚する。そんな自由が私に許されているのかしら」
「??」
街娘のハナビには到底、想像の及ばない世界だ。
首をかしげるハナビに説明せずに、ミツキは距離を置いて湯に浸かっているだろう男性陣を思い浮かべた。アサヒは実際、どう考えているのだろう。
ヒズミから思わぬ切り返しにあったアサヒは絶句した。
「ミツキが、俺の、婚約者……?!」
「驚くようなことか」
湯に浸かった年上の男は眉を上げてみせる。
彼の近くの岩の上では相棒の深紅の竜がうずくまって湯気に翼をかざしていた。主と同じ琥珀の瞳が眠そうに半眼になっている。本来の姿ではなく肩に乗るサイズまで小型化しているため、岩にちょこんと座った竜の姿は可愛らしい。
「俺が持ってる竜王の記憶では、竜王が女王と結婚しなきゃいけないなんて、無かったはず……」
「そうか。だがここ百年近く、竜王は転生していなかったからな。コノエ家は必死になって竜王を呼び戻すためにあらゆる方策を行った。その1つが婚姻だ。コノエ家の血筋同士で婚姻して竜王に近い者が生まれるように、ここ数代は女王とコノエ家の男子で結婚するようにしていた。ゆえにお前とミツキも、お前が竜王に覚醒しなかった場合も考えて縁組がされていた」
「えええ……」
裏事情を知らされたアサヒはぶくぶくとお湯に沈んだ。
王族、貴族のどろどろした血縁関係やら権力争いやら、考えただけで面倒だ。
「お前はもっとミツキを気遣ってやれ。世間一般に公開はしないが、お前とミツキの婚儀は数年以内に執り行うことになっている」
「ちょ、ちょっと待ち」
「結婚式まで見届ければ私も墓の下の両親に報告して、重荷を下ろせるというものだ」
「シリアス過ぎる、将来勝手に決めすぎ……キャンセルだ、馬鹿兄貴」
「何?」
遠い目をして淡々と語るヒズミに、アサヒは待ったを掛ける。
「竜王権限でいっさいがっさい、白紙に戻してやる。俺がルールだ!」
ザバンと水しぶきを上げてアサヒは立ち上がり、怪訝な顔をする兄に人差し指を突きつける。
急な動作をしたせいで、ヤモリが頭から落ちてボチャンとお湯に沈んだ。
「俺とミツキが結婚しなきゃいけない理由なんて、もうどこにもないだろ。だいたい、ヒズミはそれでいいのか? あんた、ミツキを自分の手で守りたいとは思わないのかよ!」
「……私が守る相手はお前だ、アサヒ。私は竜王の守護者だ」
「くーっ、頑固だなー! ミツキが好きだって認めないつもりか?!」
「何のことだかさっぱり分からないな……」
兄弟は睨みあった。
お湯の中から浮かび上がったヤモリがプカプカ水面に浮かぶ。
「譲らないんだな」
「譲らないな」
バチバチと二人の間で火花が散る。
様子を見ていたハヤテが手を打った。
「いやあ、いいねえ、兄弟喧嘩。どんどんやれ! 後で決闘でもするか? 竜王の力は使わない条件で」
「そんなの俺が負けるに決まってるじゃん!」
「戦う前から敗北宣言か。情けない竜王だ……」
「何だって?!」
この後、ゲームやら腕相撲やらで勝負したがアサヒの完敗で終わった。
幼少の頃から真面目に技能を磨いてきたヒズミに、どちらかというと遊んでいた期間が長いアサヒが勝てる訳が無いのである。
それはそれとして、婚約者の件は大人しくヒズミの言うままになるつもりはない。
兄弟喧嘩は水面下でしばらく続行されるのであった。