18 海底の底に潜むもの
水竜王を振り切ったウェスぺは、どこまでも続く大海原の上にいた。
果てのない紺碧の海を眺めてウェスぺは沈鬱な表情をする。
過去の竜王の記憶を持つウェスぺには、海に重なって、かつての地上の景色が見えていた。
遥かな昔、地上には人の営みがあった。
今よりずっと多くの人々が暮らし、多様な文化が息づいていた。
それらは海の底に沈み、泥の下で化石に変わろうとしている。
「私は取り戻すのだ。地上を人の手に……」
深い蒼をたたえた海神の玉をかざしながら、竜に海に突入するように命じる。ウェスぺの相棒である金色の竜王は、長い胴をくねらせながら海に飛び込んだ。水しぶきは最小限の、優雅で効率的な突入だ。
水竜王からくすねた海神の玉のおかげで、ウェスぺと従卒のルークは水の中でも息ができる。
海は底に行くほど暗くなっていった。
光竜王であるウェスぺは少しの違和感を覚える。
この闇はなんだ?
自分の知っている闇と同じようで違う、薄暗がりが迫ってくる。
闇の底で巨大な何かがうごめいているのが、かすかに見えた。
あれが目的の海竜王か。
「海竜王リヴァイアサンだな! 我が声を聞け! 私は……」
『……サンプルにない人類個体反応を確認。回収を試行します……』
滑らかで無機質で、ぞっとするほど冷たい声が耳元で聞こえた。
暗闇の底で光の波が起こる。
光はよく見ると無数の文字で構成されていた。
『……rebooting. Have a nice the end of the world……』
女性は更にウェスぺの知らない言葉で何か言った。
もし、これを聞いたのがアサヒなら、地球の記憶から意味を推測できたかもしれない。
しかし光の島で転生を繰り返していたウェスぺには、聞こえてきた言葉の意味は分からない。
分からないが、相手が自分の考えていたものと違うことは、ウェスぺも気付いた。
「何だ……?」
『ウェスぺ、我が友よ。あれは竜ではない』
ずっと沈黙を守っていた相棒が答える。
『あれは生物にあらず。意思あるものにあらず。光にも闇にも属さぬ、別の何か』
黄金の竜は水面に向かって上昇しようとする。
しかし、逃亡を遮るように、光の帯が黄金の竜へするすると伸びた。
「馬鹿な! 竜王たる我らが逃げきれぬと?!」
「ウェスぺ様!」
「下がっていろ、ルーク。強力な魔術を撃ち込んでやろうではないか」
光竜王ウェスぺは、本来はどちらかというと非戦闘派の竜王である。戦いに使える魔術を知ってはいるが、炎竜王や風竜王ほど戦いの勘が秀でている訳ではない。アサヒなら敵の脅威に気付いて、もっと早く撤退していただろう。
ウェスぺは精神を集中して、魔術の鍵詞を唱えた。
「内なる大気、外なる暁闇……神罰柱!!」
海中に銀色の光の柱が落ちる。
敵を問答無用で消滅させる、文字通りウェスぺの必殺技である。
「これでどうだ……!」
『……making antimatter……』
海底で光の波が踊る。
銀色の光は波にさらわれるように消え去り、海底から伸びる光の帯は、黄金の竜の身体に絡みつき、奈落の底へと引きこもうとした。
ぶくぶくと無数の泡が海底から立ち上る。
ウェスぺは自分が絶体絶命であることを、悟りつつあった。
「おのれっ……」
「駄目です、しゃがんで……!」
竜の背中に光の触手が伸びる。
咄嗟にルークはウェスぺを伏せさせて、自分がその上に被さった。
「ぐっ……」
「ルーク?!」
「言ったでしょう、ウェスぺ様。僕は地獄の底までお付き合いしますよ、って……」
光の触手に触れた背中から、解けるようにルークの身体が薄くなっていく。
「ウェスぺ様が一生懸命なのは、僕が知っている……あなたは僕の王だ。ありがとう、ウェスぺ様……」
最後まで、僕を、側においてくれて。
「ルーークーーッ!!」
ウェスぺは従卒の身体が解けた光を必死で掴もうとする。
その手が宙をきった。
「お前に、地上を見せてやろうと約束したのにっ! 誰も、見たことのない世界をお前に……」
『我が友よ!!』
「っつ!」
奈落がすぐそこに迫っている。
ウェスぺはギリギリと歯を食いしばって、海底をにらんだ。
「リヴァイアサン、いやもう何者か知らぬが、おそらく洪水と共に人類を食い荒らした災厄の魔物よ。貴様にルークの魂は渡さない! これは光竜王である私のもの!」
竜王は転生を繰り返す。
ゆえに目には見えない魂を扱う術を心得ている。
銀色の光がウェスぺを中心に舞った。
ウェスぺは神経を集中して、海底に沈んで魔物の口に入ろうとしているルークの魂を引き戻す。そして、手元の海神の玉にルークの魂を格納する。
「これで良い。アスラン、その名前をお前に返そう、我が相棒よ。竜の姿を解け。お前を空に逃がす」
『!! ウェスぺ、お前は』
「さあ時間が無い。行け!」
黄金の竜の姿がみるみるうちに小さくなり、光の帯が竜の身体から離れる。拘束を解かれた黄金の蛇は水面に向かった。
ウェスぺは海神の玉を胸に抱き締めると、最後の鍵詞を唱える。
「大封柱……もう何も貴様に奪わせない」
かつて他の竜王を封じた魔術を、ウェスぺは自分自身にかける。
そうすることで海底の魔物に食われずに済むからだ。
当然、自らを封じたウェスぺは海底で永遠の眠りにつくことになる。
これも因果応報というものか。
ゆっくり海底に沈んでいく感覚に身を任せながら、ウェスぺは自嘲する。
誰も自分を助けに来ないだろう。
他の竜王を敵に回してしまった、孤立無援のウェスぺには打つ手がない。
助けは来ない。
地上は海に飲み込まれたまま、人は大空を漂流し続ける。他の竜王はそれで良いと言うのなら、ウェスぺの努力は自己満足だったのだろう。
すべては無駄だったのだ。